第二十九話 ロシアンルーレット
破壊のもたらされた街区にて、警報が響き渡る。
普通、犯罪が起こるたびにこうはならない、その要件は多く存在しそのハードルを越えた事態は大抵の場合起こらないし、起こせるとしても起こすようなバカはいなければ、そんな必要に迫られることはまあ起こりえない。
しかし、暴力の独占が事実上不可能となった現代において、脅威の対応に相応しい実行力とその実行力を迅速に派遣するシステムは国家体制の維持に必須である。
秩序の維持に成功した日本も、例外ではない。
緊急事態に伴う超法規的措置の許可。
これは脅威の規模に合わせて迅速に処理するための制度であり、一定以上の──例えば、警報が鳴るレベルの被害を齎す──脅威については、時と場所、手段を選ばないありとあらゆる対応が自動的に許可される。
全てのヒーロー及び公的機関、国家はその時点で絶対的な権限を持つ執行機関となって、あらゆる道義的、倫理的な価値観に縛られることなく、認定された脅威の排除が認められる。
そして、今発令されている警報は、実際にあらゆる手段をとるべき事態を示す。
日本が首都においてこのような状態に陥るのは、嵐の怪異以降、初の事態である。
雨中の空を、赤い彗星が駆ける。
赤と黒のパワードスーツを身に纏い、火炎を放射して飛行する。いかにもな姿のヒーローである。
降り注ぐ雨が絶えず蒸発するほどの高熱は、馬鹿げた速度での飛行のためである。
「来たか」
雨中の空を先行して羽ばたくのは、蝶の翅を持つ異形である。
「現着した。で、どうする?他を待ってもいいが──」
火炎男は、ヘルメットに搭載された通信機器越しに仲間に聞いた。
その声は、緊張感に満ちていた。
判断にミスは許されないが、同時に素早くなければならなかった。
「いいや、相手が悪いな。雁首揃えてまとめてやられるのはうまくない。私が先に、様子を見に行く。そして、お前が叩け」
鮮やかな青紫の翅を振るって、彼は言った。
「……必要ならすぐに退避してくれよ、巻き込みたくない」
「すぐ逃げる、安心して全力でやってくれ、レッド」
雨中の空を先行するのは異形、派手な紫の翅を背に持つ長身のシルエットが急降下した。
立体駐車場に開いた穴より、そいつは降り立った。
人間の持つ一般的な形の目鼻立ちを持ったその人物の、視覚を保護しながらハイテクな通信機能を持ち合わせたバイザーに防弾防刃機能を搭載した装甲としての機能を持つパワードスーツという正装は、やはり典型的なヒーローの姿である。
華やかな見た目なれど、その手に携えるのは花に非ず。
大型の対物ライフルと帯刀したムラサメこそ、有事に際し最も頼りがいのある道具となる。
ヒーローは、現場の血痕と斃れたひとりの遺体と、壁にもたれかかり座り込む少年を捉えた。そして、銃口を向けた。
「……バイオレット・フライか……」
犯人は地面と壁に真っ赤な命をぶちまけながら、虚ろな極彩色の瞳で正義の執行者を捉えた。か細い身体はひどく冷えていて、震えと痛みに何かできることはない。
その到着は予想通りだったが、その身体は予想以上に疲弊していた。
カラーズとは、ヒーロー業界内で最も高い能力を持つチームのひとつであり、マコトを殺しに来たその一員は、実に著名かつ高い戦力の一人。
バイオレット・フライ、オオムラサキの異形である。
「街は、お前がやったのか」
バイオレット・フライが、ポニーテールにまとめた腰まで届く長髪を揺らす。
その圧倒的な美貌と美しい派手な翅から熱狂的な人気を誇る美形の、冷ややかな視線がマコトを捉える。
「そうだ」
少年は、頷いた。
「まあ、待てよ……殺す前に、公安を……伝えなきゃ、ならないことが……」
「措置の取り下げは指令されてない」
立体駐車場の遺体と戦闘の痕跡、少年の負傷から、大方の事情は容易に推測される。そのことは、互いに語るべくもないことだった。
特殊体質者による戦闘の巻き添え被害という例は、過去になくもない。
しかし、この規模の特殊体質者の安定した収容は困難かつリスクが高い。事実上、現場で死刑にするのが、最も合理的かつ現実に取るべき対処だが──。
「敵の情報が……それから……煙草くれ……寒い……寒いんだ……」
「……私に指図するな」
いつ死んでもおかしくない量の出血、痛々しい負傷の数々、街の惨状も頷ける壮絶な死闘の痕跡と、命より優先すべき事項を訴えかける光景という異常な事態を前に、裏に何も感じずに務められるほどヒーローは容易い仕事ではない。
「ホワイトワン。こちら、バイオレット・フライ。立体駐車場で瀕死の少年と男の死体を発見。その少年が自ら犯人だと……抵抗の意思はないが、敵がどうとか、公安を呼べとうるさい。緊急事態に伴い、排除は可能だが……リーダー、これは異常だ。とりあえず、出血がひどい、救急車か治癒系の能力者の手配を」
銃口を向けたまま、バイオレット・フライがバイザーから通信を繋いだ。
ヒーローとはパトロールの他にはイレギュラーの対応であり、それを可能とするのは法的に認められた現場の裁量の大きさである。
しかし、事態は既に現場の裁量を超えていた。
「待って!」
そこに駆け付けたのは、一人の女。
血まみれの衣服は負傷を思わせるが、それでも走ってでかい声くらいは出せるようだ。
「……何者だ」
銃口が、篠崎の方に向く。
「公安の篠崎よ、ヒーロー。ここは我々が預かる」
警察手帳を篠崎が見せた。
「……そして、Vの井山だ。そこの彼も同じく。貴方は、その意味がわかる側の人間のはず」
否、もう一人。
追いついて現れた井山は、バイオレット・フライを見るや否や極秘の組織、その名を明かした。
「そういう案件か。厄介な……しかし、現場の権限はあくまで我々にある、ここは黙って見ていてもらおうか」
緊急事態である。Vや公安だと言われたからといって、はいそうですかと簡単に明け渡すわけにはいかないというのは当然であった。今ここでは彼に責任があるのだから尚更だ。
「……こちら、バイオレット・フライ。リーダー、あなたの言う通りに来ました……はい?しかしですね、そう簡単に権限というものを……あー、はいはい、わかりました」
バイオレットが、通信先と話す。
リーダーからその指示があるなら事情は変わる。
不自然な指示も含めれば、すなわち察せということなのだろう。
「暗部なら暗部らしくコソコソやればいいものを、好きにしろ」
空気を読んだヒーローが、渋々と銃口を下した。
それを見て、篠崎と井山が少年のもとに駆け付ける。
「……」
それを眺めていた少年は、苦し気に息を吐いた。
「……煙草、ないか……」
マコトが焦点の合わないまま虚空にぼやく、まだ映画みたく死ぬる時期ではなさそうだった。
止まぬ雨が、街を濡らす。
そんな中、傘もささずに走る女が一人。
月下ユウはわき目もふらずに何度も角を曲がって、ゴミを転がして、複雑な道を迷いなく突き進む。
そして、そのすぐ直後に彼女を追って走るものの影が躍る。響いたのは獣の声。彼女を追うのは、3匹の大型犬である。
首輪はつけているが、リードはなく先導する飼い主の姿もない。とてもではないが、犬と無邪気に戯れる微笑ましい光景とは言えなかった。
走る。走る。走る。走る。一番に追いついた犬が、彼女に飛びかかった。
その瞬間、彼女がまるで知っていたかのように振り返りざまに手を伸ばした。ユウの袖が煌めいた。
彼女の袖から飛び出るように現れたバタフライナイフの切っ先が犬の喉に沈み込む。
そうして、すぐにナイフを引き抜けば、少女は身を低くして構える。
その指先は震えていたが、その目に迷いはない。大型犬の二匹目、三匹目は立ち止まれば、少女を取り囲んで唸っていた。
拮抗状態に見えるが、れっきとした戦闘訓練を経験している特殊体質者たる彼女に犬の二匹ではまるで相手にならない。だが、しかし、確かに拮抗状態であった。
まさにその理由である人物が、月下ユウたちが来た道から現れる。
現れたのは、月下ユウと同じ年頃の少女だった。
ユウとは違って、傘を差していたから、ずぶ濡れになる羽目にはなっていない。
二人ともに、はたから見れば普通の女子高生である。
「ツッキー、どうして逃げるの?」
親しげに少女が問う。問いながらも、傘を差すのとは反対の手が差し伸べられることはない。空いた手には銃身を切り詰めたショットガンが握られているのだから。
「……笹島……あんたこそ、そのつまんないごっこ遊びいつになったら卒業するの?」
ユウが鼻で笑って質問で返す。獣を放ち追い立てて銃を向けておいて問われるには、確かに笑える質問だった。
直接戦闘を得意とする特殊体質者や特に異形型には一般的な銃火器はほとんど役に立たない。それでも月下ユウのような特殊体質者には十分脅威である。
弱者を狩るには都合が良かった。
「水浦さんから聞いた。退転者の救済が何かは知っているはず。裏切りは人として許されないことよ。古斗野で何を吹き込まれたかは知らないけど、ツッキーがこんなでたらめに騙されるなんて……みんな悲しんでるわ。ねえ、目を覚まして」
笹島と呼ばれた少女が、ひどく落胆したような様子で言った。
「あんた、それで幸せ?本気で言ってる?」
月下ユウが問う。
「ええ、この教え以上のものはない。」
「他のことを知らないだけよ。十八なるかならないかのあたしたちが、何に殉じるか決めるには早すぎるとは思わない?こんなこと辞めて逃げた方がずっといいわ」
笹島が断言し、ユウが言い返す。
「……ヒーローだって、似たようなものじゃない。それに信仰に年齢は関係ないわ。ツッキー、あなたは頭が良いし、能力だって恵まれてる。他人にできないことができる。私なら、まだあなたを助けられる。話しをしようよ、友達らしく」
「助ける?噓が下手ね。それに、あんたは勘違いしてる。助けられるとしたらそれはあたしじゃなくて、あんたよ」
ユウがその言葉をきっぱりと切って捨てた。
「……」
「あんたこそまだ間に合うわ。これから、めちゃくちゃになるの。だから、その隙に逃げればいい。あんたやあたしみたいな小物いなくなったって誰も気にしない。それなら普通の人生を送れる。ちなみにね。凄く楽しかったわよ、普通って」
ユウがどこか楽しげに語れば微、笑した。
「特別でない人間なんていないとでも?そんな風に、無力感に打ちひしがれて逃げるようなあなたが、私から逃げ切れるとでも」
笹島が声を荒げる。
「確かに。威勢だけなら、敵いそうにないわ」
ユウが笑って頷いた。だが、その目は笑っていない。
次の瞬間、笹島が銃を向け引き金を引いた。それと同時に、足元からは猛犬二匹が嚙みつきに飛びかかる。開始のゴングである。
……否、月下ユウは知っているのだから、既にゴングは鳴っているも同然であった。
ユウは視えていた通りの銃撃をかがんで避けながら、握りしめたナイフで迫る犬の目玉を抉る。そして、空いた片手でポケットから素早く折り畳み式のナイフを取り出せば、更にもう一匹別の犬の顔を素早く仕留めた。
そして、ユウは間髪入れずにナイフの一本を振りかぶりながら、笹島に向ける。
その次の瞬間には笹島の手元で、ズドンと乾いた銃声が響く。
「っ……」
驚きの声を上げたのは、笹島。
その弾丸がユウを捉えることはなかった、投擲されたナイフが笹島の腕に突き刺さり、狙いの逸れた銃がそのまま弾丸を発射したからだ。
だが、反応はできても笹島の急所を捉えられないのは、姿勢や角度の関係の他に月下ユウ自身の限界だろう。大それたことは叶えられはしないのだ。
「この……っ……雑魚のくせに……!」
雨傘を落とせば腕から血を流しながら、笹島が恨めしそうにユウを睨んだ。
「お互い様よ、あんた容量軽いもの」
ユウは、未来の可能性を演算することで高精度での未来の推測が可能である。その精度は起こるまでの時間や要素等が深く絡む、絶対の予知はない。
しかし、例えばそれに関わるエネルギーの量──特殊体質者ならば、思念力の出力──が低いほど未来を推測する際の負担は軽く、実現に近づくにつれてより正確に、絶対に近い確度で未来を推測することができる。
「……クソ~っ!」
笹島が、腕に刺さったナイフを引き抜いた。
そして、ユウめがけて、銃口を向けて引き金を引いた。だが、ユウに弾丸は当たらない。既に、ユウが踵を返して走り出していたからだ。
未来の推測だけではない。銃口を向けられてなお、力みでなく脱力からなる加速で姿勢を下げながら走り抜ける教科書通りのフォームは、相応の訓練と胆力があって始めてなせることだ。
「モタモタしすぎた……!」
月下ユウが、路地裏を駆けながら悪態を吐く。
その背後から、追う者はいない。
だが、それでも彼女は既に来るべきもののおおよそが視えていた。
「仕方ない。ツッキーがこんなに面倒なんて……」
本来月下ユウを相手取るはずの蜥蜴の異形、西田は不在。監視と連絡役に過ぎない笹島が相手取るには、月下ユウは少々手強かった。
「目立ちたくなかったんだけど」
バサバサと異音が響く。否、それが、ひとつであれば異音ではなく、誰も意識すらしなかっただろう。
しかし、その数が何十、何百と折り重なった不協和音となれば話は別だ。
笹島に降りしきる雨が一時さ止む。それは遮られたからである。
何に遮られたのか。彼女の頭上。
「ツッキーの能力は推測、絶対的な予知じゃない。処理には限界がある」
鳥の大群が、薄暗い雨空を覆った。
「これなら、ろくな推測はできないでしょう?」
笹島も当然特殊体質者である、彼女は思念力を特殊な信号に変換し脳に送信することで動物を操ることができる。行える対象は動物だけだ。怪異生物や人間には行えない。
便利だが、強くない。替えも効く。矮小だが、便利ゆえに重宝される。そして、何より有利な状況で弱者を狩るにはこれ以上ない特殊体質である。
笹島が忍ばせた手榴弾を手に取れば思い切り遠投の要領で投擲した。
月下ユウを既に捉え切れていないのだが、問題はなかった。
手榴弾は烏合に弾かれて、投擲した角度に対して、よりユウに近い位置に、落下し……
「!」
ドッという爆発音が、街に響いた。
「……そりゃそうくるわね、シロちゃんならなぁ……」
ユウは、無事だった。手榴弾から離れるように咄嗟に飛び込んで伏せたのだ。
数メートルの距離、伏せの姿勢、それだけで死亡率は大幅に低下する。教科書通りの回避方法である。
彼女は爆発が終わった瞬間には愚痴りながら素早く立ち上がっていた。
「さすがに多い」
ユウは再び駆け出した。しかし、反撃の術はない。
彼女が頭上をちらと見やれば、そこには鴉、鳩、雀、様々な鳥の大群が空を覆うほどにいて、それはみなユウを追跡していた。
残念だが、こういうのは苦手だった。
視界に捉えた以上、能力の対象だが、しかし全ての動きの推測は無謀。
大雑把に投げられる手榴弾の軌道、どの鳥がどう動くかを即座に推測し、そのうち最も高い確率でこっちに来る大方の位置を予知するのは、この短時間では現実的ではない。その数、そして指向性が煩雑で運任せなだけ、起こりうる結果の無作為性は跳ね上がる。
推測の困難な出力の高い特殊体質者以外に、月下ユウが有利に振舞えないことがあるのならば、それはでたらめに多くの選択肢を作ること、もうひとつは選択肢のひとつひとつにある結果起こりうる可能性の重みをできるだけ近づけることである。
究極、運任せの博打以外何もできはしない状況では、月下ユウの特殊体質はほとんど意味をなさない。
それでもユウが今回攻撃を避けられたのは、手榴弾による攻撃が来るという事実は、自らの未来を推測し続けることで可能性を視ていたからである。
「……」
ユウは自らの未来を視て呟けば、まっすぐに走った。
甲高い鳴き声とともに、烏合は急降下がした。ユウが大まかに知った通りだ。そんな知っていた窮地に、悪態が出るはずもない。
ユウは無言で突き進んだ。邪魔をする烏合を前に、腕を振るって、かき分けるように突っ走る。
雨も鳥も邪魔も、背中を狙う銃口も、いつどこに来るかわからないが確かに来るとわかっている爆発も、彼女は何も気に留めない。ただ、走った。
笹島が引き金を引く。ズドンと銃声が響いて、ユウの傍らでばらばらな肉塊と鮮血が飛び散る。
何度も銃声が響き、その脇を弾丸が掠め、ユウを邪魔する烏合が眼前でばらばらの肉塊になる。
顔や服に鮮血と肉片がへばりついて、制服が真っ赤に染まる。顔の血を振り払って彼女はまっすぐに駆けた。
求める未来を見据えて。
そして、鳴き声、羽ばたく音、自分自身の息、雨、全てが一瞬にして引き裂かれるような感覚と同時に、ユウの視界が眩んだ。
手榴弾の爆発である。
ユウの数メートル前で起きた爆発の衝撃が、その身体を宙に浮かせれば、程なくして地面に叩きつけた。
烏合ごと巻き込んだ爆発が、血と肉片の雨が降らせる。
むせかえるような獣どもの血と臓腑の臭いが、雨に混じり合う。
ユウの耳が不愉快な高音だけを捉えて、肺はその呼吸の仕方すら忘れる。
乙女にそぐわない血と火薬に焦げた肉の臭いを洗い流すような雨が、冷たい地面に横たわる身体を冷やす。
ひどい寒さと苦痛をしかし少女は捨て置いて、めまいに揺れる意識を意志で以って働かせる。咄嗟に身体を回転させてサッカー選手みたく地面を転げれば、程なくしてユウを支えていた地面を弾丸が抉った。
「手間をかけさせる……」
ユウの少し後方に立つ笹島が言った。
笹島の血に濡れた手は寒さか痛みか緊張ゆえか、わずかに震えている。
震えながら、しかし、冷静に散弾銃に弾を込めた。
「……お互いにね」
ユウがゆっくりと立ち上がる。幸運にもナイフは変わらずその手にあった。
血に汚れた、厳重に着込まれた学生服が破れる。破れた制服の隙間からミルフィーユにされた雑誌と鉄板が零れ落ちた。即席のボディアーマーだった。
そして、それももうない。
「……っ」
立ち上がったユウがふらつく。彼女は足に走る痛みに、顔を顰めた。爆発の時、挫くか破片が刺さるかでもしたのだ。そして、彼女には今そのどちらであるかを確認する暇はなかった。
烏合が邪魔するように路地の両脇を埋め尽くした。二人の間を阻むものはなく、ただひどく狭い路地が更に狭く、動く場所の余裕はない。
ナイフを使うにはあまりにも遠く、銃弾を外すには近すぎる距離だった。
「……信仰なくして宿命に向き合い、人生を向上させることはできない。生まれついた宿命を昇華させることで豊かに生きられる」
笹島が訴える。
「ひとりひとりが宿命を昇華させていくことでいつかは世界の平和を実現することができる……雁野田さまなら、私たちのような特殊体質者もそうでない人も平等な社会を作れるわ。どうしてわからないの」
「宣伝に勧誘、タダ働きに献金が世界平和に繋がるなんて知らなかったわ。ホームページに付け足した方がいい」
ユウが煽るように笑った。
信仰を通して自らに向き合い、その転換をなすことが表向きの教義。立派なものだ、しかし、古今東西において信仰とは常に祈りだけでなく、実際には実態の伴った何らかの提供が暗に求められる。
そして、世の沙汰とは常に金と命の沙汰である。
「あなたが学生ごっこやってる間に、私がどんな活動をしてきたのか、何も知らないくせに」
「……予想くらい付く。能力から逃れられないのはあんたじゃない。」
ユウが答えた。
笹島の今日の役割は本来せいぜいが監視、しかし確かに凶悪犯罪の片棒を担いでいる。
矮小な能力ゆえに、彼女の帯びる使命というのは、重大な責任や役目もなく、ただ陰湿に監視するか、あるいはこうして弱者を追い立て、いたぶるのがもっぱらの仕事であろうことは言わずとも知れていた。
「向き合ってるのよ。そして、役立った。そうやって、組織に貢献してきたの」
笹島が言い返す。
「それで、あんたの人生少しはマシになった?組織のために犯罪だってして、正しいと思うの?」
「より大きな正義のためなら、法律なんて守らなくても許される。ヒーローや公安もそうじゃない、死んだ仲間は大勢いるわ。それに……あなたこそ、恋人を売った。そのくせ教団も裏切るなんて、自己保身しか考えてない卑怯者じゃない。それを、あんたがどの口で!」
ユウの追求に、笹島が声を荒げる。
「ええ、売ったわ。脅されていたとはいえ、人生で最悪の気分だった」
「外で不信仰者の男を作って遊んでいたもの……ざまあないわね」
憎々しげに、笹島は言った。
「……レイくんは罪のない、ひとりの人間よ」
その教えに不信仰者が劣るという文言はない。ただ、信仰者こそが人間的に磨かれた優れた魂を持っていると教えられている。
ユウには同じことだった。
「でも、そう、あたしは自分のために罪のない人間を、恋人すら売った。あんたに想像できるかしら?この世で最も愛しい人間を過酷な環境に追いやっておいて、のうのうと生きることの苦痛を」
ユウが静かに言った。
嫌味ではない。
それは純粋な疑問であり、挑戦でもあった。
「私はね、意味のあることしかしないの……あんたも本当はやりたくもないことをさせられてきた。気づいていないだけで、心のどこかで本当は別の道を欲していて、普通の生活を送りたいと思っていることが私にはわかる。だから、こうしてあんたは今銃ではなく言葉を使っていて、あたしはあんたと言葉を交わしている。なぜなら、本当は撃ちたくないって二人ともわかっているから」
それは、一種の揺さぶりである。
ユウは、よもや笹島が心を翻させた未来の可能性を視ているように語る。
確かに未来の視える人間が、この土壇場でどうして無駄な会話をするだろう。あるいは、無駄とわかっていても足搔くのが人の常だろうか。
「……私は、裏切らない」
笹島が硬直しながら、からからの喉から声を絞り出した。
「あたしたちはよく似ている。わかり合えるんじゃないかしら」
ユウの目はどこまでもまっすぐだった。間違いなく、その目は笹島を信じている。
「あんたにとってこれが重要な選択になる。そう望むなら明日は今日よりずっと良くできる、もしも、そうしたいと考えるなら、あたしの隣に立って欲しい」
ユウがそう言えば、ナイフを手放した。完全な丸腰になったのだ。
「私を騙そうとしてる」
笹島が、銃口を持ち上げる。
「……あんたが気に食わなかった。私はこっちで、汚れ仕事だってなんだってやってきたのに、能力に恵まれただけのあんたは外で遊び惚けた挙句、堕落して……たかがひとりの人間のために、それが気に食わなかっただけで、計画を台無しにした挙句、保身に走った」
「でも、雁野田さまの教えの通り、これだけ苦労してきたんだ、この苦労には必ず意味がある。愚直でも、それでも正しくまっすぐに生きるなら、報われる……だから、死んで。正義のために」
笹島が、その引き金に指をかけた。
「……そう」
ユウがゆっくりと後ずさる。目をつむり、穏やかに息を吐いた。
「残念ね」
ユウは目を閉じまま、呟いた。その瞬間を受け入れるように。
彼女は最後、穏やかだった。
轟音が、街中に響く。
──だが、それは銃声なんてちゃちなものではない。
訪れたのは、世界をひっくり返すような衝撃だ。破壊が、裏路地をひき潰す。
「!?」
ユウと笹島の間の視えない境界は、破壊と平穏の境界線。
その光景をユウが直視することはない。直視せずに済むために、目を閉じたのだから。
何者かの甚大な常識外れの攻撃。それが何なのか、ユウにはわきりきっていた。
風が人を慮らないように、地鳴りが赤子を起こさぬように静かに震えないように、雲が月を隠すのを申し訳ないと思わないように、ただ、その衝撃に遠慮はない。全ては無遠慮で圧倒的な暴力の前に台無しになる。
月下ユウは、初めからずっと笹島の動向に能力を使っていない。一切の可能性を視ていない。
試みていたのは、自分の直近の未来と詠航マコトの未来の演算である。
持つ思念力の出力が大きいだけ未来の予知に時間と労力がかかるなら、薬物による出力の一時的な低下は大幅にその容量を軽くした。葬儀中、絶えず能力による演算を行うことで稼いだ分も合わせれば、十分にその予知は行えた。
そこで詠航マコトによる甚大な攻撃の可能性を読み解いた時点で、ユウはそれを利用することに決め打った。軽い容量で視れる自身の未来の視点、その両方からの観察で、攻撃の範囲とタイミングを極力絞り行動、誘導した。
攻撃を凌ぐことは危険な賭けだった。自分の直近の未来予知のみでは危ういこともある。しかし、能力が割れているからこそ、笹島が無作為な攻撃に頼ることは考えれば予測できることだった。ならば、幸運を祈ればいい。勝ち筋はそれ以外ないのだから
「……言ったじゃない、めちゃくちゃになるって」
土煙の最中、ユウは一瞥もせずに背を向けた。
「……馬鹿ね」
ユウは、空を仰いだ。
彼女は笹島の未来の可能性など一切視ていなかった。共に来る可能性などあるかすら知らなかった。
それでも、そんな必要もなく、可能性の多寡なんてどうでもよく、その瞬間まで、確かにユウは信じていた。
「あんたも、私も」
否、どうやら信じていたらしいということに、彼女自身今気が付いていた。
人を真に愕然とさせるのは絶望ではない、あったかもしれない希望の潰えることだ。
雨は降りやまず、その頬を雨が伝う。
片足を引きずって、少女は薄暗い雨の中に消えていった。




