第二十四話 可塑と転回
ある統計では2000年代の日本全国の孤児のうち3割は異形の特殊体質者であり、特にその肉体が普通の人間とかけ離れた容姿である子どもの割合が非常に高い。これは人口比的に見ても明らかに高い水準である。
そして、2000年代に検挙された特殊体質者による凶悪犯罪のうち、異形型によるものが凡そ7割、うち8割は人間とかけ離れた容姿を持った孤独な異形によるものであり、特殊体質者による犯罪の半数以上が人間とかけ離れた容姿を持つ異形であることが明らかとなっている。これは、一般に思念型とされる特殊体質者の犯罪の検挙が困難である事を含めても高い割合であると言える。
また、一般に激しい競争心や攻撃的な性格を持つ高出力の特殊体質者であることと犯罪に関わりやすい傾向とには相関が見られない結果が出ている。
この統計は異形の特殊体質者は粗暴で潜在的に犯罪者になりやすい傾向がある……のではなく、差別と偏見に満ちた彼らを取り巻く劣悪な社会環境こそが、彼らを犯罪行為に走らせる原因であるという事実を示している。
日本では特殊体質者全体の犯罪行為は年々減少の傾向にある、しかし異形型による犯罪行為の減少幅は他のグループと比較して小さい。
西田コウヘイは親の顔を知らない。
物心ついて悩んでみようにも、そもそも親という存在を必要としたことがないので悩むことはなかった。
幸いにも器用であったし物覚えがよく勉強もできた。その上、施設では同年代の他の異形に比べても頭一つ抜けて一番喧嘩が強かった。いじめられそうになればいじめればよかったし、誰も逆らいはしなかった。少しばかり頭を使って暴力を振るえば大体何でも手に入る事を学ぶ頃には生き方は決まっていた。
醜い異形の子なら、敵にも事欠かなかった。そして、どんな敵にも負けはしなかった。大人も上級生も注意できなかったし、すれば然るべき対応を行った。心配されたこともないから何も怖いと思ったことはなかった。
成長すれば、施設長の紹介で真理救済教の水浦の下で働くことになった。
何せ金払いがよく、古斗野高校ヒーロー科に入学したのもその指示で金銭的な負担なしにヒーローの免許も手に入るからだ。
当初は教団のコミュニティを作ろうとしたがそれは流石にリスキーだと、優秀な人間やいじめても文句の言われない人間を退学にまで追い詰めてから助けさせて、古斗野や今の社会に恨みを持った人間を教団に家族もろとも入信させるという仕事の一部で役割を果たしていた。
そんなに上手くいくものかと常に西田は疑問だったが、あくまで追い詰めるのが彼の役割で教団にも相手にも興味がないので、金さえ手に入るならどうでもよかった。
当時の古斗野高校は、教員の不足や特殊体質者の管理の困難さ、過激化する競争による蹴落とし合いと報復の連鎖、閉鎖的な空気感、小さな不祥事ひとつ表に漏れればマスコミや自称市民の代表者に徹頭徹尾に攻撃されることから、個々人の指導力では解決困難なジレンマに陥っていた。隠蔽せざるを得ないのなら、明らかに一線を越えた悪さをするのにこれ以上都合の良い場所はない。
そのために一年かけて誰にも邪魔されない地位を確立した。
周りは西田に金を払ってまで蹴落とすように依頼してくれるのだから都合がよい。
そんな中、ようやく訪れた初仕事。
そこによりにもよって現れたのがあのお邪魔虫だった。
物語のように正義が必ず勝ちなどしない。そんな現実がカウボーイ気取りを叩き潰すはずだった。
しかし、西田コウヘイは忘れていたのかもしれない。
悪なら勝てるわけでもないということを。
「なんなんだ!」
跪いた西田が叫ぶ。
その異形を見下ろす極彩色の瞳は、ひどく穏やかだった。
「てめえは……!」
心の底に渦巻く悪寒を誤魔化すように西田は叫んだのだった。
これは正しい摂理ではない。
常に彼は捕食者であり、そして他者とは常に獲物か、利用する価値の有無以外に違いのないつまらない道具でしかなかった。
だが、そいつは何にも当てはまらない。
次の瞬間、西田の頬を貫くような思念力が掠り、背後のコンクリート壁を貫いた。
「どうでもいいだろ、お互い」
「でも、気に食わない。だから、次悪さしたら殺す。お前も、お前に頼んだ人間も」
「いつ、どこにいても絶対に殺す。逃げたら追いかける、隠れれば見つけ出す」
「泣いても、詫びても、許さない」
「……今、ここで殺せばいい。後悔するぞ」
「それでも、あんたはまだ殺しまではしてない、俺にあんたの命まで奪う権利はない。だが、次は許さない」
翌日、西田に依頼した生徒達はある一人に授業中に執拗な暴行を受けた挙句、校舎の窓から叩き出されることになる。名前を言うまでもないその犯人の処分は一週間の自宅謹慎と非常に軽いもので済んだ。被害者側の生徒の抗議が聞き入れられることは一切なく、形だけの処分であることは自明だった。
それ以降、西田が古斗野高校で悪事を働くことはなくなった。しかし、これは詠航マコトを恐れたからではない、可能な環境では無くなったからだ。
古斗野高校はあり方を変えざるをえなくなり、その環境は入って日の浅いグレートスパイダーこと俵なる教員が中心となって改革される。一種の組織的な犯罪は不良行為として警察の捜査が行われ徹底的な指導が行われた。管理はより強固となり、定期的に抜き打ちで行われるプロの捜査によって環境は劇的に改善された。
事情を誰かが話すことはない。しかし、察しの良い生徒は理解っていた。
詠航マコトという、そもそもヒーローになる気もなければ欲もない。利害関係その他の全て飛び越えて、気に食わないだけで命懸けの模擬戦を吹っかけケジメを付けた途端に「次は殺す」と高らかに公言し依頼した人間にすらどうにかして調べて襲撃するような、比喩ではなく次は本当に殺人に踏み込みかねない人間が現れてしまった。
結果を得るための競争はエスカレーションすればいつしか競争のための競争となり、それが辿る末路は破綻であることを、何も求めていない破綻した人間を前にようやく皆が気付いた。
ヒーローを目指す若者たちの過酷な競争と蹴落とし合いは、最後の段階を踏むことなく終わりを告げた。
風通しが良くなれば当初の計画が破綻した。教団との仕事は水泡に帰した。
暫くやっていなければ頭も身体もなまるものなのだろうか、不思議とやる気の出ない西田は卒業してからも静かに暮らしていた。欲しいものは何でも手に入れて好きに生きた分、男は欲というものに縛られることすら無くなっていた。
わずかに連絡を取り合う友人を除いて他人と関わることはなくなったが、穏やかに働き、独り静かに過ごすだけでも西田には満足だった。
ある日、西田が夜の路地をたまたま通りがかった時の事だった。
彼の目の前には、顔に痣のある女児を明らかに家族ではない男が押し倒していた。
「ま、待ってくれ。俺も能力者だ!ならわかるだろう?!黙ってくれたら、何もしない!ほら、お前が先にしてもいいから──」
「ああ」
西田にはどうでもよかった。
押し退け踏み潰してきた人間の数など数えればきりがない。
「そうか」
だが、そんな彼でもコレと人間と同じと扱われるのは屈辱であり、侮辱ですらある。
次の瞬間、逆鱗に触れた男は首をへし折られて死んだ。確かに特殊体質者ではあったようだが訓練は受けていない素人では、西田を相手取るには話にならなかった。
子どもを保護した西田は警察に通報し、殺害を自供した。
どう裁かれようとどうでもよかった。異形がろくな扱いを受けないと期待はしていなかったし、塀の向こう側には知り合いも大勢いた。だが、西田は一切裁かれはしなかったし、誘拐された子どもの両親には泣いて感謝された。
西田には変わらずどうでもよかった。世間から賛辞を贈られても、何ら響かなかった。物心つく前から諦めていたものを今更手に入れた所で嬉しくはなかった。だが、元気に笑う子どもをみて心のどこかで満足感を抱いた。
男の生活に変化が生まれた。
近所の人間と付き合いができるようになった。なんてことのない雑談をするようになった。子供向けのテレビ番組を観るようになった。他人が手作りした温かい料理を食べるようになった。笑うことが増えた。
しばらくした、ある雨の日。
西田に恨みを持つ不良集団が一家を襲撃した。
いつ何をやったのか、西田は名前を調べるまでは覚えてない取るに足らないと思っていた相手だった。その家族は全員殺された。ガソリンのお陰でその小さな家はよく燃えて、燃えカスだけが残った。
西田には何ら意味を持たないたった何発かの銃弾が、全て台無しにした。
その暴力は凄惨で陳腐でくだらなく、くだらない報復で贖ったがそれは大きな意味を持つことはなかった。
男は姿を消し、元通り誰とも関わらない孤独な生活に戻った。
前と変わらぬ生活はもはや死ぬほど退屈だった。
「こんな機会が訪れるなんて、正直驚いてる」
西田は天を仰げば言った。雨はしばらく止みそうにない。
遠くで走り抜ける車のライトが奥まったビル間の袋小路をチカチカと照らしては、過ぎ去ってゆく。
後に残るのは、獲物と捕食者だけだ。
「まあ、悪く思うな。お前はどうせ殺される」
「……嫌われた、もんだな……」
西田の言葉に、マコトは苦しそうに答えた。
「ああ、死んでくれ」
次の瞬間、西田はマコト目掛けて前蹴りを浴びせた。
咄嗟にマコトが交差させた腕にゴシャッという音と共に西田の剛脚がねじ込まれる。骨や内臓にまで響く衝撃は軽い交通事故じみていて、その衝撃はマコトの凭れるコンクリート壁が破壊されるだけでは飽き足らず、吹っ飛ばされた被害者はビルの外壁を破って、中にぶちこまれる羽目になる。
「弱った、な……くそ……」
「何もできねえってわけでもないか」
マコトが愚痴り、西田が舌打つ。
マコトは身体に思念力を纏う基礎の動作をなんとか行える、しかし普段の化け物じみたパワーは発揮できないようで簡単に押し負ければ普段よりも受けるダメージは大きい。
実戦用に調整されたスーツを着ているので幾分もマシだったが、守り切るには心もとない。
「だが、すぐに終わる」
マコトは鞄を手放せば立ち上がり両腕をあげガードの姿勢をとった。対する西田は猪突猛進で、それよりも素早く接近する。
西田の軽いジャブがマコトをガード越しに揺らし、それだけでマコトは体勢を崩される。西田の長い尻尾が彼の足元を払えば反応はできても体勢を崩した状態では躱せず、たちまち崩され転ばされてマコトは蹴り飛ばされて、地面を転げる羽目になる。
「……」
うつ伏せのまま、両手を地につけマコトは立ち上がろうとする。だが今ここでするにはその動きはとても緩慢だった。
焦点の合わない目を必死に合わせまとまらない思考を強引にまとめるようにしてこの状況を自力で打開しようと試みるのは、思い通りに動かない故障しかかった産業機械を感覚だけで無理やり動かそうというほどの無謀だ。
「こんなものか」
西田は呟けば、うつ伏せのまま両手を地につけ立ち上がろうとするマコトに迫り、腕を大きく振りかぶった。
「っ」
到底間に合いそうにもない。
ゼロ距離にまで異形が迫る万事休すと思われたその時、マコトが西田に片手を向けた。
バチバチと迸るような力の奔流は既に収束し、一点の指向性は指先から放たれ──西田の胴体に直撃した。
その一撃は西田の衣服に穴を空け、衝撃が炸裂する。
「本調子なら、ヤバかったかもな」
露わになった鱗には微かな傷がついた。
そして、それ以上のことはなかった
「……まじかよ」
マコトは思わず、驚嘆の声を漏らした。
自慢の攻撃力は見る影もなく弱体していた。
「軽かったぞ!」
西田が叫んでマコトを蹴り飛ばせば、彼は壁に叩きつけられた。
「っ…………」
マコトの額から血が流れ出る。
また保険医兼V所属の女医、弦村に文句を言われそうだった。あるいは、彼女が愚痴をこぼしながら死体からまだ新鮮な脳味噌を取り出すのだろうか。いや、死体も処理され誰も何も知らぬ間に死ぬのだろう。
何ら消耗していない西田に対して、マコトはその身を壁に預けながら震える体を何とか立たせるというこの有様は到底戦いとは呼べなかった。
「……くそ」
ふと、マコトがその視線を下す。と、そこにはひらり地面にこぼれ落ちた一枚の黒羽根があった。
追い詰められる最中、うっかり落としたのだろう。
「模擬戦やるにしたって……西田先輩にどうやって勝つのさ」
マコトがどこからか聞いたのは羽黒レイの言葉。否、実際には声が聞こえたのではない。彼は今、死を前に思い返すかつての出来事を幻聴に錯覚していた。
「……僕、今のマコトじゃ、勝てないと思う」
嘗てのレイの言葉に、今この世界で誰も注目していない寂れたビルで殺されかけているマコト本人は苦笑した。
耳が痛い言葉である。その通り、今この瞬間は当時よりも勝ち目がないのだ。
西田は先ほど、マコトが能力を使ってくることも予測した上で猛進の姿勢をとった。もう少し慎重な姿勢ならば、躱せるかせめて腕で防御くらいはできた。これは出力が下がっていると理解しての行為だ、決死の反撃に何の意味も持たないと刷り込んで戦意を削ぐために食らって見せたのである。
防御力の高いヒーローがあえて敵の攻撃を受け止めて、その効果の無さに心を折るという手法が実在する、彼はマコトの憔悴に乗じてより確実に殺すために意思を挫きにかかったのだ。
そして次には西田は先ほどよりも慎重に立ち回り、その図体に似合わない身のこなしで見事に回避すらして見せるだろう。
マコトがそこまで読むことすら、織り込んでいるはずだ。
「君はパワーもスピードもあるし、遠距離攻撃もできる。けどスタミナがない、それに戦いのレパートリーがまだ……例えば、真っ直ぐ撃つ以外何かないの?」
打つ手はなかった。
「攻撃一辺倒より、寧ろ防御とか……一緒に考えるよ、僕の方がヒーローに詳しいみたいだし」
西田がこぼれ落ちた黒羽根を踏みしめた。
「……」
マコトは視線をあげて、目下の現実を再度直視する。
月下ユウがマコトに託した黒羽根が、何か力を持っていたり奇跡を起こしてしまったりなんて展開にはどうにも期待できなさそうだった。
寧ろ、彼の身体に異常が起こったのもこの羽根に触れてからのこと、重要なものとは常に弱点である。
「そうか……月下か……」
マコトがぽつりと呟いた、今更気づいたところで意味のない事だった。
「……どうした、さっきから……ぬるいぜ……さっさと殺れよ」
マコトは眼前にまで迫る西田を睨みつけて言った。
「俺はしばらく引退していたんだ、環境は人を変えるものでな」
西田が口を開いた。
「大人しくするのは、別に悪くなかった。刺激は少ないが……また別の良さがあった」
「だが、俺の人生はそこになかった」
「……そりゃ、ご愁傷様」
何があったのか、マコトは関係もなければ知る由もないのだから同情もしようがない。しかし、心の底からの言葉ではあった。
人は変わったつもりでも、これまで積み重ねてきた自分は変えようがないのだ。
「潰すか、潰されるか、それだけでいい。お前を殺して、俺は完全に戻る」
「俺を殺せば……都合よく戻れるとでも……?」
マコトが問うた。
それこそ希望的観測である、人間は変わりたい時ほど変われず、気が付いた時には手遅れになるほど変わっているものだ。
「どうでもいい。戻るまでやる。俺は奪えるから奪う。奪いたいから奪う」
「それだけだ」
「……奪ってみろよ」
西田を前に、マコトは構えた。
彼の極彩色の瞳を捉えた西田の全身に、僅かに緊張が走る。
その目が、諦めた人間の目ではなかったからだ。
「死に損ないが」
西田が掌を開きその指を鋭利にして構えれば、その命を奪わんと明確な殺意で以ってマコトの胸を目掛けて突き立てんと振るう。
「……考えたのは、あいつだった」
直線的に放つことはできた。貫く弾丸のように、あるいは叩き壊す鉄拳の衝撃のように、もしく達人が切り裂く斬撃のように、慣れさえすれば自在に使い分けられるだろうと理解っていた。
それは数多の模擬戦、そしてあの事件では戸破、鬼蜻蜓の致命的な攻撃から幾度となくマコトを救った、奪う為ではなく──身を守る技術。
圧倒的な出力での制圧を旨とするマコトとは対極的な発想は実にヒーロー的な、コペルニクス的転回とでもいうべきか。
「辻風」
言葉と同時に、詠航マコトを中心に力が渦巻いた。
決まった形に放てるのならば必然、竜巻が弧を描くように自然界に存在する螺旋の軌道を描くこともまたできるのだ。
螺旋する力場は素早い攻撃にこそ、逸らすという効果を絶大に発揮する。
例え相手が力強くとも、その力の流れに逆らわず受け流す軌道に乗せてやれば実に容易く必殺は逸れ、辻風はその刹那、紙一重の回避と絶対的な隙を生み出す逆転の神風に昇華する。
普段の絶大な出力を喪っていても、その本質が変わることは非ず。
突き立てられた一撃は、辻風に巻き込まれればマコトの急所を外し僅か隣りのコンクリート壁を深く抉らせた。
「それは、まだ使えたか」
既知の技を前にして、西田は何も恐れず嘲笑う。
技術は確かだ、だが、物事には限界がある。二年前に比しても遥かに貧弱な出力では体勢を崩すほどの効果はなく、ほんの一瞬ばかり彼の寿命を引き延ばしただけに過ぎない。
「だが、続くか?」
これは訓練ではない。相手の命に指をかけられぬ限り死の末路に変わりはない、西田は深く壁をえぐったその手でマコトの胴を掴み捕らえれば、高々と持ち上げた。
西田の凄まじい握力にマコトの肉が歪み骨が軋めば、彼は低く苦悶するように唸りながら逃れようとじたばたと暴れるがその望みは叶いそうにもない。
「これで、終わ──」
西田がもう片手を振り上げた、その時。
「終わりだ」
詠航マコトが深く笑う。
彼の手元で、カチッという音が響いた。




