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第2章 「首都不明攻撃事件」
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第十九話 早く咲かば

 痩せた長身の男が、両の掌を叩いた。

 ぐにゃと目の前の空間が歪めば、その空間の先に足を踏み入れる。

 その先はまた別の廊下、目の前には目的の部屋の扉が鎮座している。


「……クソったれ」


 客人の元へ向かう水浦の顔には緊張がひた走っていた。

 仕事の都合上仕方なく会いはするが、できれば会いたくない人物というのは誰にであれいるもので、そういう部類の客人の相手をする羽目になったという訳だ。


 扉を開けば、水浦は応接室に足を踏み入れた。

 部屋は小綺麗で使用感がなく、壁と天井は真っ白で天井は妙に高くそれがどうにも気色悪い。

 真ん中には応接室らしくソファや椅子が並べられ、そしてそれ以上のことはない。……いいや、何度も見ていれば慣れるだろうが、普通の感覚で言うならば変わった所、妙な点があった。それは、その部屋には太っているという特徴以外はさして変哲のない男……教祖、雁野田畢竟の写真が飾られている事だろうか。

 それが嫌でも視界に入れば、それとなく機嫌を悪くしながら男は部屋に入る。

 無茶な目標、完璧には程遠い応接室を強要されるのは大抵の人間にとって愉快な事になりようもなく、これは水浦にとっても同じだった。


 部屋の中には、男が二人。

 一人はソファに腰掛ける事もなく立ったまま待っていたようだった。

 ダブルライダースを羽織る彼は今時の伊達男というような風貌であるのだが、それよりも遥かに目を引くのは腰に帯びた刀ムラマサであろう。客人と呼ぶには実に物々しい格好であった。


「客をこんな奴と待たせるとはな。水浦」


 雑誌でモデルでもやっていそうなスタイルとスマートな顔立ちの彼はウェーブがかった黒髪を揺らせば、憮然として鼻を鳴らす。

 水浦は、それを見て感じた不愉快さを包み隠さず顰め面で表現した。


「こんな奴?お前にだけは言われたくない、それは私の台詞だ。なあ、水浦、その能力で遅刻か。私の一秒に一体どれくらいの値打ちがあると思っている」


 もう一人はソファに腰掛けたまま、出されたコーヒーに手をつける事なくそんな言葉を溢した。

 この男は恰幅がよく、そのソフトモヒカン頭からしてどこぞのサラリーマンという風体にも見えた。しかし、サラリーマンと呼ぶにはやけに仕立ての良い茶色いスーツを着こなしているから、この場合はやり手の実業家か社長だろうか。

 おまけに金の高い腕時計をわざとらしく指差してはつらつらと喋るあたり、親切なのだろう。

 水浦はこれを見て愉快な顔をしなかったし、彼は当然誰が見たって良い気分には見えなかった。


「そうだ。口を慎め、岡田。俺は今苛立ってる……それになんだそのムラサメは、武器の持ち込みは規則で禁止だ」


 水浦は実に不愉快そうに岡田を睨んだ。


「嫌なら警察を呼べばいい。まあ、そう神経質になるなよ、久々の再会じゃないか」


 岡田はにへらと笑い、肝心の所を答える事はしなかった。


「狂犬に出会して誰が喜ぶか」


 恰幅の良い男が言った。


「平柳、それを言うならお前の方がよっぽど気色が悪い。しかし、ここの連中はいつもつまらん。いつも小さくまとまろうとする、教祖様のアレを見習えよ、女共が喜んでしゃぶるぜ」


 岡田は教祖の写真を一瞥して、くすくすとわざとらしく煽り立てた。

 軽蔑しきったように笑う彼だが、しかしその目は笑っていない。


「口には気をつけろ、聞かれれば面倒になる。特に雁野田()についてはな」


 水浦が途中で──と言っても大分遅いが──遮るように言った。


「ジョークだ!笑うとこだろ?」


 実に敬虔な男、岡田は一層、口元を歪ませる。そして、今度は心の底から愉快そうに笑った。


「くだらない……」


 恰幅の良い男、平柳は笑う男を蔑むように呟いた。


「そういえば、清美はどうした?呼んでいないのか、最後に会ったのはもう何年前だろう」


 ひとしきり笑った後、岡田がふと思い出したように水浦に問いかける。

 その口調はどこか茶化すようだが、しかし清美なる人物のいない事はさぞ残念らしく、彼は面白くない顔を見せた。

 まるで楽しみにしていた遠足の日に土砂降りを喰らって、授業を受ける小学生のようだ。

 

「呼べばよかったよ。アイツはお前を殺したい程に嫌ってるからな」


 残念がる岡田を前に水浦が嫌味ったらしく、同時に呆れ半ばに答えた。


「なら、次は呼べ」


 水浦の嫌味を聞いて、岡田は深く笑う。


「無駄話をする為にいい大人が集まったわけじゃないだろう。それとも、この私の貴重な一分一秒をこれ以上無駄遣いさせる気か。私はお前達と違って、まともな仕事もやっているんだ」


 平柳が高級な時計に目をやれば、一向に建設的な会話の始めない二人を急かすように口を開いた。


「だそうだ、状況と仕事を教えてくれ」


 先ほどまでの振る舞いは棚に上げて、岡田が肩を竦めた。


「状況は良くない。一つはヤクザだ、柞山会と揉めている。雇った連中の起こしたトラブルが原因でこっちまで巻き込みを喰らった。つまり、報復がありうる……これは他の用心棒共に任せてるが留意してくれ」


 これはまごう事なき悪いニュースであった。これを伝える水浦の口調は重く、これを聞かされた平柳の表情は当然曇った。対して、岡田だけは無表情で淡々と聞いていた。何か考えているようにも見えたが、その腹の底を読めた試しが、少なくとも他の二人にはない。


「そして、察しがつくだろうが先日の電車襲撃事件を起こしたのは我々だ。その目的は古斗野高校ヒーロー科三年、羽黒レイ。黒翼を持つ未覚醒の二重体質者。雇った連中に横取りされたコイツを取り返す」


 水浦が懐から二枚の写真を取り出せば、テーブルに放り、その一つを指差した。

 平柳がそれを眺め、岡田が覗き込む。写真のひとつには、黒髪と黒い瞳を持ち漆黒の翼を携えた少年がピースサインで写っていた。

 写真を眺める平柳は目を細め、岡田は眉ひとつ変えなかった。


「……私は金では動かん。勿論、部位は指定させてもらうぞ」


 写真を眺めながら語る平柳に、水浦がチラと視線を向ける。

 平柳は、ひどく穏やかな表情をしていた。それはまるで絵に描いた好好爺のような、獲物を前にした獣のような貌のようだった。


「ああ、部位によってはその内の全部とはいかないが、善処はする」


 ため息とも返答ともつかないような息を吐くような返答を交えて、水浦は答えた。


「構わない。で、獲物はどこに」


 平柳が問いかける。


「──戸破という男とその一味といる。売却先の特定次第連絡するが向こうもバカじゃあない。しばらくは手を出さなくていい」


 戸破一味も、何も考えず高値で売り払うような事はしない。真理救済教、そして彼らの起こしたトラブルである


「いいだろう。素材が手に入るなら私はどうでもいい」


 平柳も敢えて深掘りする事はなかった。


「こっちのガキは何者だ、目的は二重体質者だろう?」


 岡田が指差したその写真は、集合写真を拡大したものだろうか。やや不明瞭な写真であるがそれでもこれ一枚で人相は十二分にわかる。

 白にほんの僅かな淡い桃色を重ねた髪、やや長いミディアム程度のふんわりとした髪型で、極彩色の瞳を携えた──顔つきからは少年とも少女ともつかないが──学生服の特徴からして男であろう人物がそこには写っていた。


「……コイツはそこらのヒーローより腕が立つお邪魔虫だ。古斗野に入れた連中がコイツのせいで失敗した事に始まり、電車でも邪魔された。その上、コイツは羽黒レイと親しかった……偶然と見るにはできすぎだ」

 

 突発的かつ圧倒的な暴力一つで何もかもがひっくり返るのは世の常であるが、いざ好き勝手暴れられて作戦を吹っ飛ばされれば、怒りが湧くのは当然の話か。

 言葉にして思い出すだけでも憎らしいのだろう。男は実に忌々しげに吐き捨てた。その目には暗い悪意が灯る。


「これを機に手加減抜きで始末する」


 水浦は一息置けば、冷徹に抹殺を宣言した。


「学生だそうだが、本当に強いんだろうな」


 岡田が腕を組んで問いかけた。彼にとり、重要なのはそこであった。


「さあな、警察筋の連中に当たってみたが何も出なかった。だが、実力は確かだ」


「そうか。お前達の買い被りじゃなきゃいいが」


 断言する水浦のその目を、岡田が注意深く観察した。信用はならないが、その目の語る所であれば、彼の怒りに嘘はなかった。


「戦ればわかる……ああ、死体でいいができれば脳味噌は無事がいい。記憶を見たい」


「……寮生か?それなら少し手間になる、あそこは凄いぞ」


 古斗野高校の寮となれば、それはそれは面倒だろう。岡田は、楽しげに呟いた。

 古斗野は国立であるがその運営はエキセントリックとも言うべきで、安全牌を切るような手法よりも大胆で斬新な、つまり頗る強気な運営を確実に充てられる大量の予算を前提に押し通している。

 政治的な意図もあるのだろう。敢えて校舎から離して設置し、広い土地、パトロールを始めとした警備などに必要な人員を要求する事で、彼らは事実上緊急時に一定の機能を持つ基地の増設と特殊体質者の囲い込み、雇用創出を実現していた。


「残念だろうが、自宅だ。一人暮らしと聞いてるが古斗野の個人情報管理は厳しい、今は調べる手間も暇も惜しい……だが、来る場所と時間がわかってる」


 呆れ顔で水浦が告げた。

 当然、訓練を受けた特殊体質者が屯し、しっかりとした警備の付く場所に突っ込むのは論外である。


「電車襲撃事件でコイツのクラスメイト、羽黒レイは公的には死んだ事になっている。葬儀の帰りを襲え」


 相手の背後に何らかの組織があるのならば、付き纏うような形で家を特定するなんていうのは寧ろ不確実で、途中で露見するリスクも高い。

 それに水浦には内部の人間から提供された情報がある。羽黒レイ相手にもそうしたように、詠航マコトに関しても同様に先回りできる。

 戦力は十分で情報もあるならば、慎重になっても仕方なし。道端で突然襲ってしまうのが上策。

 一から敵を知り追いかけ回して捕えたり攫う事を思えば、段取りも作戦も格段に単純だった。


「……詳しいのはいい事だ。だが、来なかったらどうする?仮にこっちの人脈で見つけられないような暗部の人間なら、顔が割れたならまず外出しない。そう簡単に尻尾を掴めるとは思えない」


 岡田の指摘は理に適っている。

 確かに、事件の生き残りでしかもそれが事件の裏を知るような人間ならばおいそれと現れるか問われれば普通は否と考えるのが自然である。


「いいや、来る」


 しかし、水浦は断言した。一切の疑いの余地もないというように男はそう告げた。


「確信めいてるが、何か確証でも?」


 それまでは興味なさげに聞いていた平柳が、やはり興味なさげに口を挟んだ。


「お前ら、天気予報を見るか?」


「見てどうする、美人のアナウンサーが何か教えてくれるのか」


 水浦の問いに、岡田は軽口で返した。


「降水確率ってあるだろう、アレと原理は同じだ」


「……ああ、未来予知か、珍しいな」


「ああ」


 特殊体質とは千差万別、多種多様。

 この世には様々な特殊体質者が存在する、未来を見通すというのは超能力として見れば確かにありがちではあるが、それは分類するならば特に珍しいとされるものであった。

 仮に未来を見る事ができる人間がいたとして、わざわざ自己申告して鉄火場に身を置いたりするくらいならばその力で手堅く稼いで生きていけばよいのだから、実在したとして存外に出会さないものだ。


「……厳密には、予測だ。例えば、90パーセントで起こる事があれば、同じ条件で100回のうち90回は雨が降る。要するにそういう類のものだ。これがまあ色々と便利なんだが……少々厄介でな」


 そう言って、水浦はため息を吐いた。

 雨が降るらしいので傘を用意したら、傘ごと風に吹き飛ばされたとなればため息の一つでも吐きたくなるのが人間だろう。


「当人の体感だから正確な数字にゃできない。遠くの事を見ようとすれば精度は落ちる。人が来るか来ないかなんて出来事ならまだしも、戦争に勝つや負けるやなんて全体を見据えるなら参考にしかならん。だから、基本は雨が降るかどうかのような、よっぽど異常な厄介があるかどうかを予測させるんだが……まあ、こういう事には使える」


 イレギュラーは起こるし、予測は簡単でない。

 先日の襲撃と誘拐の失敗がそれを物語っていた。完全な予測通りに行かない事もある。


「それでだ、その天気予報によりゃあどれくらいの確率で来るんだ。コイツは」


 岡田は標的の写真を眺めながら問うた。


「嵐の日に風が吹くのと同じだけ」


「お前はその特殊体質者を信用できるんだな。お預け喰らうのはごめんだぜ」


 断言できるほどには確実に来るという水浦の言葉に、岡田は念押しするように問いかけた。


「ああ、問題ない。警察の捜査もしばらくは恐れる事はない。公安だって圧力があれば派手には動けん、心配無用だ」


 何ものにもリスクは付きもので、凶悪犯罪にもなれば尚更である。であるというのに、水浦がそんなことを今更言ったのは、ヒーローという社会的な立場を持つ彼らに尻込みする事なく十全に動いてもらう為だろうか。

 あるいは、そうなってもらいたいが為に無意識に口走った事だろうか。


 なんであれ、岡田と平柳がそれに答えることはない。初めから天秤にかけて遥かに上回る価値を求める彼らにとり、それは頗るどうでもいい事だからだ。








 ──くしゅんと小さく抑えたくしゃみをすれば、ほんの薄い桃色を微かに纏った白髪が揺れる。

 別に風邪を引いたわけでもなし、詠航マコトは噂でもされたのやらと鼻の下を撫でた。


 楠木原ショウタロウ、かの老人は忙しいらしく、増えた仕事をしてくると言ってマコトを置いて行ってしまった。

 井山先生から端末に連絡があり、帰りは車で送るそうだ。その時は連絡するということで、しばらくマコトは暇だった。

 その事を伝えると楠木原曰く、鍵は自動でかかるから好きに武器を眺めていろと言われたのだが、少しすればそれにも飽きというものの足音が段々と近づいてくる。


 帰りという言葉で、自宅を連想するのは誰でもそうだろう。

 それでマコトは、部屋干しにした洗濯物をいい加減に畳んでクローゼットにしまいたいし、洗い物もまだ残っている事を思い出した。

 そうやって自分の生活の存在をふと思い出すと一気に現実感という現実感が、この武器庫を破壊してしまいそうな程の実体感を持ってマコトの中に現れるのだ。

 そうなるともう、家の事をして温めた牛乳でも飲んで眠りたいという欲求は飽きの存在をより一層際立たせ、帰りたいという切望に変身するのだ。

 もう勝手に一人暮らす我が家に帰ってしまおうかしらなんて少年も思ってみるものだが、手持ちに金がなければ事件があったのだから電車は終日運休だろう事は目に見えていたし──あんな事件があったのに軽率に動く気にはならなかったので──現実にそうはならなかった。


 そんな時、開け放たれた武器庫の扉の前で停止した気配が一つ。

 誰か用であろうか、知らない人間と初めましての挨拶をしたい気分ではなかったが仕方なしに誰が来たのやらマコトはそれとなく扉の外の人物の存在を意識した。


「やあ、詠航クン」


 扉からひょこっと顔を覗かせて挨拶したのは、保険医の弦村だった。

 彼女はいつも通りどこか草臥れたような瞳をしていて、いつも通りハスキーな声が武器庫に響いた。


「弦村先生」


 意外な客人に、マコトが極彩色の瞳をパチクリとさせた。

 ムラサメを振り回すのにも飽きた頃合い、暇を持て余すあまり、タクティカルグローブを裏返そうとするのをやめた時の事だった。


「暇そうだね、ちょっと付き合いな」


 弦村が、おいでおいでと手で招く。


「何ですか?」


 こういう時、学校ならば荷物や書類を運ぶ手伝いというのが定番である。だが、特務機関で態々武器庫にまで来てそれを頼みに来たわけでもあるまいに、マコトは首を傾げた。


「ちょっと一服」


 彼女はさあおいでと、悪戯っぽく微笑した。


「今更ですけど、未成年ですよ」


「本当、今更ねえ」


 マコトが冗談めかしながら向かえば、彼女は笑って問う。

 武器庫を抜けて堅牢なその扉を閉めれば、大掛かりな電子ロックが再度掛かった。


「そういえば、先生はここで何を?」


 弦村と並んで歩きながら、マコトが問いかけた。


「色々、強いて言うなら保険医」


 弦村がウインクを交えて、大いに含みを持たせて答えた。

 黒と白の幾何学模様が延々続く通路を暫く歩いた。目的地は処理部と同じ階層らしく、進行方向はエレベーターホールのある方向とは真逆だった。


「ここ、私の部屋」


 立ち止まった扉の前に記された室名札はなく、その代わりと言ってはなんだが関係者以外立ち入り禁止のプレートが貼り付けてあった。

 弦村はその扉を無造作に開く。微かに廊下の照明によりその中が照らし出されるが部屋の様子は伺えない。


 マコトは、彼女の後に続いた。

 弦村が慣れたように壁を手探りにしてスイッチを押し込めば、電灯がパチリと点いて冷ややかな蛍光灯が部屋の全貌を晒した。


「ここって……仕事場ですか」


 そこはいかにも地下室というような、碌に内装にも手を入れられていない。すっぴんどころか裸のままである。

 それなりに広い部屋の大半は、複数の棚と煩雑に積み上げられた無数の資料や書籍に占有されていた。

 壁面や床と同じく無機質な作業デスクには、最近書いたのであろう殴り書きのメモや、英語で記された論文、吸い潰した煙草の積もる灰皿とデスクトップとノートパソコンが鎮座している。


「まあ、そうね。ユラナが部屋を一つくれたの、好きに使って良いって。この組織で仕事を頼まれたら、ここでしたりね……。何か飲み物いる?缶コーヒーくらいしかないけど」


 弦村はツカツカと部屋の奥に入れば、一人で使うには十分なサイズの冷蔵庫を漁る。

 しかし、中にあるのは缶コーヒーとゼリー飲料くらいなもので生徒の対応をするのには保健室よりは向かないようだった。


「いらないです。鷲律さんとは、友達なんですね」


 見た所、キャスター付きの作業用の椅子は上等である。が、他には部屋の隅にあるパイプ椅子くらいしかない為、マコトはデスクと椅子の近くにそれを引っ張ってきて組み立てた。

 よく見ると作業机に投げ出された論文の端には西暦で今年と同じ四桁の数字が刻まれているので、彼女は勉強熱心な人なのだなとマコトは子供らしく思った。マコトもうっかり死にさえしなければ、学生を卒業してからが学びの本番というのをいつか痛感させられる羽目になるのだろう。


「うん、そうよ。……来客は想定してないの、悪いわね。今度用意しようかしら、でもここに荷物増やすの本当に厄介でね」


 弦村が缶コーヒーを片手に作業用の椅子に座れば、パイプ椅子に腰かけるマコトを見れば軽く詫びる。

 確かに家具なんかを持ち込むのが厄介なのは誰でも想像がつく。キャスター付きの椅子を何個も転がしながら、あの廊下を歩く絵面を想像してみればいい。実戦や災害を極端に想定して作られた基地であるが、普段過ごすのには少し不便だ。


「にしても、キミも大変ね」


 弦村はポケットからソフトパッケージのウィンストンキャスターを取り出して慣れた手つきで咥えれば、火を灯した。


「まア気にしないでくださいよ。ああ、先生火くれます?無くしちゃって」


 マコトがくしゃと軽く潰れた箱から取り出したピースを咥えてそう頼むと、弦村は火をつけてライターを差し出した。


「……何か用があるんでしょう、先生。何ですか」


 少年は久しぶりに煙を吸い込んで、そして吐き出せば問いかけた。

 態々会いにきて二人きりの部屋に連れ出して、単におしゃべりをする訳でもなし。何か意図があるのだろうとマコトから単刀直入に話を切り出した。


「そんなに肩肘張らなくたっていいのよ……まあ、そうね。一応雑談よ、雑談。生徒兼患者の様子を見るついでにね。調子はどう?」


 弦村は単刀直入な言葉に笑って答えれば、煙草を咥えながらゴソゴソと引き出しから書類とペンを引っ張り出した。

 外れ者には違いなくとも、妙に真面目なのは彼らしさだろう。陰謀じみた事件が目の前で実際に遂行されて自分自身瀕死の重傷で運び込まれたとなれば、多少なりとも力が入るのも致し方なくもあるが。


「……全く、何ともないです。起きてから身体の調子は寧ろ元気って感じで、あと食欲もあります」


 訊かれて始めて意識するくらいには体調に異変はなく、付け足された食欲も実は空腹だった事を思い出したのだろう。


「やっぱり、そうよね。他に変化とか妙な事はなかった?負荷処理を行ったの。PTSDなんかの対策で……犯罪被害者やヒーローが受けるやつよ」


 弦村が灰皿に煙草の灰を落としながら、答えた。

 異変以降、脳や精神、その治療に関しての研究もまた他の医療分野と同様に大幅に進化した。


「脳に電気刺激を与えてってアレですか」


 マコトが記憶のどこかに転がっていた、学生なりの知識を引っ張り出した。

 有名所ならば、PTSD等の症状に苦しみ、そして社会に居場所のないアメリカのベトナム帰還兵に焦点を向けた映画ファースト・ブラッドから始まるだろうか。90年代後半や2000年代初頭のような、今より特殊体質者に居場所がない社会で、陰惨な事件や醜悪な怪物に腕や足を捥がれながら戦うヒーロー、特に異形型は被る点が多い。


 しかし、鉄火場に飛び込んでくれる特殊体質者は少なく、そんな人材を捨て置く余裕はない。故に、それらに対応できる人材の精神を少しでも保ち、一秒でも長く戦わせる為に研究が進んだのは皮肉な話だ。


「実際はもっと複雑だけど、原理はそれで合ってる。副作用で一時的に感情を過剰制御できるようになる事があるの。予防用に軽い処置しかしていないから、あまり心配はしていないけどね。無理やり感情を抑えつけて必要な感情の出力ができないと、かえって無意識にストレスを蓄積するから……」


 弦村が心配したのは、精神面における副作用だろう。


「それ、どうなるんです?」


 マコトが煙草の灰を灰皿に落とした。


「例えば、無気力感や無感動、妙に冷静になったり、色々よ」


「ないですね。そう見えるかもしれませんが」


 弦村の説明を聞いて問題ないだろうとマコトは頷いた。


「早くレイを取り返さなきゃいけないし、借りも返さなきゃいけない。だから、今はそんな暇がないだけなんです」


 彼はストレスは勿論、怒りをきちんと感じていると自認していた。実際、強張った口調と見開かれた精悍な瞳に宿る意志は意気軒昂を表していた。

 状況が状況な為、淡々とこそしているが腹の底で何を考えているのか読めないのが人間というもので、彼も例外では無い。


「なら、安心した。じゃあ、幻覚や幻聴、知らない人間を知っていたり覚えのない体験を思い出したり、逆に思い出せない事があったり、事件のフラッシュバックとかは」


 副作用が無くとも問題ないとは言い難いのかもしれないが、そこを掘り下げるのは今ではない。

 先ほどから煙草を咥えて灰を落とす間も無く、進めるので灰がどんどん長くなっていくが、弦村は気にも止めず次の質問を投げかけた。


「今の所、そういうのはないです。本当にいつも通りで、元気ですよ」


 弦村の質問に対して、これもまた平気だとマコトは首を横に振った。


「なら、良し……とはいかないのよね」


「?」


 煙草を灰皿に放れば悩ましいという風に弦村は顎に手を当てて、マコトの極彩色の瞳をチラと見やった。

 肝心の本人は目をパチクリとさせて、きょとんと首を傾げていたが。


「詠航クン、キミの体質は他の子と比べても稀有なのよ。キミも一応はわかっているだろうけど、ちゃんと説明するわね」


「はい」


 マコトは要領を得ない表情であるが、それはともかく返事だけは立派なものだった。


「キミは他人が頑張って出すような出力を、自分で制限をかけて過剰にならないように気を付けて出してるわ。これの意味、わかる?」


「……力が強い?」


「正確には、強過ぎるの。どんな特殊体質者も思念力を出力するには意識から自分の身体を経由する。キミはそれが桁違い。能力の性質上、そのまま振り回せばいくら強化してても負荷は蓄積する」


 自身なさげなマコトの答えを聞いて、弦村は首を小さく横に振った。

 特殊体質者は非常に個体差が激しく特殊体質者という括り所か、異形型や思念型の括りすら正確とは呼べず、学術的な定義は非常に多岐に渡る。

 彼のようにその使い方をよく理解して正確に運用出来たとして、それそのものが一体何なのかそもそもわからない事が多く、後手に回りがちだ。故に医者の骨は折れるのだが。


「今の医療なら骨が折れても治せる、設備があれば腕も生やせる。心臓、臓器移植のハードルも下がった。それでも臓器の治療は簡単な事じゃない。特に脳に関してはパンチドランカー然り、不可逆的な症状を負う可能性を否定できない。幾らキミでも訓練や模擬戦の範疇を逸脱した、今回のような無理をすれば当然そうなるわ」


 目覚ましい医療の発展によって、人の命の価値は安くなったか?否である。

 異変で首都圏が徹底的に破壊され尽くし世界が混乱に陥ったその爪痕は大きいが、それでも人の多くは死に難くなった

 時代が巡るその果てに金さえ積めば治せて、ならば何とかなるだろうと考えるようになれば、そこに段々と具体的な値がついてしまうのもまた人情か。

 身体を張って当然の仕事もまたどうせ治るだろうと当事者にすら考えられては、実際に血や肉が飛び散って骨が砕ける事がいかに痛々しくグロテスクな現象で、それが嘗ては絶望的な意味を持っていた事をほとんどの人間は半ば忘れつつある。


「そして、そうした物理的な負荷とは別の負荷。これはキミ自身も前から知っていたように、桁違いの出力を制御する以上は脳……つまり、人格や記憶、認知能力への影響が計り知れない。キミ程でなくとも出力の高いタイプは能力そのものに依存性がある例が幾つか確認されてる」


 強い表現を締めくくるに至り、確証はないけれどもと弦村は付け足す。


「データが乏しくてね」


 多くの特殊体質者は基本的に自らそうであると明かそうとしない、少数な特殊体質者の中でも更に極少数なのが高出力タイプは尚更だ。その挙句、彼らの大抵の役回りは鉄火場に飛び込む事で平均的に早死にである。

 これは、特殊体質者にとってはわかる話でマコトにも知る所だ。仮にデータがあったとしても、あくまで参考になる程度。どうなるかなんて全く分かりやしないのだが。


「……それ、どれくらい持ちますか」


 マコトの問いに、わずかに弦村は眉を顰めた。


「データ上の推測値を算出してみたけれど、今回の出力は流石にこれまでの想定外だったわ。もし、それくらいの能力の使用を頻繁に続けるなら、キミがあとキミでいれる時間は短く見積もって三年あるかないか……これが一つの基準になるわ。どの道、それでどうなるかはわからない、何もないかもしれないし、場合によっては私がキミの遺体から新鮮な脳味噌を取り出す羽目になる」


 勘弁願いたいとでもいう風に弦村が肩を竦めた。


「三年……」


 マコトは目を丸くして、繰り返した。

 まさか喫煙所のような流れで余命宣告じみた宣告をされるとは思わなかったらしく、流石の彼も若干の動揺を踏まえて、告げられた言葉を飲み込む。


「キミの人格が大きく歪むか多少変わる程度で済むかはわからないし、精神医学上、病人に定義されるのかもわからない。キミのような人間のデータは今の所見つかっていないから、どの程度で済むかわからない」


 あくまで最悪の場合、命や健康は保証できないということだ。実際どうなるかはわからないが、だからこそ、それを踏まえた警告は必要だとして彼女はこうして語るのである。


「……脳に変化があるんですよね。それなら、性格が良くなったりとか、賢くなったりとか……」


 マコトが希望的な観測と共に、疑問を呈する。

 確かに脳への負荷といえども、その変化は本当に悪影響に限られるのか。機能を使うと言うのならば発達して、成長に繋がるのではないかと考えるのもまた自然な話である。


「高出力な能力の過剰使用者に良いと呼べる変化は確認できていない。強いて言うなら、能力使用への効率化や適応のようなものは見られるけど、それ以外の能力が向上する論拠は今の所、ないわ」


 弦村の答えはノー。

 特殊体質の中でもとりわけ特殊。だからこそ、どこまでの影響があるのかはわからないだけであって、希望的な観測の入り込む余地はなかった。


「百害あって一利なし、ですか」


 大方の話の流れを理解して、マコトは言った。


「ええ、残念だけど災い転じて……とはならないわね。災いは災いと思いなさい」


 弦村はため息を吐いた。


「だから、医者として言うけど特務機関V(ここ)は辞める事をお勧めするわ。ヒーローもやるべきじゃないけど、そっちの方がマシよ」


「……これが終わったら、考えます」


 少年は、寂しげに笑った。

 覚悟が済んだ人間の、途方に暮れ飽きたような、迷う事を諦めたような、憑き物が落ちたような顔だった。


「そう」


 弦村はそれを始めからわかっていたように、知っていたように呟いた。それ以上、何か言うべき事はないのだから。

 







 地下数百メートルの秘密基地、その頭上に位置する古斗野病院、研究棟一階ロビーに見慣れない幾人かの集団がズカズカと入場する。

 その集まりのほとんどは屈強な男たちであり、少なくとも仲良しサークルというような雰囲気ではないし、研究者という風情でもない。


「……ご苦労な事だ」


 監視カメラの映像からその報告を受けて、舌打ちしたのは特務機関処理部責任者、鷲律ユラナであった。

 程なくしてユラナの携帯電話が着信音を高らかに奏でる。

 彼女には、その相手と要件がわかりきっていた。


「どうも松田さん、ご用件は何かな」


 鷲律が顰め面で応答する。


「重要参考人、詠航マコトを引き渡してもらおう」


 電話の向こう側から響いたのは、相応の歳を重ねた男の声だった。


「断る。我々は現行法を超えた存在だ。引き渡せはしない。例えそれが公安であろうと」


 強い口調で彼女は拒否した。

 無駄な時間に辟易するような声音は、今すぐにでも電話を切ってしまいそうな様子である。


「今、いるんだろう。こちらは地下で面会でも構わない。だが、拒否するのならば踏み込む事になる。それが嫌なら、潔く引き渡す事だ。理由は聞いてくれるなよ」


 松田の言葉に、鷲律は眉を顰めた。

 大人数で態々駆けつけておいてそう言ってのけるのは普通単なる脅しだが、強気の姿勢を態度で示すのには十分であった。

 乗客が全員死亡した以上、唯一の生きた証人である少年へ面会を求めるのは当然の話ではあるが。


「乗客には生存者も重要参考人もいない。それでこの事件の話は終わりだ。後は、特務機関V(我々)がやる。そう決まっただろう」


 鷲律は静かに言った。


「ならば、せめて情報くらいは提供してもらおうか。手ぶらで帰るわけにも行かん。それにこちらだけが知っていることもあるんだ、話す価値はある」


 松田が、食い下がる。


「そちらだけだと?調べはつく、我々が知らないとでも……」


「無理するな。現場は警察(こっち)が抑えたんだ。上のお陰で有耶無耶に向かおうと、証拠は保存される。そして、鑑識結果や捜査の全貌を把握しているのは極数人……他から吸ってもネタは上がらん。しかし、うちから吸い上げるのは手間がかかるだろうなあ」


 Vとて調べ切れぬ事はある。

 この機関はあくまでも散発的に起こる有事を、あらゆる手段を選ばず抑え込むブレーキ役。

 多くのリソースが割り振られる過剰な武装と実行能力はその機能を実現するためのものに過ぎず、平時の捜査などは警察機関と協力し合う事も少なくない。


「何が言いたい」


 松田の言葉に、鷲律がわかりきった意図を問う。


「動き難いのはこちらだけじゃあないだろう。だからこそ、取引だ。生の証拠とそちらの情報でな。当然、そちらからは、それなりの情報を提供してもらうが……悪い話では無いはずだ。こんな時まで、不仲の伝統を守る必要もない」


 その役割から政治そのものと一定の距離を置きながらも、非常に強い権限を持つこの非公式組織の独立性は非常に高い。

 しかし、独自性が高いこの組織は明らかに何かを隠したい政府からすると、不要な事を暴かれた時のリスクから渋い顔をされるのは当然の話。だが、対抗はせねばならず、敵を知り尽くさねば戦えぬのもまた事実となれば、圧力の最中強行された捜査から得られる情報の価値が安いはずも無い。


「……いいだろう。但し、詠航マコトに付き纏うのはやめてもらう。そもそもこちらから情報を出すんだ、取り調べし直したって意味がない」


 鷲律が釘を刺した。


「……わかった、交渉成立だ。また連絡する」


 松田がそう答えれば、程なくして両者の通話は終了する。

 互いにとって仲間ではなく味方とも言い切れないが、それでも互いの捜査は進むだろう。


「公安も連中に比べればまだマシか。政治屋共め、化けの皮を剥がしてくれる」


 なぜ、戦力を集めてテロリストとして逮捕、始末しないのか──鷲律はその問いに詠航マコトや井山に教団の規模故に動きが漏れかねず、また政府は事件を大事にしたくないからだと誤魔化した。

 嘘ではない。しかし、現実には圧力が存在しているのだ。








「取引なんてしてよかったんですかァ?松田さん、無断ですよ」


 研究棟から早々に引き上げようと踵を返す上司に向かって、紅一点の部下が問う。


「篠崎、考えてもみろ。動いた時点で上から目付けられるんだ、動ける内に動いて、得られるうちに得るもんだ、情報であれ、関係であれな」


 松田の上に反抗的で圧力を意に介さぬ姿勢は警察組織に向いていない。だが、ここにいる部下達はそんな上司に喜んで着いてきていた。


「まさか、交渉に応じるとは……向こうにまで圧力がかかってるだなんて、一体何を隠したいんでしょう?」


 他の部下がつぶやいた。

 現在政府からかかる圧力は尋常なものではなく、こんな行動は事を荒立てるつもりなら百点満点の、博打であった。

 そして、類似した立場である特務機関は彼らの博打に乗ったのだ。


「知りたくはないな」


 どんな碌でもないことが起こっているのか、怖いもの見たさですら関わりたくないものだが致し方なしと松田は肩を竦めた。

 その時だった。日常で聞き慣れた環境音、あまりに聞くわけだから無意識に存在を忘れすらする電子音がなる。

 エレベーターが、一階に到着したのだ。


「あっ、松田さん、あれ……」


 背後を見た篠崎が思わず、声を上げる。

 開いたエレベーターの扉の向こうにいたのは、眼鏡をかけたスーツ姿の男と、例の少年であった。


 どこか物々しい様子の者達が足を止めて振り返れば、彼ら全員の視線はエレベーターに乗る二人に注がれた。

 彼らは皆どこか気まずそうな、困惑したような様子で、二人を見ていた。


「先生、この人たちってどういう……」


 何やら面倒になっているのだろうか、異様な状況を前にマコトが小声で担任に問いかけた。


「……大丈夫、心配は要りません」


 井山がそう答えると彼はエレベーターを降り、マコトもそれに追従してエレベーターを降りた。


「お久しぶりです、松田さん」


 彼らの中で最も年輩に見える男に向かって、井山が丁寧に挨拶した。


「意外な再会だな……心配するな、今日はもう帰る。ほら、撤収だ撤収」


 松田の口元が緩み、親しげに笑いかけたかと思えば、即座に表情を引き締めて踵を返せば、掌を叩いて部下達を急かすようにして歩き去っていく。


 他の連中が立ち去る中、ただ一人、それに同調するようにゆっくりとそこから離れようという態度だったが、遂には足を止めて振り返る者がいた。


 篠崎と呼ばれた、紅一点の人物である。

 一歩、二歩と足踏みをすればカツ、カツと靴が床を叩く音が響く。


「……また、会いましょ。井山先輩」


 篠崎はゆっくりと空気を肺に取り込めば、中の酸素が赤血球によって脳に送り込まれるのを体感するように、丁寧に息を吐いた。

 そんな深呼吸の後、ほんの一瞬の長い思考を経て、彼女は久方ぶりに演奏する曲の音が外れないようにするように慎重に、しかし確実に声を響かせた。


「元気そうで、何より……じゃあ、また」


 井山が頷けば、篠崎は何も言わずに頷いて、去っていった。







 古斗野病院のやたらと広く深い薄暗い地下駐車場から数台の乗用車が地上に現れる。

 そして、古斗野病院と古斗野高校から離れていく。

 普段は学生達の気配を持つこの巨大で剛健な学舎は、今はただ静寂だけが漂い、要塞じみた堅牢な建造物は不気味にすら見える。


「篠崎、お前は詠航マコトを洗え。必要になれば接触してもいい、強引にやるなら必要な戦力は宛てがう。取得した適性検査周りのデータは改竄の可能性が高い、データは信用するな」


 松田が口を開けば、篠崎に指示を飛ばした。


「わかりましたア〜……けど、なんでですか?情報は手に入りますし、向こうの人間となれば明らかに彼はキーマンにはなりません。死体もなかったし生死はどうあれ、攫われた確率が高い。そっちを追った方がいいんじゃ」


 詠航マコトから手に入れたい情報自体は今回の取引で手に入る。

 そして、そもそも彼個人は特務機関Vの手駒の一つに過ぎず、その状況で取り決めを破ってまで無理に調べを入れたとして、本人が話すなと指示されていれば何も出てはこず、そもそも何か有益なものを持っているようには見えない。


「何でと言われりゃ、そりゃ勘だ。もちろん、そっちも追うが……今は完全に行方不明だろう。しばらく出てきそうにもない。心配なら、上手く理由を付けておけ」


 松田は言った。勘は勘でも単なる当てずっぽうではない。つまり、明確な証拠こそないが、それにはれっきとした論理と法則がある。

 しかし、それを長々と説明はしないし、その必要はなかった。


「覚えてるな、血痕からは死亡の確認できた被害者以外の人間の存在が確認できている。詠航はそいつらとやり合ったんだ。向こうが何かを黙っておく可能性は低くとも、本人からも聞いておきたい。それに……」


 通話相手から受け取った微かな違和感が、松田の脳にこびりつく。


「なんです?」


「……いいや、なんでもない。忘れろ」


 聞き返す部下だったが、松田はそんな問いを首を横に振って答えた。

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