第十五話 トレイントレイン④
割れた車窓、車内の穴から吹き抜ける風が、マコトの血に濡れた髪を揺らし、血と汗を乾かす。
差し込む夕陽がその極彩色の瞳を照らし、外の歪な大都市のビル共が不躾に車内を覗く。
穴だらけの有様で尚、電車は通常運行。何のアナウンスもなく、日常を装っていた。
ヒーローが駆けつけても良い頃だが、防犯カメラが意味を為していないのだろう。コンピューターに手を入れる特殊体質者が共犯者にいるのかもしれないとマコトは一瞬考えたが、そんな思考はすぐに止めた。
事実、そんな事を考えている場合ではない。
眼前の戸破、梶島。
二人に単純な能力の総合値でこそマコトは勝れど、数の利と経験値の差は埋め難い。
持久力という絶対的アドバンテージを持つ異形型ベースの戦いでの二対一。先にマコトのペースが落ちるのは必然で、ジリ貧は目に見えている。
……人は弱く、どれだけ抗っても必ず限界に突き当たる。所詮、特殊体質者もその本質は同じ。
例え、校内一の模擬戦狂い。特務機関に即戦力として勧誘される逸材とて、所詮、人間。そして未だ十八の青二歳。
本人もその事を十分に理解している。
だが、だからこそ、その限界に突き当たり尚諦めないのならば。
その時になって人は初めて己の真の姿を垣間見るのかもしれない。
「……まさか、な」
鬼蜻蜓が、呟いた。
「お前、名前は」
手を貫かれた傷を意にも止めず、鬼蜻蜓はマコトに問いかける。
「ブレイカー」
短く答えた。
瞬間、彼は動き出す。
勝つという確信は揺るぎなくあってほしく、ゆえにそうと決めつけて、諦めていない瞳で直視する。それだけで、踏み出すには十分。
彼にとって、そういうものだった。
マコトが横に構えた握り棒を切り出した即席の得物が、電車の壁に触れ、そのまま振るう。と、伝播した力が、新たに車内の壁や残ったガラス窓を煩雑にカットするような斬撃となり、得物を振るうのにつられるように破片は車内の宙に散乱する。
伝わった力はマコトの能力。
即ち、運動エネルギー。
強烈な力は、それだけの影響を及ぼす。
宇宙ゴミよろしく漂い高速回転する残骸共は、鋭利な回転刃となる。
「効かねえよ」
透過可能な戸破は、その中を悠々と突き進む。
と、その背後の鬼蜻蜓はホバリング飛行でその場に留まり、虎視眈々とその動向を窺っていた。
二人のコンビネーションにほとんど隙はない。
吹き抜ける風に流されて、マコトの作り上げた即席の罠は容赦なく減っていく。
「なあ、悪党……」
今日だけは最強でありたいと、少年はあの日と同じ夕陽に願う。
「必殺技って知ってるか?」
真似したくなるような代名詞的な必殺技……そういうヒーローは世の中にいるが、詠航マコトはそういうタイプじゃない。とっておきと一緒に技名を叫ぶなど、どう考えても無駄だから。
だが、ブレイカーには必要だ。
代名詞と、そして更なる高みが。
能力が、全開に解放される。
急速に増幅した力が周囲数メートルを埋め尽くした。解き放たれたのは翠色に煌めくエネルギーだ。
絶大な質量が、バリバリと大気にヒステリックな悲鳴を奏でさせながら、車両の壁面を天井を抉る。
彼の手から捨てられ吹き飛んだ得物は、めちゃくちゃな現代アートに様変わりして吹き飛ぶ。
決して眩くはない。ただ、これまでとまるで違う出力は空間を歪めたとすら錯覚させる。
歪む世界はさながら蜃気楼。
揺らぐその先にいるのは果たして人か、怪物か。
「なんだ、これは……!?」
何か異変が起きている。戸破にはそんな確信こそあれど、刀より遠い間合いに埋め尽くすような装甲では、突っ込むにはリスクが大き過ぎた。
攻撃の瞬間の実体化で、消し飛びかねない。
ゆえに、足を止め、距離をとった。
そうする間に、ブレイカーの身を覆う特大の力は急激に収まる。否、ある形に押し込まれる。
「イミテーション・セラフ」
輝きの中、凛とした声が響く。
砂埃と粉塵越しに確かにそのエネルギーが立つ、視界を奪う粉塵を心地良い風が吹き飛ばした。
発動の余波で天井に作り出された穴から差し込む夕陽が、その姿を照らし出す。
蜃気楼のように揺らぐ空間越しに、それは確かに重さを持って実在した。
その姿は、冷ややかな翠の光が甲冑か鎧のように全身を、面頬のように構築された力が顔面を覆い、薄く頼りなかった肉体に装甲じみた重厚な暴力が備われば、一回り彼を大きくする。
特筆すべきはその精緻さ。
まるでオーダーメイドの高級スーツのように指先までフィットする構造は、当然、人体に近似する。
纏うという技術の、今現在の限界点。
絶大な出力を、強引に人間大に押し込んだのだ。
「お前を殺す、技の名だ」
変わらない意志を帯びた極彩色の瞳が、確かに夕暮れに流るる世界を捉えた。
肺いっぱいに冷ややかな秋の澄んだ空気を吸い込んで、ブレイカーは朱の空に勝利を誓う。
「……コイツ」
戸破から、笑みが消える。
「はは……洒落た遺言だ」
そして、もう一つは笑い声。
「墓にもそう刻んでおこう、ヒーロー」
梶島が、破顔した。
ビリビリとでもいうような、これまでと比にならない緊張が彼らの間に走る。
「征くぞ」
瞬間、鳴るのは一陣の風。
ブレイカーが、莫大な出力で踏み込む。
加速の瞬間、背部に放たれるエネルギーと刹那描いた軌跡は、さながら天より降り立った破壊天使の翼の如く。
「!──」
気がついた時には、そこにいる。
ブレイカーが刹那にして戸破の眼前に現れ、一撃を叩き込もうと拳を構え──次の瞬間、振るわれた拳が爆風を巻き起こす。
「……こっちは、反応してくるか」
ブレイカーが構え直し、呟く。
「俺が足手纏いか……クソ……」
戸破は背後から僅かに先行して到着した鬼蜻蜓に弾き飛ばされ、間一髪の所で直撃を避けると、爆風に吹き飛ばされ、車両の離れた──といっても、あの速度では大した距離にならないが──所にまで押し出された。
身体を強く打ち付け、立ち上がるのもままならないようだった。
「純粋な出力だけで俺と同じかそれ以上の速度。単純な破壊力ならば、俺を上回るのだろうな。確かに驚異的……」
翅音が、響く。
ホバリングながら、鬼蜻蜓が言った。
イミテーション・セラフ。
それは、圧倒的なエネルギーをより直感的に操る為に実現させたヴィジョン。
実現した爆発的な出力は、瞬間移動と見誤る程の高速を実現していた。
「ッ」
彼にはお喋りに付き合う気はないようだ。
ギュンッと、ブレイカーの世界が拡大する。
一挙に全ての風景が圧縮され、次の刹那には鬼蜻蜓の眼前、目的地にその身は投げ出される。
超速により鬼蜻蜓めがけ、真正面から拳を叩きつけた。が、エメラルド色の複眼が、その動きを確かに捉えた。鬼蜻蜓が身体を逸らして躱せば、拳はその顔面のギリギリの空気を打った。
「……だが、その出力、無理をしているな……そう長くは持つまい」
巻き起こる爆風が、鬼蜻蜓の身体を後方に飛ばす。敢えてその身を預け、風に乗って間合いを離しているのだ。複眼が油断なくブレイカーを監視する。この事態ですら、その対応は至極冷静だった。
「それでいいのか、てめえの遺言は」
梶島の指摘は、正しい。
だが、他に手はない。
ゆえに、ブレイカーは戦いのギアを更に上げる。
「!」
思念力とはまた別の殺気とでも形容べきものか。脳の奥底のシナプスが第六感的な何かを察し鬼蜻蜓は、ブレイカーを迎え撃つ。
その戦いの全容は他人には掴めない。
ギュンッと、煌めく翼の唸るような軌道と共に残像を残さんばかりに飛び回る鬼蜻蜓と、それらに共鳴するように翅の重低音が鳴り響くだけ、わかるのはその残滓、残響だけだ。
厳密には両者は高速で飛行しながら、超至近距離で殴り合っていた。
ブレイカーが高速で迫り、その上で拳を本来の間合いより外で放つ。
光線じみたエネルギーが発射するブラフを交りの一撃が炸裂する──と、鬼蜻蜓はその腹部を抉る寸前で身体を捻り身を躱しながら、ブレイカー目掛けて最高速度で突っ込みながら斜め上方向に飛行し、すれ違う瞬間に手刀で頭を割りにかかる──が、眼前に迫る手刀に対し、ブレイカーは背部の左側だけからエネルギーを轟かせる。
高速で手刀に合わせて身体を回転させる事で、ダメージを最小限に抑えながら後方へ振り向き、そのまま真上へ拳を振り抜く。
拳はギリギリ届かず、鬼蜻蜓の衣服を掠めるに留まり、その確認の間もなくブレイカーは超速で追いかけながら、エネルギーを射撃し、電車に更に小さな穴を幾つも拵える。
鬼蜻蜓は得意の三次元的なジグザグ軌道と、残っていた握り棒を掴んでグルと回転する動作から、複雑に動き回り回避した。
そして、再び交差し──。
……これだけで僅か数瞬の攻防。このような攻防を絶えず幾度も積み重ね、互いが致命的な攻撃を避けるか僅かな損傷に抑えながら、蓄積したダメージとほんの微かな隙に一撃を捩じ込まんと殴り合う高速戦。
幾らこの状態のブレイカーでも、攻撃をモロに喰らえばタダでは済まず、その上に命を守る分のエネルギーは無駄になり、その分だけ活動時間は減衰する。被弾を嫌う姿勢から、鬼蜻蜓はそれを即座に理解した。
しかし、モロに喰らってタダで済まないのは鬼蜻蜓も同様。
「当たれッ!」
「止まれ、墜ちろ!」
ブレイカーが吼え、鬼蜻蜓が叫ぶ。
誰にもそれは聞こえない。
車内を縦横無尽に怪物共が駆け巡り、絶えず爆風と凄まじい轟音、衝撃が大気を揺らす。
「ッ」
幾度目かの接近。
交差の瞬間、ブレイカーが拳を高速に放つ。
鬼蜻蜓が食いしばった。拳に蹴りを合わせて軌道を逸らしながら後方に飛行しつつ、上体を大きく逸らす。
貫くような一撃は、鬼蜻蜓の逸らした上体の僅か上の空気を引き裂くに留まった。
鬼蜻蜓は爆風に身を預けつつ、身体をぐると回して旋回する。
ブレイカーは収縮したエネルギーを直線上に放つが、その成果は、壁に穴を増やした事くらいなものだった。
「なんて奴だッ」
鬼蜻蜓が悪態を吐く。
戦いの均衡は、確実にブレイカーに傾いていた。
僅かだが純粋な直線での速度で鬼蜻蜓に勝り、そして破壊力では上をゆき、遠距離攻撃も併せ持つ。
だが、それだけでは縦横無尽な軌道を感覚的に翔べる鬼蜻蜓との絶対的な軌道の自由度の差、そして高速戦の戦闘経験における差は埋められない。
可能とさせるのは、鬼才としか形容できないセンスか、あるいは他にカラクリがあるのやら、鬼蜻蜓に察る術はない。
でなければ、思念型の操作で直感で動く異形型の軌道に食らいつき、真正面から勝負するなど、どうできよう。
なんであれ、鬼蜻蜓の脳裏に過るのはただ一言。
「化物め──」
「ッ」
ブレイカーは鬼蜻蜓との幾度目かの交差。見開いた極彩色の瞳、その奥底がこれまでになく燃える。
突っ込みながら両の掌を突き出せば、そこから複数本のエネルギーを直線に放たれる。そして、掌を合わせるようにすれば、エネルギーは開いた花弁が閉じるような斬撃となる。
凡そ、逃げ場はほとんどなく回避は不可能だ。
しかし、そんな弾幕を無理に避けるより先に最速最短で飛来した鬼蜻蜓は、脚や腕を細かな煌めく弾丸に撃ち貫かれながらも、閉じるより先に胸目掛けて蹴り抜きにかかり、ブレイカーは咄嗟に攻撃を中断して腕を交差させ、身を守る。
と、互いが鈍い衝撃を受け、吹っ飛んだ。
「……ッ……だが、もう少しか」
鬼蜻蜓は、ブゥンという重低音を鳴らし、車窓の外に飛び出た。
鬼蜻蜓は傷を増やし、所々貫かれた腕や足から流血している。異形型のタフネスさと巧みな戦闘技術が相まって致命的な攻撃を避け戦闘続行を実現しているが、戦いが鬼蜻蜓によるギリギリの防戦の展開であるのは明らかだ。
対するブレイカーは多少なりともエネルギーが削がれ減衰し、消耗もしているが、鬼蜻蜓の攻撃で大したダメージを受けていない。
やはり、優勢か。
「動け……もっと、速く!」
否。
少年は荒い息を吐き、体を振り回す。優勢と裏腹に、ブレイカーの肉体は悲鳴を上げていた。
特殊体質者と言えどヒトの身体は不自由だ。関節の可動範囲は狭く、積み込める筋力の発する馬力の限界は矮小で、突けば崩れる程に脆い。
彼の持つ能力は反則的だが、人類の形をして生まれたばかりに、肉体の強度が致命的に足りない。
例えば、乗用車にロケットエンジンを積んだとしても、その能力は十分に効果を発揮しない。
もし無理矢理使えば、その末路は見え透いている。
だが、仮に高出力を正確に扱いやすくイメージしやすい形状で纏い、一挙一動を射出と同じ原理で、その制御を交えて本来困難なレベルの可能な限り高い精度で行い、発生する物理的な負荷を可能な限り相殺すれば──本来の能力を、発揮可能だ。
緻密な精度で纏った高出力のエネルギーを、自分自身ごと能力で射出し軌道を制御、逐次逆方向への力をかけて急停止……というのを絶えず繰り返す。
そして、加速と急停止に伴い身体にかかる殺人的なGは、肉体に流すエネルギーで相殺する荒技で強引に軽減。
Gだけでない体力的負荷、肉体の限界を超えた威力からくる負荷。常に要される精度、驚異的な集中力、能力と体力の急激な消耗による精神的な負荷。
これまでと比にはならない次元の違う操作難度、理論上可能に過ぎないバカげた空論。
だが、全ての負荷を全て受け入れる事で、彼は道理を捩じ伏せた。
「出し惜しみは無しだッ、あの世に持ってけ!!」
押し殺すように、苦悶を闘争の雄叫びが塗り潰す。
ブレイカーは鬼蜻蜓を追って空へ飛び出す。
燦然と立つ暴力の化身と、捕食者鬼蜻蜓の織りなす軌道は、運行する電車と並行に高速で展開し始めた。
鬼蜻蜓が悠然と朱の空に弧を描き、平行に飛びながらブレイカーが急接近する。
鬼蜻蜓が滅茶苦茶に軌道を変え、しかしブレイカーは張り付くように寸分無く追う。
猛スピードで、空を彗星のように駆けた。
徐々に、その距離は詰まる。
「俺に追いつく気か、それは不可能──」
想定外の事態に、鬼蜻蜓は驚愕した。
開けた空という有利な外へ出ても尚、鬼蜻蜓は自分が有利だと思いはしない。
だが、ブレイカーの所業が如何に狂気の沙汰であるかは、飛行に特化した異形だからこそ察している。故に、彼の意図がこの空で時間を稼ぐというものである事は記すまでもない。
開けた空の広さと深さを、人は知ったつもりでいる。
傲慢だ。その身で体感した事もないというのに。
電車内のような狭い空間ならいざ知らず、飛ぶ方向の選択肢は360°自在。
車内より遥かに必要とされる反応速度、相応の訓練がなくては上下感覚が狂うフィールドの特性。
経験が物を言うのが空。肉体的な負荷を受け入れながらその差を埋めるのは到底不可能。
そして、開けた空で自在に動く為の訓練など、飛行能力を持つ異形を除いて受ける機会も必要もない。
大抵を力押しで解決できてしまう程に恵まれた思念型の特殊体質者で、少年とでも呼ぶべき年齢の若造で、訓練段階のヒーロー候補生。
その経験値は自然と偏る。
この空には、不似合いか。
「届け──!!」
ブレイカーが、出力を更に上げた。
その様子は鳥が飛ぶ様に喩えるにはあまりに破滅的で、優雅とはかけ離れる。
生き物がするにはあまりに不自然。
その末路は、破滅か。
「──いや、あの二重体質者か」
……否。
空は広く、そして深い。
だが、空での生き方を知る友との空より深い青春があるのならば、深く潜るのもまた不可能ではない。
自然に適応した姿とするには不自然そのものなその姿は、だからこそ、よもや自然そのものにすら捉えられる。
その姿は、一刹那を吹き荒ぶ為に生まれた暴風そのもの。
荒れ狂う暴風は、遂に──。
「──捉えたッ!!」
鬼蜻蜓の隣に、ソイツは現れる。
ただ全身を纏う圧倒的暴威越しでもわかる、ギラついた笑みを極彩色の瞳の奥底の畝りが示す。
ブレイカーが拳を構えれば、纏うエネルギーが揺らぎ、そして拳が放たれる。
鬼蜻蜓がぐるりと姿勢を回転させれば、寸前まで鬼蜻蜓の頭があった位置を拳が通過する。
即座に、その異形は距離を取ろうとするが──。
「……追いついてくるか!」
ブレイカーは、追いつき逃がさない。
直線での単純な速度で僅かに勝る、ならば、ギリギリ追い切れる。理論上可能をやってのけた。
「オオオオオッ!」
殺意が、咆哮する。
全身全霊の拳が、豪雨のように降り注ぐ。
ジャブのような軽いパンチではない──上下左右を撃ち分けながら、フック、ストレートを交えた全力、高速の一発一発が必殺の拳を叩きつける。
視界を飛び出してきた拳の残像が埋め尽くすほど、壮絶な乱撃だ。
そして、鬼蜻蜓は捉えきれぬはずの、圧倒的な乱撃を────捌き、躱し、的確に防御する。
「──!」
トンボには目が複数存在する。
凡そ二万の小さな個眼の集まった複眼、複眼と複眼の間に位置する三つの単眼。この三つの単眼が明るさを、複眼が物の形とその動きを捉える。
鬼蜻蜓の異形、梶島が普段見ている風景は常人には理解し難い。複眼のそれぞれの映す映像はバラバラだが、同時に一つの映像として脳で処理されるのだ。
圧倒的な動体視力は、素早いものに最も効果を発揮する。
複眼は、その神速を捉える。
擦り傷が増え、衣服がどんどんボロボロになっていくが、それでも致命傷には至らない。
最高速度の乱撃。しかし完成された攻撃は必然、月が満ちれば欠けるように、減速を始める。
体力的な限界か、減速を開始するのはすぐのことだった。
「倒れろ!」
イミテーション・セラフで展開したエネルギーの消耗が、限界に迫る。
拳が空振り続けると同時にその装甲は徐々に薄く、そうなれば加速的に最速から遠ざかる。
つまり鬼蜻蜓は、最速を重ねた連撃を凌ぎ切った。
「ッ……」
ブレイカーの苦しげな声が、風に混じって鬼蜻蜓にも聞こえた。攻撃は止まらないが、確実に遅くなっている。
想いに限界はなくとも、肉体は容易くその限界に到達し、能力もまた限界に程近い。
ブレイカーが右の拳を構えて、思い切り振るう。
最高速度を遥かかけ離れた大振りの拳は──容易く見切られ、体を逸らした鬼蜻蜓に簡単に避けられれば、触れる事も叶わない。
装甲は消えゆき、よもやモヤのようなエネルギーを纏うばかりだ。幼さの残る少年の苦悶を堪える表情が、鬼蜻蜓を覗く。
「終わりだ、ヒーロー」
鬼蜻蜓が決着を冷徹に告げた。
勝敗は、たったの一撃で決する。
空振る拳の前に反撃は容易く、彼が少年の脆い剥き出しの肉体目掛けて貫手を放つのは必然。
肉と皮を、容易く引き裂く。
次いで、骨を小枝のように圧し砕き、ぐちゃと胸を抉り出して、赤々と蠢く心臓の鼓動を完全に殺す──その、寸前──。
「!?」
ブレイカーの左腕がエネルギーそのものかのように力を帯びる。グニャと空が歪めばそうと認識する刹那すら劈いて、左の拳が最速を再現した。
最高速度の衝撃が、鬼蜻蜓の身体を吹き飛ばす。
運行する車両に墜落し、丁度空いていた天井の穴からそいつは床に叩きつけられた。
「……マジかよ」
ダメージから動けなくなっていた戸破が、飛来した轟音と衝撃に意識を向ければ、驚愕の声を上げる。
「ぐっ……」
鬼蜻蜓が唸る。
ギリギリで後方へ体を飛行させるようにして、衝撃を逃したがそれでも余りある重い一撃が、その肋を砕いた。
「見切って、いたはず……」
鬼蜻蜓が血を吐きながら、空を見上げる。
勝敗は一撃で、決した。
「……」
息も絶え絶えの少年が、電車の割れた車窓から乗り込んだ。
貫手の届きかけた胸に、傷が増えた。
直撃を叩き込んだ左腕の骨が折れ、肉を突き破り、飛び出ていた。引き裂かれた肉の隙間から、ドクドクと鮮血が滴る。握った拳は歪な形にゆがみ折れ、奇怪な現代アートじみた痛々しい姿に成り果てていた。
纏うエネルギーの一部、その能力で反動の相殺をしたとして、イミテーション・セラフによる相殺ほど万全でない。
その状態で全開に重さを乗せて殴れば、こうなる。それほどの威力。
「……蜻蛉の複眼は、遅いものほど捉え難い……だったか──」
遅いものほど捉え難い、裏を返せば遅いものほど注視する必要がある。トンボの前で指を回せばそれを観察する、それを利用すれば簡単に捕まえられる。原理はそれと同じ。
鬼蜻蜓には感覚的には最速で振り回す連打よりもずっと見え難かったはずだ。
力を使い果たす程の最速のラッシュで、仕留めきれない非常事態。予想を遥かに上回る白兵戦闘技術に、これでは分が悪いと悟り、本来もう少し維持できる所を意図的に減速。
纏ったエネルギーの一部を散逸しないように左腕に留め、待った。イミテーション・セラフが役割を終えるタイミング。戦局の変わる瞬間の勝負に賭ける為だ。
選択肢から最速の攻撃を外した状況。
力尽きたように見せかけ、最後の大ぶりな比較的遅い拳に注目を引き付けた。
その上で、十分に見切らなければ回避困難な最速の拳を不意打ち気味に放つ。
昆虫と違い、人間は考える知能と意識を持つ。
つまり、反射だけで動かない。
エピソード記憶を持つ為に、人は意識を持つ。
だからこそ、無意識が意識に作用した思い込みとその眼の性質の微かな穴に賭け、結果、僅かに鬼蜻蜓の反応が遅れ、間に合った。
当然、見切られればブレイカーは死んでいる。
辛く、痛々しく、間一髪を掻い潜り、重なる幸運を祈り、投げ捨てた命を無理矢理拾い上げるような、不恰好な形。
だが、辛勝もまた勝利に変わりない。
「舐めるな。俺はまだ、動け……」
梶島は立ちあがろうとして、しかし、よろめいて立ち上がれず、力なく壁に凭れた。
「……俺の、勝ちだ」
苦しげに、少年は息を吐いた。
ひどい量の汗と流れる血が、床の血溜まりを大きくする。
ドクドクと、彼の脳が震える。
勝利──何かに戦って生きる人間であるなら、この言葉の響きが嫌いである事はない。
そして、それ以上に冷静で理性的な、次の行動への衝動がブレイカーの意識を維持する。
彼は、気を失った羽黒レイを担いだ。
見たところ、梶島は暫く脅威にならなさそうであるし、戸破も戦える程は動けそうにない。
だが、それはブレイカーも似たようなもの。
トドメを刺し。今のうちに逃げて、ヒーローへ通報し、病院に駆け込む。
任務は完了だ。
これで──。
「!」
ガラと貫通扉が開け放たれる。
後部車両からだった。
変哲のない夕方にババを引いた一人は、スーツ姿のリーマンだった。
恰幅のいいこの男は、車内の凄惨な現場を見てギョッとしたような表情こそしたが、そのまま後戻りすることはない。
「ほら早く早く早く!振り返らないで、走って、走って、走って!」
貫通扉を開けたまま他の乗客がこの車両に入るのを手助けしているようだった。
後から続いてきた乗客が入れば、そのままなりふり構わず散乱する死体を乗り越えて駆けていく。
「っ、ひ……あ、化け物だ!怪異生物だー!!助けてくれー!!」
「誰か通報して!!!逃げて!!」
皆、ひどく怯えているようで、この凄惨な車内をパニック状態のまま飛び越えていく。
「まさか……てめえら……!」
ブレイカーが血相を変えて、戸破に問いかけようと目線を向けた。
しかし、混乱に乗じて戸破は既に立ち上がり、鞘に納めた刀を杖のようにしながら、梶島に肩を貸していた。
「っ、車田ァ、状況は!……ああ?!マジかよ、最悪じゃねえか!クソ、ならB案だ!解ったな、良し!……おい、クソガキ。お前にもう興味はねえ。そして、お前も逃げた方がいい。お友達の為にもな」
戸破が付けたインカムに怒鳴れば、応答に更に怒鳴り返す。そして彼は動けない梶島に重そうにしながらも、立ち上がらせた。
「なんだ、何が起きてる──ッ、クソ」
ブレイカーが、後部車両の方を覗く。
何かが動いたような気がするが、飛び立った血やら何やらのせいで解らなかった。
生憎、透視能力者でもない。閉じた扉の向こうで何が起きているのかはわからない。
「飛べるか?」
戸破が、梶島に問いかける。
「……まだ戦えるぞ、俺は」
梶島が息を吐けば、ゆっくりと言った。
「今はいい。一度撤退する、説明は後だ」
「……解った」
二人は割れた車窓へ歩みを進めた。
「動くな。俺は撃てるぞ。……何が起きてるのか、説明しろ」
ブレイカーが二人の敵を制止すれば、無事な方の腕を構えた。
「遊んでる時間はないぜ。乗客を取って死ぬか、見捨てて逃げるか。悩む時間に使え」
戸破が言えば、二人は更に歩みを進めた。
そして、動いた瞬間ブレイカーは躊躇なく二人めがけて能力を放つ。……だが、その攻撃は全て透過した。
「ッ、しまった……!」
「警告はした、じゃあな」
戸破が言い残せば、二人は車窓から飛び降りた。
「……」
ブレイカーが、構えを辞めた。
「君も早く逃げろ!」
サラリーマンが、ブレイカーに呼びかける。
パニック状態の乗客達、その先頭が貫通扉に辿り着く……その寸前、お目当ての前部車両に続く貫通扉が開け放たれる。
「あっ……」
先頭の女性が驚いて腰を抜かす。
人々は足を止め、面白いほど皆一様にさっと青ざめた。
「ギギ、チ……」
それは、現れた。




