第十四話 トレイントレイン③
血に濡れた薄い桃色を纏った白髪を揺らして、極彩色の虹彩煌めかせて、詠航マコトは堂々立つ。
二人の誘拐犯を前に姿勢を低く取り、力強く握り締めた左の拳を大きく振りかぶった。
微かな翠色冷光が、身体から絵の具のように滲み、この現実の少年の拳の中に渦を描く。
渦巻く力の奔流を捉えた特殊体質者の脳が、そう見える様に補正していた。
「トラブルか。早いとこ潰して帰ろうぜ」
刀とマシンガンを持つ戸破と呼ばれた男は共犯の蜻蛉に告げれば、手元の消音器が付いたマシンガンをマコトに向けた。
「仕留め損ないか。珍しいな、戸破」
そして、梶島と呼ばれた黄と黒の色彩の蜻蛉の異形は、身長二メートルを越す筋骨隆々の肉体を此方に向けると、マコトの方へ飛び、ブゥンというような翅の重低音を響かせる。
「いや、車田の野郎だ」
銃声が高鳴り、弾丸がマコトの胴体目掛けて滑り込む。そして、弾丸よりも疾くに唸るような飛行音と共に蜻蛉の異形が頭上より飛来する。
そして、思念力を纏う異形は筋力と加速に乗せてマコトの頭目掛けて貫手を繰り出そうと構える。
それら全てが到達するより速く速く、尚疾く。
「吹ッッッ」
彼の拳は振るわれた。
「飛べ!!!」
溜められた思念力。一纏めに打ち出されるのはその能力だ。
轟轟というような表現が正しいか。稲妻の迸るような轟音と共に、ほんのわずかに煌めく彼の力の塊が、螺旋を描き、暴風のように密閉空間の車内を滅茶苦茶に躍り狂う。うん年に一度の台風や暴風の日の最大瞬間風速を遥か上回り、加えて無視できない質量すら持つ更なる暴威。
逃げ場のない密室でこそ威力を発揮する爆弾じみた衝撃は、然し、ただ無闇に暴れ狂う事はない。明確な指向性を以て、彼らを一纏めに吹き飛ばすのだ。
その唯一の行先は──本来ならば逃げ場のない密閉空間だが──その衝撃力に与えられている無二の逃げ場は、マコトが眠る間に破られた窓の外。
どんな異形型だろうとも躱わせないならそれで良い。一点ならぬ一面集中、そしてその軌道の性質上、立っている彼らは諸に喰らい、床で気を失うレイにはほぼ関係がない。
指向性を得た爆発、力を最も力たらしめるのは合理である。
「!」
蜻蛉の放つ貫手が、マコトの頬を掠めた時の事だった。初対面の異形の表情はわかりづらいが、こうして間近で見てみれば蜻蛉の驚愕の表情とやらがよく判る。
蜻蛉は強烈な衝撃に体のくの字に曲げながら、文字通り、吹ッ飛んだ。
弾丸も流石の蜻蛉の異形も、巻き込んで纏めて吹き飛び、車両の外に吸い込まれた。
だが、
「……はッー……」
心底から面倒そうな溜め息を、男は吐いた。
確かに、男は蜻蛉と同時に巻き込まれるはずが──どういう理由か、攻撃の影響は受けていない。
彼は変わらずその場に立っていた。
「クソ、外れ引いたな」
男は悪態をつけば片手のマシンガンを乱射した。しかし、マコトは向けられた銃口を恐れる事は無い。
「一人じゃ寂しいだろ」
マコトの背部からバンと発砲音じみた衝撃が響き瞬く。その反動で急加速すれば、機を逃す気はなく、逆に懐に飛び込むのだ。そして、身体を軸に自身の能力を回転させた小さな渦を発生させる。螺旋する構造の中心たる彼は、さながら意志を持って進む竜巻か。
降りかかる弾丸は擬似的な鎧と触れ合って赤い火花を散らした。これが、鉛玉の今齎せる最大の成果だった。
戸破は無駄と察しすぐさまマシンガンを捨てて、刀を抜こうとする──が、それすら半手遅い。
「いいのか?帰らなくて」
カマでもかければ逃げるだろうか。それで引いてくれれば楽だが、そう簡単に事は運ばない。
マコトは目と鼻の先、彼我の間合いを既に刀剣どころか拳の間合いにまで距離を詰めた。回転する擬似装甲は拳を握れば擬似的掘削機となり、その殴打は螺旋し抉り出す刺突となる。
手加減できる相手では無い。何ら躊躇する事なくマコトは男の心臓目掛け、素早く拳を打ち込んだ。
男は刀を握ったまま避けなかった。確かに、手がその胸を突き抜ける。
「!」
マコトは、目を見開いた。
それもそのはず、手応えがまるでない。
拳がその肉体をすり抜けたのだ。まるで幽霊や幻を殴ったような有様である。
「馬鹿め、奴ならすぐ戻る」
マコトのブラフは見破られているように見えた。
その間に戸破は刀を引き抜き、そのままマコトの首目掛けて、横一閃に刃を走らせる。
その得物には男の身体と同じ薄い揺らぎ、マコトには見えると感じるの丁度間くらいの感覚でエネルギーが纏われている事が解った。ごく一般的で至極危険な思念力による強化だ。
刃が迫ると、再び閃光が瞬いた。
踵から放つ衝撃の発射の反動と、両手から放たれる上へ向けた能力の発射で、地面に倒れ込む様に高度を一気に下げながら、脚を蹴り上げ、そのまま一回転し、一連の姿勢のまま放たれたサマーソルトキックは戸破の頭部を粉砕する筈の、つまり、完璧な回避と即座の反撃を両立したが──しかし、此方も手応えを感じる事はなかった。
「!」
互いの間合いが先ほどより半歩遠く、刃の間合いとなり、両者は向かい合う。
と、マコトの頬に一筋の切り傷が浮かび出て、血が流れた。新鮮な痛みがジリジリと彼の意識を刺激した。
──思念力は、物に触れてさえいれば纏わせられる。そして、纏わせた対象にも能力を適用できる。
この頬の傷は身に纏う筈の擬似装甲を、刃がすり抜けた証左だ。原理は不明だが、少なくとも外付けの装甲は当てにならないという訳だ。
もし、能力に甘んじて躱していなければ今頃マコトの頭は胴体に永遠の別れを告げていただろう。
対する戸破は、血の一滴すら流してはいない。しかし、戸破の上着は別だった。
衣服が微かに傷ついているのを、マコトは見逃さない。独特の切ったような後は、回転する擬似装甲によるものだろう。
これは、光明である。だが、これはマコト自身にしか確信しえない事だが──追い出した蜻蛉に対する攻撃は倒すより追い出す事が目的の攻撃であった。
つまり、タフネスに優れる異形型ならばまず生きている。そしてあの高速での飛行、アレはマコトでも容易くは追いきれぬ超高速であった。
戸破というこの男も油断ならない相手であり、一対ニでレイを奪り返すのは、困難極まるだろう。
マコトにとってこの一対一の瞬間こそ、最大の勝機だ。
「それまで、俺はゆっくりやるさ」
戸破が、血の滴る刀を振り下ろした。
ゆっくりやるとは言うが、その慣れた動作に間髪や手加減はなかった。
「……」
マコトは振り下ろされる一撃を前にあろうことか動かなかった。反応が遅れたのか。将又狙いがあるのか。低く姿勢をとり、構えたまま微動だにしない。
ヒュンヒュンと擬似装甲が空を切り、今確かに迫る刃が煌めく。
装甲を白刃が透過する。
額に冷ややかな刃が触れようという瞬間──
「ッ」
──特異的な思念力が元より持つ圧倒的なパワー。異形型にも並ぶ馬力と、射出の反動に任せた強引な急加速が合わさり実現した常識外れの速度で刃より早く姿勢を降下しながら、踏み込む。
想定外の威力と狂気的な引きつけは、彼の姿を戸破の視界と想定から消失させる。
「!?」
瞬間、地面より数センチ上空の空気の上を這うような姿勢でマコトの全体重と加速と質量を上乗せした拳が、戸破の腹部に炸裂した。
「生憎、俺は急いでるんだ」
戸破は後ろに何メートルも吹き飛べば、座席上の網棚に衝突して跳ね返る。誰かの荷物だった鞄や荷物を散乱させながら、ゴシャッと、血みどろの床に墜落した。
マコトは一度弾丸を受けて流血している額の、それより上の位置で浅い切り傷一つばかりを増やした。
彼は勝った、一瞬遅れれば即死する賭けに。
大抵のカウンターでは擦り傷が精々。仮に戸破の命に届くカウンターがあるならば、それは最早カウンターではなく道連れに近いものだ。そして、勝ち筋はそれしかない。
ならば、裏を確実に掻けるのはたった一つ。今このタイミングでの狂気的なカウンターによる即行だ。
時間の猶予はなく、これ以上攻防を続ければ必ず警戒される。だからこそ、この二度目の攻防で勝負を決めにいった。
最短の勝利へ向け、全てを、躊躇なく、即座に賭けて漸く五分の勝負。だが、賭けるべき時に命を賭けねば全て喪うハメになる。それが戦いというものだ。
「……この、クソガキ……」
戸破は苦しげな声をあげながらも、手離した刀をすぐさま手に取りながら、なんとか立ち上がり、反撃に備えるようにマコトを視界に捉えた。
僅かに抉れた腹から血が流れる。普通即死してもおかしくない一撃だが、入り切る途中に能力で凌いだのだろう。
「……返してもらうぞ」
マコトの目的は殺害や逮捕ではない。
勿論、可能ならばそうすべきだ。しかし、このレベルの相手が組織だって白昼堂々犯行に及んだ。
その規模もわからぬこの状況で固執するのは愚の骨頂。
何よりも今帯びている任務は、否、それ以前に重要なのは羽黒レイの身の安全の確保だった。
戸破を殴り飛ばしたという事は、その前に足下で気絶していたレイはよもやマコトが確保したのと同義。加えてダメージも十分、能力も相まって戸破が本気で走るマコトに追いつく事はない。
男が倒れて立ち上がろうという間に、マコトは擬似装甲を解き、うつ伏せで床に倒れるレイを仰向けにする。そしてその片足を脇に抱え、ゴロンと前転すれば、素早く彼を担いだ。
レンジャーロールという、負傷者等を一人で手早く回収する手法だ。マコトがこうして実際に使う機会は初めてだが、教科書通りの動きをこうまで冷静にやれたのは、羽黒レイが確かに呼吸しており、死ぬほどの傷もないだろう事が間近にして確認できたからだろう。
この運び方ならば、片手が空く。マコトの片手はライフルよりも頼れる訳だから、今この瞬間では最適だ。
「……お前、組織の人間か……!」
二重体質者を躊躇なく運ぼうというマコトを見て、戸破はいった。
外部の組織の存在を知る敵ともなれば、それこそマコトの推しはかれる所にはない。
「……」
マコトは答えなかった。
血みどろの車内。今彼に見えているのは戸破より、散乱する殺された人々だ。だが、彼らの仇を今この手で取る事はできない。
マコトは内心で侘びながら、破られた車窓に目を向ける。
そこから飛び降りようとした、その時だった。
蜻蛉の異形が、眼前に浮上する。
ヒーローとして学ぶならば、異形型及び生き物の知識は必須だ。間近でその全貌を見たマコトは、その特徴から正体を見た。
衣服の隙間から覗く黄と黒の縞模様の身体、緑色の巨大な複眼。筋骨隆々の異形の肉体、甲殻、重低音を鳴らす翅。
それは即ち──。
「オニヤンマ……!?」
異形型、その中でも特に素早い生き物であるならば、不自然ではない。だが、それにしても速過ぎる。
マコトは鉄道には詳しくはないが、電車というのは多少遅く見積もっても、時速70kmは下っていない。少なくとも、この電車の速度は体感的に時速80kmは出ていると確信していたし、実際、もっと速くてもおかしくない。
よもや、走行中に一度叩き落として僅か十数秒で追い着くのはまさしく怪物的。そして、そんな刺客に対してマコトは今レイを担いでいる。
重さは兎も角、人を担ぎながらとなれば動きに制限が出るのは当然。
「また会ったな」
その輪郭がエネルギー、思念力で僅かな揺らぎを纏う。表情は解らない、だがその異形は絶好の機会を前に確かに嗤った。
次の瞬間、発達した筋肉が躍動する。急加速し突撃する蜻蛉の強烈な蹴りが、マコトに襲いかかる。瞬間、マコトは電車内に押し込まれるように吹き飛び、背中から閉じた扉に叩きつけられ、床に墜落した。まるで、古い特撮のやられ役さながらだ。
「ほう。能力に恵まれ、勘も良いか」
防御、受け、ガード……という概念。徒手であれ、武器を持った者同士であれ、格闘技や武術にそれらは存在するが、それはあくまで同じ生き物の土俵に立って可能なもの。
人を効率的に壊す技術を持つ猛獣に殴られて、人がどうして対抗できるだろう。
「はーっ……」
マコトはレイを下ろしながら、息を吐いた。
結論から言うと、マコトの防御は成功した。
特異的な思念力を持つマコトでも上げられる本体の強度、タフネスに下駄を履かせられる程度には限度がある。この威力の白兵攻撃をもろに喰らえば、それで勝負有りになりかねない。
だが、指向性を与えればその力は鎧となる。
普通、自身の動作に従ってそれを増幅させるように働かせる力を、攻撃の来る方向に対して真っ直ぐ反発させるように、相手の攻撃を押し戻すように力を放出する。そして、今回はその場に留まらず、一方向だけに防御を行う事で押し戻す力で身体を後退させ、少しでも間合いを外しクリーンヒットからは逃れる。その上で、内臓を守るために空いた片腕で受ける。
一連の──強いて名付けるのならば、反発する力場による──防御を咄嗟に行う事で、不意に飛んできた致命的な攻撃によるダメージを極限まで抑えたのだ。
「想定外だが、仕方ない」
ホバリング飛行しながら、異形は電車に戻ってきた。
「動けるか」
鬼蜻蜓が、戸破に問いかけた。
「軽傷だ。だが、気を付けろ梶島。中々、ブッ飛んでるぜ。奴は」
「心得た」
マコトのミスは自身がどこまでやれるかを、自身の脅威度をこれでもかと彼らに思い知らせてしまった事だ。
「二対一だ……いいのか?帰らなくて」
刀を振るい、戸破は首を鳴らした。
笑う割に、油断や隙は一切無さそうであった。
「お前らこそ、いいのかよ」
マコトは、口角を上げて歪に笑った。
握り棒を掴むと、その銀色の鉄棒が微かな煌めきを纏う。斬撃が迸り、それは鋭利に切り出された即席の武器になる。
「たった二人で」
決して逃げはしない。
即席の得物を手に吼える、それが答えだ。
笑っちまうくらいの虚勢だが、笑っていなきゃあやってられない。そういう事もある。
マコトは間違ってはいなかった。最大の勝機に持つ全てを賭けたが、足抜けするには賭け金が足りなかった。それだけだ。誰しもそういう事はある、運だけでは勝てないが運が無いと負ける事はある。
勝ち目が薄い事は誰の目にも明らかだが、例えそれが一見絶望的な自殺行為であろうと、勝つつもりでやるのならばそれは立派な戦いで、自殺行為とは程遠い。
少なくとも、彼にとってはそうだった。
「殺す」
蜻蛉の翅が、重低音を一層大きく響かせた。
「ッ」
その時だった。見てからなんて悠長な事をしていては間に合わない。来る──という直感に任せ、マコトはそのエネルギーを増幅させ、得物を振るった。
その先端で煌めく力が揺らめいて螺旋が描かれて、収縮し、拡散する。
振るう力、そのインパクトの最高点を中心に拡散したのは夥しい数の貫くような光線。放射状に飛来するそれは、例えどんなに素早く動けても避ける余裕を与えない。
必ず殺すと書くから必殺と呼ぶ。ならばこれは、ただ、効率的に正確に確実に殺す為の、確かに必殺技である。
学生同士の模擬戦では流石のマコトも使えない。情け容赦のない技。
そんな弾幕は、馬鹿げた運動エネルギーそのものであるならば、車内の天井や壁面、車窓を穴だらけにし叩き割る。ガラスを飛散させ、床や天井にも、滅茶苦茶に風穴を空けた。
戸破はやはりすり抜けて、悠々と迫ってくる。だが、こちらは後だ。問題は鬼蜻蜓。
この異形さえ倒せば、逃げ切る事は容易である。
しかし──。
「甘い」
エメラルド色の複眼が、恐るべき動体視力で弾幕を捉え、鬼蜻蜓はその僅かな隙間を縫うように、正確に動き回る。
まるでカーソルかレーザーポインタを動かすような、物理的な慣性から逸脱したような非現実的にすら見えるあらゆる方向への急加速、急停止から織りなす自在の軌道、身体を捻りながらぎりぎりの角度で突き抜けてゆく。
弾幕の放たれた瞬間からそれらを連続して成功させる事で、身を躱した鬼蜻蜓はマコトへの肉薄を成功させた。
「!」
眼前に迫る異形を前に、マコトは目を見開く。
彼にとって……否、万人にとって異形型と戦うのにこの間合いは、危険という言葉では足りない。
だが、それ以上に目立ったダメージなく掻い潜って見せたその相手に驚いていた。
梶島が加速を乗せた手刀を放ち、対抗するようにマコトは反発する力場、運動エネルギーという力を加算した得物を叩きつける。
力と力が衝突し──両者共に、吹き飛ばされた。
パワーにおいて一見は互角、だが。
「クソ、慣れてるな」
鬼蜻蜓が高速で、吹き飛ばされるまま割れた窓ガラスの外に出た──受けた衝撃を計算に入れ、咄嗟に横に移動するように飛行する事で電車の外に出たのだろう──だが、ほんの刹那に行われたこの動作で、マコトは相手のその明確な位置を見失う羽目になる。
外に目を向ければ一瞬窓の外で鬼蜻蜓の身体の一部が見切れる。すぐに次に備えねばならない。が、タイミングを読むのは至難かつ、マコトの相手は一人ではない。
「忘れてもらっちゃ、困るぜ」
戸破が刀を手に迫る。攻撃を恐れる理由がないからか、最短距離で突っ込むのに迷いはないようだった。
その攻撃は性質上防御では止められず、回避が必須。その上、カウンターでなければ仕留められない。そして、マコトは既にそれなりに手の内を明かしている。タイマンでの攻防で仕留められなかったがここで尾を引いた。
と、ここで同時に、マコトの背後で窓ガラスが破られる音が鳴り、翅の鳴らす重低音が響く。
「明日には忘れてやる」
マコトは咄嗟に挟み撃ちに対応する為、窓を背後とし、車両の手前と奥、つまり側面の両方を対処するような姿勢を取った。否、取らざるを得なかった。
身体を鬼蜻蜓の方に向けていた。事実、ほとんど意識を鬼蜻蜓に持っていかれているが、そうして即座に防御の姿勢を取らねば次の瞬間には首を飛ばされるほどの圧力をマコトは感じていた。
依然、不利は変わらない。
鬼蜻蜓が猛スピードで迫る。それも馬鹿正直に直線的にではない。縦横無尽の軌道で飛び回るフェイントを交えてだ。幾ら速くともその速度を相手が経験した以上、舐めてかからないという訳だ。つまり、梶島は反応される場合を捨てていない可能性が高い。……実際、今ならばマコトも反応は可能であった。だが、反応と対応とでは天と地ほどの差がある。
野球で例えるなら、いくらプロ野球選手でも、来ると分かっていても時速160数km/hで投じられたミサイルのような豪速球を、どこに来るかまでわからない球にバットを当てられるのか。
これとほとんど同じだ。正確に見切る?──無茶だ。手を出すので精一杯。三回に一回ヒットにできたら良い方で、タイミングを合わせて振る他ない。反応するので精一杯、なんとか当てるので精一杯、それが現実だ。
ここで野球と違う点は、初球に対応し損ねれば即ゲームセットになりうるという所か。殺し合いとは常にそういうもので、それが数的不利となれば尚更だろう。
だからこそ、鬼蜻蜓は戸破という仲間の存在を存分に生かし、フェイントと圧力をかけているとも言える。
マコトが一手誤れば死ぬが、いつでも向こうは能動的に仕掛けられる状況に仕立てたのだ。
「(さアて、どうする……!?)」
極彩色の瞳が左右を泳ぐ。
だが、彼には思考の余地もなかった。
断頭台の今まさに降るギロチンが咎人の心の整理など待たないように、運命はそれを被る人間を待ちはしない。
間合いにまで迫った戸破が容赦なくマコトの首元目掛けて薙ぐように刀を振るい、マコトが間一髪で姿勢を低くして避ければ、切られた髪が何本か舞う。
そして、髪が切られ、数本かが宙に舞おうというよりほんの少しかもう少し先のタイミングで、ブゥンという翅音が一層大きく響いた。そして、そうとわかるより先に梶島の加速の乗った蹴りが回避動作中のマコトの土手っ腹に迫り──蜻蛉の攻撃は、確かな衝撃と手応えを得た。強烈な衝撃が響き、周囲の埃が舞う。
「何──ッ!」
驚き声を上げたのは鬼蜻蜓の異形、梶島。
その蹴りは、刹那放たれた翠色冷光に衝突し、傾斜する装甲に衝突した弾丸のように弾かれていた。
……マコトの能力は力に指向性は与えられるが、射出が基本。あらゆる能力と同じようにその操作には限度があり、逆に操作の範疇ならば大抵やれる。
それは、身体を軸に回転する力の流れである擬似装甲と、自ら放つ反発する力場の応用。
持続的にでなく、ドンピシャのタイミングで、瞬間的に強力な回転する力場を展開して相手の攻撃にぶつける形で勢いと軌道を逸らす事で、諸に喰らえば絶命の避けられない一撃を凌いだのだ。
反応する事で対応とする、反応装甲。
身を守る為の奥の手だが、反応をやってのけるのは他でもない本人だ。
「ビンゴ!!」
そして、凌いでみせたのならば、後はホームランを狙い、力一杯振り切るだけだ。
思い切り、全身全霊という言葉の通り、マコトが両手で握りしめた得物を最短最速で突き出せば、その鋭利な先端は心臓目掛けて滑り込む。
例え頑強な異形型の肉体だろうとも、彼の能力を纏ったならば、熱したナイフでバターを削ぐよりずっと滑らかにその刺突は沈み込むだろう。
「!……」
梶島は咄嗟に斜め後ろに逃げるように飛ぶ。姿勢はそのまま、後方にすら飛べるのが蜻蛉の驚異的な飛行能力。
だが、今回ばかりは心臓に引き寄せられるように迫る短槍が素早かった。
「獲った」
届く。マコトの確信は。
「と思ったか」
否。
マコトが土壇場を乗り切れるのならば、相手もまた同じだった。迫る一撃に梶島は、反応した。
恐るべき動体視力が、回避不能を悟らせれば、身体を捻りながら強引に先端に手を貫かせて、腕を振るい、腕力で強引に軌道をずらした。
穴こそ空けたが、後退する蜻蛉の手から勢い余って引き抜かれた得物は床に叩きつけられ、床を深く抉る。
あと半歩、届かない。そして、それは命取りだ。
「殺れ、戸破」
鬼蜻蜓が冷淡に告げた。そして、告げるより先に、戸破は返す刀で斬りかかる。
隙を晒したマコトの眼前に白刃が迫り、頭を割られる──と、次の瞬間、床に沈んだ得物が瞬き強烈な瞬きと共に加速した。
戸破の元へマコトは身体ごと迫り、持ち手側の短槍の矛先もまた使い手と同じ方向へ急加速する。
戸破の振るう刃が彼の顔面に触れる。そしてその刃が確かに深く沈み込み、マコトの頭を割るよりもほんの僅か先か、あるいはほとんど同時に槍が到達し──
「ッチ」
──堪らず能力を使った戸破とマコトはすれ違った。
「飲み込み早えな」
戸破はすぐさま振り返り、間合いを離したマコトを見据えて呟いた。
戸破の能力は、本体の使う得物も本体も、すり抜ける時は両方がすり抜け、実体を持つ時は両方が実体を持つ。
当然と言えば当然か。そうでなければカウンターなど喰らわない。無敵なのだから。
「……はあぁぁぁあああ……」
平静を装い、マコトは息を吐いた。
異様な興奮と緊張と澄んだ思考とが彼の視る世界を仔細に分析する。
冷ややかな刃が押し当たる感触が、彼の顔面に強く残っていた。
梶島の攻撃、戸破の攻撃、いずれへの対処もほんの少しでも遅れていれば、僅かでも誤っていれば、絶命の末路は避けられなかっただろう。
幸運か将又悪運か。二対一でこの刹那互角に立ち回ったのだ。幾つもの攻防で判断、動作の全ては問題無く、つまり彼は絶好調というわけだ。
だが、絶好調であって尚、このままでは戦いの均衡は不利な形で崩れるだろう事を彼は理解していた。
その前に、均衡を打ち崩す手段があるならば──。