第十三話 ダイ・ハード
詠航マコトは、長く孤独に生きてきた。特殊体質者にはよくある話だ。
だが、マコトの能力は厄介な事に特別強力。他の特殊体質者と比べても、自重せねば破壊の規模は余りあるもの。
そして、その危険性が理解らぬ彼ではない。能力を望みながら、生まれた人間はいない。何か壊したくて、生まれてくる赤子はいない。
マコトにも、人並みの優しさはある。ならば、自身を恐怖するのに時間はかからなかった。
例えば、ある日、小学生が学校に行くのが気に食わないと思うとする。
そんなのは、よくある話だ。普通なら、ごねたり泣いてみたり、嫌々な行ってみたりして、幼子は幼子らしく、日常を過ごしていく。
だが、もし学校を目前にマコトが癇癪を起こせば?もし、手を滑らせれば──そこには変わらぬ日常はない。
特別大惨事を引き起こせるスイッチを、物心ついたばかりの子供が持たされている。制御できる保証なんてどこにもない。
これが、狂気の沙汰と言わずして何であるというのか。
恐ろしい怪物が、間違えて人の感覚を持って人の姿形をして産まれてきてしまったのだ。
銃弾よりも爆弾よりも、簡単に人の命を奪えるものが生まれた時から身体に備わっていて、どうして普通の人間になれるだろう。
負目という楔は、人を孤独に繋ぎ止めるには十分に重い。
かと言って、家庭の居心地も良くはなかった。
マコトの両親は仲が悪かった。いや、厳密には良いと思える要素が一つもなかった。中学生の辺りで離婚したが、少なくとも、物心ついた時には真っ当に二人が話していることなどほとんどない。
マコトが夫婦の会話という概念を持ったのはつい最近、仲良し夫婦の会話劇など訪ねた友人宅で初めて知り、なるほど、我が両親の仲はやはり悪かったのだなと知ったのだ。
両親はそれでいて奇妙な新興宗教の信者だった。これは異変を経験した不安と混沌に満ちた時代に生きた世代なら、ありがちな話だ。
母親の方が熱心で、父親は然程熱心では無かった。とは言っても、不況のお陰で忙しなく共働きをする二人にはそう活動する暇はなかった。
真理救済教という、特殊体質者の登場という実現してしまったオカルトを利用するという点では日本有数のシェアを誇るクラブだ。
怪しげな老人、雁野田畢竟を教祖に据えて、広くその教えとやらを喧伝している。
曰く「この世の全ての出来事に意味がある。この世の真理は普遍的な愛であり、全ての命には平等に価値がある。また、異変とは、この真理に向き合う為の人類に齎された試練だ」
……ということを、教祖たる雁野田畢竟がある日突然宇宙と交信して全て悟ったと自称し、その教えを広めている。
その他にも、
「全ての人間は特殊体質者であれ、一般人であれ、宇宙の定めた運命の特別な存在である」だとか
「各々が正真正銘の愛を向け合う世界平和の実現に向けて活動している」だとか
「罪人だろうと、どんな人間だろうと、この教えを遵守する者が偉い」だとか
「他の宗教は誤りを人に教え、地獄に導くけしからん教えだ。善意であろうとそんな事をしていては地獄に落ちる、我々の教えならば云々」だとか
「とにかく、経を唱えれば物事はより良い方向に進んでいく」だとか
歯の浮くような、真っ当な神経をしていればそんな台詞を吐く途中で笑ってしまうような、精神を病んでいなければ思いつきもしないような、狂気の沙汰を鍋で三日三晩煮詰めてドロドロに濃縮還元したような、冗談みたいにスカスカの絵空事と矛盾に満ちた美辞麗句を、恥ずかしげもなく教祖が演説して信者はそれをありがたく聞き、敬虔なナチス党員さながら拍手喝采を浴びせるのだ。
無宗教、他宗教の善人は、果たして信じる悪人よりも程度が低いのか?仮にそうでないなら、信心深い事よりも善人である人間の方が敬意を払うに値するのではないか?
信仰している者が偉いと語っておきながら、しかし、言い訳がましく、そうでなければ偉くないというわけでもなく、ただその方が良いのだと馬鹿げた事を語る両親に、幼いマコトは辟易した。
幼くして抱いた疑念一つ納得させられず、屁理屈を捏ねて答えにならぬ答えを乱立させるしかない薄っぺらな価値観。
だが、これが世の中にはウケた。
特殊体質者を持つ悩める親、悩める特殊体質者、混乱した時代や現実を直視出来ない人々、現実逃避して何かに自らを投げ出したい、責任から逃れたい逃亡者にとにかくウケた。
何やら経を唱えたり、修行をしたり、教団に金を出すと徳が積めると言って活動させる。
活動してその成果を報告すれば、褒められる。組織というサイクルに各々の人生を嵌め込む手法は、
カネを生んだ。
経を唱えれば、金が稼げるのか?経を唱えれば、病が治るのか?経を唱えれば、幸福になれるのか?……至極当然、なれるワケがない。
仏教的な皮を被った、宇宙がどうのというオカルトと異変とをミックスさせたカルト。
これは何か決まり事やルールがあれば疑問を投げかけるような、根本から真摯に考える性分のマコトにこれは響かなかった。
マコトはその孤独感と自らに悩む様を慰められる時、決まって綺麗事の定型文とカルト用語を並び立てられてきた。
なぜ、正しいと言い切れるのかとなれば、こんなに凄い雁野田某が言っているから安心だと言うような理屈で疑問という疑問を片付けられる。
こうやって、マコトは現実問題を一見納得させられる。しかし、蓋を開けてみればそれらは何の役にも立ちやしない。子供というのは物覚えが早いもので、時期に諦めというものを知る。
早いうちに、現実に差し迫った危機と孤独を持つマコトにとってこれは納得のできぬ、つまらない、気休めのやりとりになり果てていた。
「大きくなったらわかるようになるんだ」というようなことを言われたら、もう諦めて納得した素振りを見せる。そうすると、マコトの両親は決まって満足げにするのだ。
こんな風に生まれた己は生まれてきてよかったのか?遥か個人を上回る力を持った人間は、よもやそれは個人なのか?人間ですらないのではないか?
成長すればするだけ、マコトの胸中に溢れる疑問や現実への慟哭と戦うのに、両親の言葉は邪魔だった。マコトが与えられてきた気色の悪い価値観──特に宗教の宗教的な宗教らしい、盲目で反知性的な──現実を生きるのに役に立たない現実逃避の理念は、人生に何の解決にもならなかった。
だが、マコトは決して両親を憎んではいない。
憎む事はあったが、愛着がないわけでない。愛されなかった訳でもない。だが、理解し合う事が永遠にないだけだ。否、人と人が真に理解し合う事はないというのが、マコトが学んだ唯一の真理である。
だが、マコトには、そんな唾棄すべき醜いものよりも、もっと尊ぶべき価値があった。
幼馴染がいた。天真爛漫で可愛らしい女の子だ。
物心ついた頃には、その髪色と瞳、発現した人にはない何か特別な力から、マコトは自分が人と違う事のわかっていた──大体の特殊体質者にとってそうだろうが──そんな中で分け隔てなく全く同じ人間として接してくる人は、歳を取る事にどんどん減っていく。
彼女は、分け隔てないという所ではなかった。
もしも、マコトが誰かと喧嘩をしてマコトと誰かの傷つけあう事を悲しんで泣いてしまうような、マコトが仲間外れにされるのならば自分が仲間外れにされるかもしれなくても、マコトと一緒にいてくれる。
つまり、彼女は何かの間違いで地上に産まれ落ちた女神のような、頭のてっぺんから爪先までが、思いやりと善意とお茶目さでできた、幼くて純粋だからなんて説明では割り切れない、とにかく美しい生き物だった。
「ねえ、アイはなんで僕と遊んでくれるの」
歳の頃をマコトは覚えていないが、ある日、疑問に思って問いかけた事がある。
「ふふ、なんでってお友達だからじゃない」
彼女はいつだってまっすぐな瞳でマコトの顔を覗き込み、そして、よく笑った。
「!……ありがとう」
「ううん、私こそマコトと遊ぶの楽しいの」
その時、マコトは子供ながらにバカな事を聞いたんだなと思った。だが、聞いてよかったと心の底から思えた。
マコトは、くだらない宗教やバカげたオカルトの理屈を前提にしなくとも、人を肯定してよいのだという、自分は肯定されるのだという、新たな価値に彼女を通して発見していたのだ。
当然、彼女は周りにいるすべての人々に、全ての人間に好かれ、よく可愛がられた。
いつもしかめ面で気難しい近所のマンションの掃除のおばさんや、学校の怖い先生さえ、笑顔で挨拶する彼女には頬を緩めて、にこやかな家族団欒にでもいるような顔をする。
同級生は皆、彼女と仲が良かった。そして、そんな彼女が仲良くしてくれるから、マコトが完全に孤立する事はなかった。
能力ではない。他人と同じ、同じ人間、同じ優しさがどれほど尊いものか、そう扱われる事が、ただ一人の特殊体質者にとってどれほどの救いであろうか。
そんな彼女は、この世の全ての人間が見習うべき博愛主義者?歴史上、最も性善説の言う所の全てが詰め込まれた生き物?…ともかく、彼にとっては筆舌には尽くしがたく、誰よりも幸せになるべき存在だった。
マコトが十歳の秋、一緒に遊び歩いた日の帰りだった。日の沈む頃になると、子供達はまた明日と皆んなが各々が帰る家を目指して、各々が迫る門限に追われて別れていく。なんでもない日常の風景だ。
彼女とマコトはよく遊んでいた。そして、家に帰るまでの道が途中まで同じだからと、二人で歩くこともしょっちゅうだった。
「マコトさ」
「陽にあたると、目がすごく綺麗」
夕陽に当てられて、極彩色の瞳はどこか神秘的な雰囲気を纏っているのかもしれない。
「そ、そう?」
マコトは、この瞳を褒められる事には慣れている。普段なら特別喜ぶ事でもなく、そんな振りをすればよかった。
しかし、マコトにとって彼女に褒められる事は何よりも嬉しいことであった。
こうやって褒められるのならばもう、マコトにとってこの瞳は堂々と誇るべきものになっていた。
「うん!すごく綺麗よ、いいなあ」
アイが笑顔で頷いた。
「ありがと」
けれども、マコトは、自分の瞳なんかよりもずっと美しいものを知っていた。
「アイ、家まで俺もいこうか」
マコトが紳士的に申し出たのはただそれっぽく付け足した理由で、実際はもう少し話したかっただけかもしれない。
「ありがとう!けど、マコトも時間ギリギリでしょ。だから、大丈夫」
アイは首を横に振る。
「そう……じゃあ、また明日!」
手を目一杯振って、明日の挨拶を告げる。
「うん、また明日!」
とびきりの笑顔で、手を振ると彼女は去っていく。
マコトがもう一度振り返った時、
彼女の後ろ姿は、車に搔き消された。
「マコト」
外の雨は、いつの間にか止んでいた。
車窓から差し込む夕陽が暖かかった。
目を醒ました。
そこには、何でもない自分がいる。
夕方の夢現はいつも同じ。
同じ夕陽の下、同じ夢を見る。
隣に、親友はいなかった。
「……」
血塗れの少年の額にズキズキと鋭い痛みが響く。
マコトの額から何かがこぼれ落ちて、ソファに転がった。
そこに転がる実弾を見て、最後の記憶──パンと鳴る乾いた銃声──をマコトは思い出した。
「……」
死屍累々、地獄の鬼がやってきたかのような血溜まりの車内。乗客は皆、死んでいた。
男が蜂の巣にされ、女が脳を床にぶち撒け、子供が顔の原型も留めず倒れ、老人が血溜まりに斃れる。不愉快な血の臭いが漂い、鼻腔を突く。
マコトにそれはどうでもよかったし、驚く程それに何か感じるところはなかった。
マコトの目の前に、見知らぬ少女が立っていた。
影を持たず、ただ降り注ぐ夕陽の狭間に立つその少女が死に瀕した人間の見る幻惑か何かの、実体のないということだけマコトは本能的に理解った。
しかし、確かにどこかで見かけたような、誰かに似る気もする。しかし、それがどこの誰かはわからない。
凛とした強い意志を持つその少女は、虚な目をしたマコトを見つめる。
彼女は、脳かあるいは自らの肉体が、死に瀕してその意志に訴えかける伝言か何かだろうか。臨死体験者の語る奇妙な経験と同種のものか。あるいは、とうとうイカれたのか。
少女が、向こうを指で指した。
マコトがそちらを向けばその先には二人の敵と、その足元に床に転がされるレイがいた。
そこにいるのは銃と刀を持った男と、蜻蛉の異形だ。事情は解らないが、そんなことはどうでもよかった。
「……ふ」
マコトに、笑みが溢れた。極彩色の瞳が意志を取り戻す。夕陽に当てられて奥底に揺らめく輝きを以て、眼前の敵を明確に認識する。
夢現の狭間から抜け出し、ゆらり立ち上がった。
仮にこの幻覚が本能の齎すものであるならば、骨の髄まで前のめりに死ぬ事を望んでいるようだ。もしも、そうでないとしてもそうありたい。
だからこそ、マコトは今正にそうなのだろうと思い込む事にした。
「ありがとう」
人は見たいものしか見れない。ならば、きっと、人はなりたいものにしか成れない。
マコトは、少女に背中を向けて小さく礼を言った。
「そうか。良いぞ、車田」
「降ろして正解だった。連中がそのつもりなら、コイツはこっちで──」
インカムに話しかける男が、マコトに気がついた。
「ッチ……梶島、仕事だ」




