4 始まり
「・・・り、・・・・優里。」
声がぼんやり響いてくる。
声に促され、優里がゆっくりと目を開けた。
頭の片方が少し温かく、ゆっくりと揺れていた。自分の呼吸と同じペースで。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
何も考えずに、ただ列車の音をしばらく聞いて、優里は我に返った。
「!?。」
スッと立ち上がる。
前にも同じ経験があった。
一人旅の時に降りるべき駅を寝過ごしてしまった時と同じ感覚だ。
冷汗が額に滲み出てくる。
「大丈夫ですよ優里。」
隣を見ると自分の焦り具合を観察して微笑んでいるアンドロイドがいた。
「・・・あぁ、イロハさん。」
その名前を出して優里は状況を理解した。
「まだ、着いていないんだよね。」
「はい、もう後、三分ほどで着きますよ。安心して下さい。」
「良かった。ごめんねイロハ。」
「いえ、大丈夫ですよ。気持ちよく寝れたみたいですね。脳波がレム睡眠の最高値を常にキープしていました。」
イロハの言っていることがよく分からなかったが、よく眠れたのは事実だった。
何時以来だろうか、こんなによく寝れたのは。
ほんの三十分も満たない時間であったのにも関わらず、何十時間も睡眠をとった感覚であった。
「確かにすごくよく眠れた。そんな気がする。」
「ふふ、寝ている時、優里は思いっきり涎を垂らしていましたね。」
「えっ。」
優里は慌てて自分の服の所々に目を通した。
ぱっと見た感じ、特に湿っているような部分はない。
「安心して下さい、服に落ちる前にちゃんと拭きましたから。」
優里は頭を抱えながらイロハに言った。
「うぅ、ごめんイロハ。」
「初めて会った時はものすごくクールだと思いましたけど、あんな寝顔されたら、優里はますます可愛いですね。」
「うぅ。」
思わず顔が真っ赤になる。
「あれ、優里先輩、どうしたんです?」
隣を見ると猫が腹を見せるように寝転んで寝ていた小山がぱっちりと目を開けて自分を見ていた。
「何でもない。」
優里は素っ気ない態度をとって小山から顔をそらした。
その光景を見てイロハは静かに笑っていた。
「まもなくこの電車は奏山に到着します。降車される方はお忘れ物が無いようにお願い申し上げます。」
この電車を運転している車掌の声だった。
運転席でマイクを使い、三人しかいない車内に放送したらしい。
マイク越しに電車の走る音が届き、車内では音が鳴る度にエコーがかかっているように聞こえた。
「あっ、ここですね私が降りる所は。」
「あっそうなんだ、いろいろとありがとね。聖子。」
「いえ、いいですよ。何かあったら連絡してください。優里先輩。」
「えぇ。」
小山が起き上がり荷物を持とうとした、その時にイロハも立ち上がり優里に告げた。
「優里、あなたもここで降りて下さい。」
「?」
「さっき遥斗様から連絡がありました。聖子さんと同じ駅で降りて欲しいとのことです。」
「そうなんだ。」
切符は彼の家の近くにある駅まで買ってしまった。
だが、数十円の違いなので、そこのところはあまり気にはしなかった。
気にするべきところはそこではなかったからだ。
「そこからどうやって近衛君の家まで行くの?」
「遥斗様が車で迎えに来てくれるそうです。」
「・・・近衛君って今何歳?」
「そこは、個人情報なので私の口からは言えません。」
「・・・。」
心の中に生まれたモヤモヤ。
しかし、自分が行ったことのない土地であったため、知っている人の言うことを聞いておいた方が後々困ることはない。
優里は自分の荷物と青い袋を持って立ち上がり、二人に続いて出口がある前に進んだ。
三人が降りて、乗車する人がいないことを確認した車掌が鮮やかな緑色に染まっている山に汽笛を響かせ、駅を出発した。
町にめがけて夕日が顔を出す山に反響する汽笛の音は、遠く心寂しい何かを思い出させるように感じた。
優里は電車の姿がどんどん小さくなっていくのを横目にして、辺りを見渡した。
優里が今立っている場所一帯は何の変哲もない殺風景な無人の駅だった。
ホームに人が入り放題、レーンに人が乗り放題、というかレーンを渡らないと出口がある反対側のホームに行くことができなかった。
「あそこのホームの端にある坂を下りると向こう側に渡る道があります。」
小山が指で場所を指して丁寧に教えてくれた。
と思ったが、そう言ったはずの小山がホームの端に行かず、その場から線路に降りた。
「よいしょ。」
ジャッジャッ。
荒い石の集まりを踏む音が優里の耳に入る。
「ちょっ、いいの?それ?」
「ん?いつもこんな感じですよ。いつもならこのまま縦断しちゃいます。」
そう言って小山は線路を挟んで向こう側のホームにある無人駅を指差す。
優里が今いる場所の真向かいにあった。
しかしながら、ホームの高さは決して低いわけではない。
優里も降りれば胸の付近まではある。
だが、小山にとっては何も感じないほどの高さなのだろう。
「優里は私と行きましょう。」
イロハが優里に声をかける。
「う、うん。」
軽く離れた距離で荒い石を踏む音が、子供の頃のワクワクを思い出させてくる。
それから、木造の無人駅を通過して駅から出ると、そこに白いワンボックスの車が止まっていた。
その車を見るとすぐに小山が車に駆け付けた。
運転席から一人の少年が降り、小山と親し気に話し始めた。
身長が小山から頭一つ低く、作業着みたいなものを着ていた。
油で汚れている様子はなく、むしろ清潔感に満ち溢れている格好だった。
一番最初に目に入ったことが、彼の髪の色であった。
黒髪であったが、三分の一ほど白銀の月のような白髪であったのだ。
アルビノという言葉を聞いたことがある。
遺伝子の突然変異で体の色素が抜けることだ。
この少年の場合、体の左半分の色素が抜けているように見える。
彼の左目から黒い光が全く見えなかった。
その少年が優里たちに気づくと、優里とイロハの元に向かって歩きだした。
近づいてくるたびに少しずつ警戒心が増していく。
「初めまして、かな。水野さん。僕は近衛遥斗と言います。今さっき学校から聞いたよ、部品を届けに来てくれたんだよね。ありがとう。」
「は、初めまして、水野優里です。‥‥あなたが近衛君?」
「そうだよ。‥‥‥ん?」
拍子抜けだった。
学校にほとんど来ることがなく、車を運転するくせに、どこにでもいるようなあっさりとした少年だったからだ。
「僕の顔に何か付いてる?」
自分の驚きを隠すように水野は言った。
「いや、何でもないけど、‥‥あれ、近衛君が運転してるの。」
優里は白いワンボックスカーを指差した。
「‥‥‥あぁ、そっか。そりゃ驚くよね。僕はまだ17だからね。まぁ、立ち話もなんだし、移動しながら話そう。それに、この路線はあと三時間くらい次のものが来ないからね。」
イロハはというと優里が指さした車の助手席に既に座っており、窓を開けて聖子と話していた。
まだ、イロハの言うスリープモードには入っていないようだ。
「さぁ後ろに乗って、学校の先生に僕が何をしているか教えて欲しいって頼まれたから。とりあえず僕の家まで送るよ。」
「あ、そ、そうなんだ。なんだか、ごめん。」
自分の知らないところで誰かが動いているようだ。
初対面の同級生のもてなしを、しかも自分のために迎えまで来てくれたので、無下に断ることができず、近衛遥斗の家まで行くことになった。
恐怖心はあったが、先程、聖子が親しげに話していたので、そこまでの大きな恐れはなかった。
「いいよ、気にしないで、お客さんの待遇は慣れてるからさ。」
苦笑いが上手な近衛遥斗だった。
流れが全て仕組まれているような、そんな気がしてならなかった。
あの、如月という先生がやっていることは世話焼きなのかお節介なのかよくわからない。
そんなことを考えながら、「お、お願いします。」と言って近衛遥斗の車に優里は乗った。
これから水野優里の果てしなく遠く長く終わりの見えない物語が始まった。
全ての始まりは、一人の少年と出会うという、どこにでもあるような普通の出来事だったのだ。
自分にどのような物語が待っているのか、想像することすらできない物語が待っているのに、この時の本人には知る由もなかった。