プロローグ
ーーープロローグーーー
閑静とは程遠いくらいの鈴虫が鳴いている田舎道を、夕日と夜空の間にある星を数えながら歩いていた。
背中には黒いランドセルを、手にはどこにでもありそうな変哲のないボルト(10個ほど) が入った青色のビニール袋を握っていた。
父親から頼まれたものだ。
今日の帰り道でスーツを着た女性から受け取ってほしいと頼まれていた。
案の定、学校の校門を出るとすぐにスーツを着た女性が現れて、このボルトが入った青いビニール袋を手渡された。
袋の中を少し除いてみると、一つ一つのボルトが四角い、袋とは違った材質のビニールで包装されており、中の空気が抜かれていた。
なるべく大切に運んでほしいと頼まれたので慎重に運んでいたつもりだが、どうしてもカチカチと音が鳴ってしまう。
音に驚いた鈴虫たちが鳴くのをやめるので、自分の歩く場所だけが静かになった。
自宅に帰るまでしばらく続くのだろうと思い、通学路をゆっくりと歩く。
肌寒くなってきた。
一週間前までは学校のプールで日が暮れるまで泳いでいたのに、今はもう入りたくもない。
通学路である田舎道の両端は田んぼで、田んぼの水路には夏の始めにゲンジホタルが飛ぶ。
父親から頼まれごとをするようになったのも夏の始めだった。
初めて部品を貰ったとき、ホタルが飛ぶ時間帯に街灯もないこの道を一人で歩いた。
今さっき部品を持ってきたスーツを着た女性が待ち合わせ場所に遅れてきたためである。
女性は頭を下げて謝ってきたが、その日は見たいテレビもなかったし怒る理由もなかった。
「あの、すいません。」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、今さっき部品を持ってきたスーツを着た女性が立っている。
一時間位前に別れたのに、どうして今ここにいるのだろうか。
「どうしたの?」
「いつもありがとうございます。遥斗さん。」
「・・・それを言うためにわざわざこっちに来たの?」
「はい。」
当然だろ、というような表情で平然と佇む女性を見て遥斗はどんな表情を作ればよいか分からなかった。
「こっちこそいつもありがとう。でも、あまりこっちにくるとまたスリープしちゃうよ。」
「私が活動できない範囲は確認できましたので大丈夫です。」
「そうなんだ、今度はいつ来るの?」
「今のところ未定です。」
「分かった。父さんに伝えとく。」
「お願いします。では、失礼します。」
「うん。バイバイ。」
手を振ると彼女は一礼して振り返り、来た道を歩いて帰っていった。
真っ直ぐな姿勢と、均等な歩幅、肩が上下しない歩き方、いつ見ても美しいと思った。
自分の姿勢を見てみる。
小学生なのに少し猫背ぎみだった。
遥斗は稲穂の香りが混ざった空気を大きく吸って背筋を伸ばし、前のめりにならないように堂々と家への歩みを再開した。
周りが田んぼに囲まれている平野にポツンと立った2階立ての木造建築物。芝生が生い茂る中庭を挟んでその隣には、いかにも中で何かを作っていそうな鉄骨や鉄板でできた建物。
その2つの建物と中庭を囲うように葉が多い木が植えられていた。
学校の校門みたいに入口の両端に石柱があり、向かって右側に「近衛 大地」と彫られた表札があった。
頼みごとを任せた父親である。
石柱の間を通ると自家用車を停めている中庭に出るのだが、今父親は出かけているらしく、白い普通自動車がなくなっていた。
中庭を右に進み、木造建築物の家の玄関を開ける。
木と木の擦れる音が鼓膜を震わせた。
「あ、忘れてた。」
玄関に入って靴を脱ごうとした時に右手に持っている青い袋に気づく。
「ハァ。」
ため息をして脱ごうとした靴を履き直す。
背負ったランドセルを下ろし、玄関を開けたままにして家の隣にある工場に向かった。
工場に向かう途中、庭に目をやった。
芝生が意気揚々と生い茂っており、庭の中央、ちょうど家と工場の間にある小さな池は肩身狭そうに緑に囲まれていた。
少し水の流れが悪いので余計に寂しそうに見える。
芝生の高い草が池の周りを囲む石に触れていた。
庭の手入れをしていないことが丸見えだった。
「草取り、忘れてたな。」
誰にも聞かれない独り言を言いながら工場の扉の入口に立った。
入口の隣には大きな横開きの扉がある。
この扉は工場に大きな機材を持ち運ぶ際に開ける扉だが、最近この扉が開いているところを見ていない。
雨風にさらされたおかげで、メッキが剥がれて錆びついていた。
ガチャ、と塩化ビニール?プラスチック?のどちらかでできた軽い扉を開ける。
家の玄関より狭い靴置き場が現れた。
サンダルが一足置いてあり、履物をもう2、3足しか置くことができない広さだ。
その貴重なスペースを一つ潰して土足厳禁の事務所に上がる。
「どこに置いとこうかな。」
四角い事務室の中央にある長方形の低い机。
その両端にある同じ長さの革製のソファ。
ファインダーで日差しが隠れた窓の手前にある父親の書類が乗っかった机。
入口の対角にある作業場入り口の横ぽつんと立っている鼠色のロッカー。
そして、目の前のコンパクトで低い冷蔵庫を挟んである小さな台所。
「適当でいいか。」
事務所内をペタペタと足音を立てて歩き回る。
スリッパとか、作業靴とかに履き替える必要なんてなかった。
それは、父親に作業場に入ることを禁じられていたからだ。
作業場入口の横にあるロッカーに目が入った。
変哲もない縦長のロッカーの横に付いたフック。
普段なら父親が白い実験服を掛けている代物であったが今日はその実験服がない。
「あそこに掛けようか。」
青いビニール袋をフックに掛けようとした。
ふと横を見てみる、すると作業場の扉がほんの少し向こうの空間がギリギリ見えるほど開いていた。
普段、注意深い父親が閉め忘れることなんてあるのだろうか、そんなことを考えながら扉を押して閉めようとする。
「……………コポッ。ポ。…」
「ん?」
なんの音だろうか。水?
どこから?
息を潜めて音の出所を探る。
「・・・・・・・・。」
「この扉の向こう側?」
目の前の作業場入り口の扉だった。
遥斗は持っているビニール袋をロッカーのフックに掛け、その場でしゃがみ入口の扉に耳を当てた。
「.....コポッ、ポ。」
確実に聞こえた。
水槽とかで浄化装置が動いている時に気泡が出るとこんな音がする。
興味があるわけではない、しかし無いわけでもない。
二年前に遡る。
今と同じような時期、遥斗は突然工場の作業場に入れてもらえなくなった。
理由はよくわからない。
物心ついたときから作業場で父親の作業を見ていたのに、突然だった。
その時、どうして?とは思ったが、生活していると次第にその疑問は薄れていった。
誰もいない事務所の中で自分の鼓動だけが聞こえる。
窓から射してくる夕日の光がオレンジの中に紫を混ぜている。
鈴虫の声がより大きくなってきたような気がした。
「・・・・・・。」
2年前、家に帰ると今まで開いたことを見たことがない、工場入り口の隣にある大きな扉が口を開いて何かを待っていた。
疑問を浮かべながら扉のすぐ横を見るといつも自家用車を止めている場所に、引っ越しで使われるトラックが止まっていた。
業者?と思われる人が三人がかりで布が被せられた荷物をトラックの中から出しその扉から中に入れていた。
ランドセルを背負ったまま、工場入り口の隣で立っている父親の元に向う。
父親の白い車はどこへ行ったのだろうか?そんなことを考えながら頭から中庭に突っ込んでいるトラックの後ろを横切ると、ボックスの中には荷物がまだ半分以上残っていた。
運ばれる荷物をずっと見つめて微動だにしない父親に尋ねる。
「父さん。」
「あぁ。お帰り、遥斗。」
「ただいま。・・・これ全部父さんの物なの。」
ボックスの中で布に包まれている荷物に指を差す。
「あぁ、まぁ、そうなった。」
「・・・、なにするための物なの?」
「遥斗がもう少し大きくなったら教えるよ。今はまだ教えれない。」
「・・・わかった。」
その時の父の表情が少し険しく、そして何か悲しそうな表情をしていたような気がしたことを覚えている。
夏が通り過ぎて、秋に入り始める時の気持ちを表しているような表情だった。
「ゴポッ・・・。」
「・・・。」
気泡の音で我に返る。
気づけば窓に差し込む夕日に紫色が侵食を進めていた。
「・・・ちょっとだけなら。」
今まで良心を持って生活をしてきた。
父親の言うことを聞いて、学校でも先生の言うことを聞いて、誰にも嫌われないように振る舞って、自分の意見を述べず人に流されて。
そんな生活をして遥斗は学んだ。
人間は自分の言うことを聞ける物が好きだということを。
そして、自分の良心はいつの間にかそれに基づいて成り立っていた。
気づいたところで、もう変われない。
今まで作り上げてきたものが全て崩れてしまうから。
今の生活は、安定している。
学校でも地域のいろんな人にも優しくしてもらっている。
好きでも、嫌いでもない、安定した生活。
これを壊したくなかった。
でも、一度だけ。
この時の、この一瞬だけ。
良心に好奇心という影が侵食した。
自分でも抑えきれない衝動が背中を優しく押してくる。
「・・・。」
無言で手がドアノブに触れる。
ドアノブの冷たさがほのかに伝わってくる、体温でゆっくりと温まってくると余計に離したくなくなってきた。
喉が渇いて、額に汗が滲み出てくる。
外で虫が鳴いていたのに全然頭の中に入ってこなかった。
無音。
その中でただ聞こえてきたのは胸の高鳴り、その鼓動だけが鼓膜を揺らしていた。
「・・・。」
ドアノブを握りしめ扉を手前にゆっくりと引いた。
僅かに開いた隙間から作業場の中を覗きこむ。
この時は以外にも冷静で背徳感や罪悪感は当然あったが、妙にすっきり、頭の中で自分が何をするべきかしっかりと把握できていた。
中は今どうなっているのか。
作業場の中で何が作られているのか。
この二つが今知りたいことだった。
ただ、この二つが知りたいだけだった。
しかし、この時のこの一瞬が、後の自分の人生を大きく変える要因になると遥斗は思いもしなかった。