ー九頭山の〈大師火〉
トトトという小気味よいエンジン音とともに船は白波を立てて海を切り裂き、辺りを包む闇はどんどん後ろへ流れていく。
密度の濃い夜の潮風が頬や髪をねっとりと撫でつけるのを感じながら、影吉はライトで周囲を照らし出し、波打つ海上に行方不明の船の欠片を捜していった。
見えるのは真っ黒い水面だけだ。
電話は父からだった。二日前から姿が見えなくなっていた漁師、東山裕作の捜索を行う事が決まったのだという。夕食を食べる間もなく、影吉は補佐をするために父の船である第三大輪丸に乗り込んだ。
船は徐々に速度を落とし、やがて動きを止める。
操舵室から出てきた父が隣に並んだ。
「どうだ?」影吉が首を振ると、父は頷いた。
「俺はあっちを見て来る」
波が船体に当たり、とぷん、と響く。
影吉は周囲をくまなく見回したが、やはり船にまつわるものは見つからなかった。
息を吐いて振り返ると、そこには緊張感を漲らせピンッと張った父の背中があった。歳につれて随分と丸くなってきたが、威厳はかえって増している。
代々木霊家が漁師たちを束ねてこられたのは、島を治める長だったのはもとより、その人望によるところが大きいのはないかと影吉は常々思っている。
木霊家にとって、島民は守るべきものなのだ。だから何かあると率先し身を粉にして立ち働き、島民が安心して暮らせるようにと気を配る。影吉はそんな木霊家の男気が好きだったし、自分もまたそういう男になりたかった。
だが、そのたびに兄の存在が気にかかる。地上で父を継ぐ兄と、海上で継ぐ自分。
たまに自分たちは双頭の蛇なのではないかと思う。それぞれ別の方を向いてどちらにも進めず、やがて衰弱して死に至るー
ため息を漏らし、影吉は海へと視線を戻した。黒い波上にはやはり何も見いだせない。
正直なところ、東山はすでに生きてはいないだろうと影吉は考えていた。
行方不明になってから二日以上経っている。ふらふらといなくなる癖があるそうで、彼の妻が通報を遅らせたのが致命的であった。周辺の海はすでに仲間の漁師に捜させている。遠く沖に出て黒潮に流されている可能性もないではないが、ここまで捜索しても見つからないということは、船はほぼ沈没していると思われる。
ー船が…沈む。
黒く、どこまでも広がる海原に足を竦ませる。いくら設備が近代化したといえども、沈没は漁師にとって常に隣り合わせの出来事だ。影吉たって父だって、手順を一つ踏み外すだけで容易に帰らぬ人となる。
島というものは孤独だ。そして、物が乏しい。そんな場所に住む人間にとって、海は物を運んでくる生命線とも言えるものだった。だが、もたらす物は、同時に奪う。
もたらされるのとの対価として、これまでにどれだけの人間が海で命を落としてきたことか……。
背中越しに父の深い息が聞こえ、影吉は我に返った。
腕時計を見ると、すでに出航してから五時間が経過している。もう少し捜索をしても構わないが、朝から“あの”客船の対応にも追われていた父は疲労が溜まっていることだろう。声をかけるべきか迷っていたところ、彼は振り返り苦笑した。
「……帰るか。もう燃料は帰る分しかないしな…」
影吉は、頷いた。
エンジンが軽やかに音を立て、心地よい風が両脇を走って行く。空を見上げても奥行きのある重たげな闇が広がるばかりだったが、帰路であることをおもうと幾分気持ちは軽かった。進むにつれ、島の南西にある灯台が大きく見えてくる。
ぼんやりとした島影の手前を灯台の明かりが回転するのを見ると、影吉はいつもほっとする。誰かが待っていてくれているから漁師は海へと出ることができる。
優香子の顔が浮かび、影吉は心がじんわりと温かくなるのを感じた。他の女子と付き合った事はあるが、存在を感じるだけで気持ちに光が灯るという体験をしたのはこれが初めてだった。これが本当の意味で好きになるという事なのだろうか……彼女とはろくに話したことすらないのに。
視界の端に赤いモノがちらついて、目を上げる。
立ちはだかるように大きくなった島影の左上、九頭山の頂上辺りに赤い光がぽつんと灯っていた。灯台の光に遠慮するように小さく揺らめく、不思議な光ー
「大師火だ……」
口をぽかんと開き、影吉はそう呟いた。
ー九頭山の〈大師火〉。
島の者なら誰であれ知っている。島の有事の先触れとして現れるという謎多き光だ。
嵐や津波の前、江戸時代にアメリカの艦隊が寄港する前、太平洋戦争で北上してくる連合軍が偵察に来る前にも灯っていたと今は亡き祖父から聞かされたが、実際に見るのは初めてだった。
ーこの島に何かが起こるっていうのか……?
朝、客船を見たときのような不安が胸を這い上がってくる。
影吉の心をよそに、船はぬるい夜風を切って島へと近づいていった。