ー父と兄
翌日は日曜日だったため、惰眠をむさぼった影吉は、昼過ぎになりようやく起床した。
目をこすってカーテン越しに光が差す明るい部屋を見回す。深く眠れたためか、頭はすっきりとして気分が良かった。終わってみて初めて東山の捜索に神経をすり減らしていたことに気づく。
ただ、あんな結末だったものの、彼に怒る気にはなれなかった。あの後父から聞いたことだが、東山は本州にある実家の事業の借金を肩代わりし、夜から朝までは漁、昼はアルバイトと身を粉にして働いていたらしい。しかし、疲れが溜まるごとに双方とも上手くいかなくなり、失踪した時には心身ともに限界に達していたのだという。それを知る漁師たちは、失踪中、彼の自殺も疑っていたようだ。
「うわっ、もう二時か」
壁の時計を見て慌てた影吉は、ベッドから起き上がると、パジャマ代わりのジャージとTシャツのまま階段を下りて行く。父と兄が在宅しているかは知らないが、休日といえども遅くまで寝ていたことが後ろめたく感じられ、自然と足を忍ばせる格好となった。一階に下り立ち、キッチンの冷蔵庫を開ける。牛乳しかない事に落胆したが、とりあえず冷たいものが飲めればいい。荒いかごの中にあったコップをとって注ぐ。
「ーなんとしても優香子を島から出す訳にはいかない」
廊下を挟んだ先にある父の仕事部屋から苦悶するような声が聞こえ、影吉は手を止めた。
今、確かに優香子と聞こえた。
コップを置くと、忍び足で父の部屋の前までいき、少しだけ開いていたドアの隙間から中を覗く。部屋奥の書斎机の前に父が腰掛けており、その正面に腕を組んだ兄が立っていた。
「問題は影吉だね。あいつは何も知らないから…。」
「影吉には黙ってるんだ。話さなくていい。あれには関係ない事だから」
父の断固とした口調に、兄は息を吐いて頷く。何の話かは分からないが、関係ないという言葉に影吉は胸をえぐられるような痛みを覚えた。今回が初めてではない。父と兄はいつもこうだ。長男ではないという理由でいつも自分は弾かれる。
「ところで石碑はどうだった?あの客船が突っ込んだところにも一つあったよね?」
「ああ、見てきたら見事にやられてた」
「直す手配は?」
「したが、すぐに無理だ。白亜島の石材店に石を持って行って梵字を彫ってもらわないと」
「数が崩れるから島内にスペアを作り置くことができないなんて面倒だな。そうなると、少し入り込むかもしれないね。〈災い〉が。あの邪魔な客船だけじゃなくて東山祐作のことも範疇に入るの?当人が呑気すぎて拍子抜けしたけど。でもこの程度ならーー」
「秀作」硬い声で父が窘める。
突如、机の電話がけたたましく鳴り始めた。父は兄に目くばせすると受話器に手をかけた。じゃあ、と告げて兄がこちらへ向かって来たので、影吉は急いでキッチンへと戻る。
部屋から出てきた兄は、影吉の姿に目を丸くしたのち、訝しげに細めた。
「いたのか」
能天気を装い、影吉は牛乳パックを持ち上げてみせる。
「寝すぎたら喉乾いちゃってさ、兄貴こそいたんだ。昼もう食った?何か残ってない?」
「自分で作れ。俺も父さんも、あとで出かけるから」
呆れ顔で言い放ち、兄はキッチンを出て階段を上がって行く。
コップを手にしたまま、影吉は父と兄の会話について考える。
断片なのでまったく意味が分からなかったが、やはりと思うところもあった。父は何らかの目的を持って優香子を島から出さないようにしている気がする。
それにしてもあの兄の話はなんなのだ。災いで客船が来た?東山も……?二つの件に関係があるのだろうか?まさかそれに優香子が関係しているとでも?
今更ながらその場で父と兄を問いつめなかったことを後悔する。だが、家のことに関して父と兄は普段から考えられないほど狷介だ。自分が怒鳴り散らそうが泣き叫ぼうが情報を引き出す事は不可能だっただろう。
口の中に苦いものが広がるのを感じながら、影吉はコップを置く。
同時に閃いて、顔を上げた。
「〈災い〉……預言……そうだ。護国神社だ。」
兄の〈災い〉という言葉。木霊家は島の中心近くにある興福寺が菩提寺であるが、同時に護国神社にも帰依しており、氏子の代表を務めている。祖父がまだ生きていた頃、護国神社の宣託に従って漁をしていた話を聞いたことがあった。父たちが何らかの災いに関する預言を前提として話していたならば、それは護国神社によってもたらされたものかもしれない。
再度コップを手に取り、影吉は一気に中身を飲み干した。