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最近、私視えまして。


 気が付けば、世界は違っていた。


 私は車に轢かれてしまい、病院に運ばれたらしい。数日意識不明だったけれども、無事目が覚めた。

 事故の記憶は、全くもってなし。だから目が覚めて病院のベッドにいた時は、きょとんとした。状況を理解できずに、放心したほど。なにかが違うと、違和感を持つ。

 記憶が微塵もないから、事故にあったのだと言われても嘘なんじゃないかと疑った。けれども怪我をしているし、家族も友人も職場の人まで見舞いに来てくれた。

 目撃者によれば、私は白い小型犬を助けるために道路に飛び出したという。車の方も携帯電話を操作していて前方不注意。ドカーンといったそうだ。

 その記憶がない私は、バッカだなーと笑った。反射神経はいいと自負しているのだから、もっと上手く犬を助ければよかったのに。カッコ良く決まらない私。笑い事ではないと、みんなに怒られてしまった。

 犬の方は無事だったらしいけれど、その後行方知れず。無事ならいいか。

 母は運転手に酷く怒っていた。流行りのゲームをしながら運転していたのだというから、さらに激怒。ゲーム会社も訴えてやる、と金切り声を上げた。私はゲームは悪くないと宥める。こういう事故を起こすのは、元々普段から不注意な人だからだと私は思う。私も歩きながらメールのチェックをしてしまうから、車の免許は取らないと決めている。車を持っている妹に、気をつけてねと釘をさしておいた。

 職場には迷惑をかけてしまったけれど、この際、有休を消化することになった。趣味の小説を書きながら、まったり過ごせてラッキー。

 それにしても記憶がないなんて、残念だ。異世界に転生をするだとか、長い長い不可思議な夢を見るだとか、意識不明の状態だからこそ味わえる体験をしたかった。夢をよく見て覚えて起きる質だから、記憶していてもよかったのに。本当に残念。それを元に小説を書きたかった。ファンタジーなものを書くことが好きなんだもの。

 不可思議といえば、私の視力が回復していた。原因はお医者さんにもわからないらしい。意識不明中に目を休ませていたことで多少回復したのではないか、とは言っていたのだけれど、そんなレベルではない気がする。一時的でそのうち元に戻るかもしれないとのこと。事故でメガネが壊れてしまったし、一時的でも視力が回復したならラッキー。

 視力は回復したし、仕事せずにまったりできるし、入院って快適!

 そんな気楽なことを思っていたのは、看護師さんにこの質問をするまでだった。


「隣の患者さんは、昼はいつもいないですね」


 ちょっとした疑問。集中治療室から、三人部屋に移った。窓際が私のベッド。ドア側が骨折した男子高校生くん。真ん中は、夜に気付くと横たわっている細身のおばあちゃんがいる。まだ挨拶していない。


「……ここには、最初から誰もいませんよ」


 看護師さんが笑顔のままそれだけ答えた。

 私も、笑顔のまま固まる。

 勉強をしていた高校生くんは「やめてっ! まじやめて!」と空のベッドを見て怯えた。

 私はその話をもうしないことにする。今まで入院するようなことが身に起きなかった私は、心底病院が怖くなった。夜、お手洗いにいけない。真ん中のベッドも見れない。

 それにしても、看護師さんの慣れたような反応がさらに怖い。その反応の理由は知らないままでいたいな。

 夜が怖くなって身構えていたのだけれど、別に恐怖を感じることはなく、ふと目をやればただ横たわっているだけだったので、私は次第に気にすることなく眠るようになった。

 眠ると言えば、あれからよく見る夢がある。

 眩しいくらいの陽射しが注がれる日。葉が生い茂った木の上に、袴姿の男性がいた。髪が白銀だった。なんだかもっと特徴があった気がするけれど、目覚めると白銀の髪で琥珀色の瞳ばかり覚えている。そして、もう一つ。

 私を呼んでいる。はっきり声が聞こえているわけではないけれど、それでも呼んでいると感じた。

 切ない響きで、私を呼んでいる。

 私が勝手に想像してしまっているだけかもしれないけれど、とても美しい異性だった。

 夜もお昼も、眠れば見てしまう夢。

 目が覚める度に、口元が緩んでしまう。また彼の夢を見れたと、喜んでしまう自分がいた。切なそうだけれど、私は彼で見れることが出来て嬉しい。

 現実にあんなにも美しい白いイケメンなんていないから、眠る度に会えるのは最高だ。

 ちょっぴり、恋をしているような状態。会いたくって、また目を瞑って寝てしまいたくなる。

 もしかしたら、意識不明の間に夢の世界で会った人なのかもしれない。

 なーんて、想像を膨らませて、今回の経験を元に小説を書いてみようと思った。けれども、なかなか執筆が進むようなアイディアが浮かばず、そのまま退院。

 病院を一歩外に出ると、空がとてつもないと思うほど、青々しかった。空はこんなにも青いものだっけ。きっと視力が回復したおかげだろう。

 目が覚めるほどの鮮やかな青だ。まるで、別の世界を見ているように思えた。

 一人暮らしをしている部屋に帰っても、その夢は見続けた。

 暫くして、職場に復帰。とはいえ、気を遣ってもらって、リハビリがてら三時間ほどの勤務だけ。職場で私はまた視てしまった。

 元々、前から影があるような、ちょっとした気配があると思っていた部屋の隅に、全く知らない年配の男の人が佇んでいた。誰も紹介しないから、新しい人ではない。誰も気にもしていないから、誰も視えていないらしい。

 どうやら、私は死にかけて、幽霊が視えてしまったようだ。

 ただひらすら佇んで俯いている男の人は、別に悪い気配はない。ただ気が散るとは思うけれど、害はないので誰にも言わないことにした。

 けれども、ある日。その男の人と目が合ってしまい、心底驚いて震え上がる。う、動いた! ひたすら立ち尽くしていた幽霊さんが動いた! ひいい!


「視えるのかい……」


 力ない声が、小さく開かれた男の口から零れ落ちた。私は呆然としながらも、カクカクと頷く。


「そうか……ここにいたら邪魔だ……気が散って、君が怪我をしたら大変だね」


 疲れ切った声で呟く男の人は、なんだかホッとしたような息を漏らしながら、スッと溶けて消えてしまった。

 ぽっかーん、としながらも私は仕事に戻る。私以外は視えていない。ずっとそこで佇んでいた疲れ切った男の人が消えてしまったなんて、私以外知らない。

 この気持ちはなんだろう。

 胸の中になにかかが膨れているのに、表現ができない。

 もしかしたら、あの男の人はここで怪我をして亡くなった人なのかもしれない。それで職場の人が怪我をしてしまわないように、見守っていたのかも。または、職場の誰かと一言、話をしたかったのかもしれない。

 追い出すような形になったけれど、どこに行ってしまったのだろうか。大丈夫でしょうか。

 短い勤務を終えて外に出れば、蝉の合唱が響き渡る真夏の空の下。空はいつ見ても、真っ青。さながら、青い絵の具をそのままムラなくきれいに塗り広げたような青。雄大な白い白い大きな雲を浮かばせて、夏色の景色。

 目が覚めてから、この目に映る世界は、鮮やかだ。そして、輝いている。でも眩むほどではない、優しい輝き。

 けれども、夏の陽射しは強すぎるから、日傘を差して家にゆったりと歩いていく。

 むやみやたらと幽霊と関わることがいいことなのかは、私にはわからない。もしかしたら、怖い幽霊が実在するかもしれない。でも、目が覚めてからこの世界は優しく感じるから、少しずつ知ってみよう。

 私には、真っ先に知りたいことがあった。

 家に帰ると、部屋の前には果物が置いてある。退院してからというもの、毎日だ。今日は梨が三つ。新鮮で熟した梨だ。誰が置いていくのかは、さっぱり見当がつかない。これも幽霊のような存在かもしれない。理由も知りたいし、どんな幽霊かも知りたい。

 ちょうど、明日は休みだから見張ってみよう。出勤前はなかった。出勤している三時間の間に置いていくはず。

 ちなみに、梨は朝食に食べる。誰かもわからないけれど、隅々確認すると問題はなかったし、瑞々しくて美味しかった。お礼を言わなくちゃ。

 そう決めた晩も、あの夢を見た。彼もまた、幽霊の類いだろうか。なんだか、もう少しでいい話を思い付いてまとめられて書けそうだ。

 翌朝は、シャキシャキと梨を味わいながら、果物の送り主を待ち構えた。玄関の内側で、だけれど。

 やがて、カランコロン。軽やかな音がしてきた。これは多分、下駄。

 カランコロン。カランコロン。

 私の部屋のドアの前で止まった。私はすぐにカメラ付きのインターホンで確認する。ボタンを押せば、画面に玄関前が映し出された。そこにいるはず。でも、見えない。

 カメラ越しでは、幽霊は視えない?

 首を傾げていたけれど、下の方に白いものが映る。

 白い……犬の耳?

 かろうじて見えるそれが、カランコロンという音とともに遠ざかり始めた。

 ま、まさかの妖怪かな!?

 ドキドキしつつも、慌てて玄関を飛び出して「待って!」と呼び止めた。足元には、また梨がある。やっぱり送り主だ。

 ビクンッと震え上がったのは、幼い少女だった。

 光沢の輝きを放つ白い甚平を着て、高めの下駄を履いた三歳くらいの女の子。色白の肌。髪は白銀で、ウルフヘア。ややつり目の大きな瞳は、琥珀色。頭には大きな耳がついていた。犬のような真っ白な耳だ。お尻の方には、もふもふとした毛の塊みたいな尻尾。

 幻想的で、それでいて可愛らしい女の子。


「……こ、こなつ……おねえちゃん」


 涙を浮かべてうるうるとさせて、私を呼んだ。

 小夏お姉ちゃん、と名前を知っていた。


「お姉ちゃんんんっ!」


 カランカラン、と下駄を鳴らして、その子は私に抱きつく。とても小さいから、足にしがみつく形になった。

 おお、触れられる。


「会いたかったぁああ! 視えるの? うわあっ!」


 ムギュッと力一杯に抱きつく女の子の頭を撫でて宥めようとした。

 髪がやわらかい。耳が、あったかい。もふもふしてる!

 小さい頭を両手で包んで、わしゃわしゃする。人間の耳はなくって、頭の上にある犬耳のみ。不思議。輪郭をなぞっても人間にあるはずの耳がない。もふもふしているし、血が通っている証で熱かった。ピクンピクンと動く。白い甚平は、絹のような肌触り。どこもかしこも、触り心地が最高。もふもふー!


「これ、前もやったよぉ」


 私に触られていることに頬を真っ赤にしながらも、じっと耐えている女の子が言う。やっぱり以前、会ったことがあるらしい。


「……ごめんね。私はあなたを覚えていないの」


 正直に白状をすると、女の子は悲しそうな顔をした。唇を突き上げてしまうほどキュッと結んで、泣くことを堪える表情。本当にごめんね、と言おうとした。その前に、しゃがんだ私の首に小さな腕を回して、女の子は抱きついてきた。

 はわわっ! ちっちゃい! 可愛い! もふもふ!


「小夏お姉ちゃんは、助けてくれたの!」

「え?」

「そらを助けて、車にひかれたの!」


 可愛さに悶えていたけれど、女の子の言葉を聞いて、離れてちゃんと見た。


「……私が……助けた犬なの?」

「おおかみなの!」


 私が車に轢かれてまで助けた白い犬。正しくは、犬ではなく、狼。


「そか……そっか……よかったぁ。無事でよかった!」


 ちゃんと助けられたとわかって、私は安堵した。


「うわあ! お姉ちゃん!」


 またムギュッと女の子はしがみつく。

 マンションの廊下ではなんなので、部屋の中で詳しい話を聞くことにした。梨を食べていたことを知ると、とても嬉しそうな顔をする。頬が持ち上がるほどの深い笑みを零した。そんな可愛らしい女の子と、切った梨を一緒に食べる。

 私が助けたのは、紛れもなく幼い狼の姿をしたこの子だったそうだ。

 名前は、宙と書いて、そら。幽霊でなく、妖なのだそうだ。種族は人狼。

 命の恩人である私を救うため、宙ちゃんの兄とともに、魂だけで彷徨っていた私を見つけて、命を救ってくれたらしい。

 魂だけで彷徨っている時に、初めて会ったのだという。


 梨をシャキシャキと食べながら、簡潔に言っていた宙ちゃんは確かにそう言った気がする。


「私はなんで覚えてないの?」

「そういうものだって。お兄ちゃん、言ってた!」


 幽体離脱中の記憶がないのは、当たり前のことらしい。とても残念。


「覚えていたかったな……」

「宙も……覚えててほしかった」


 私が漏らせば、宙ちゃんもしょんぼりした。


「お兄ちゃんは……小夏お姉ちゃんは、覚えてないし、宙達は視えないから……会いに行くなって言ったけど……お礼がしたくって」


 お礼に毎日、果物を持ってきてくれた。


「……ありがとう、宙ちゃん。美味しかったよ」


 健気な宙ちゃんの頭を、いい子いい子と撫でてる。そうすれば、また笑顔になってくれた。


「どうして、視えるようになったか、わかる?」

「宙はわかんない。お兄ちゃんにきいてみよう!」


 幽霊や妖が視えるようになった原因は、宙ちゃんもわからないらしい。その兄も、想定外だろうけれど、なにか知っているかも。

 もっと詳しく知りたいし、私は宙ちゃんに笑みを返して頷いた。部屋着のままではいけないから、お着替え。

 白いプリーツのロングスカートと、ベビーピンクのシャツを合わせて、胸まで届くダークブラウンの髪をストレートで整える。前髪はないので、顔にかからないように、ヘアピンで右だけ留めておく。

 準備が出来たら、宙ちゃんと手を繋いでその兄の元へ向かった。

 今日も、鮮やかな青空だった。もこもことした積乱雲は真っ白で、堂々としている。

 連れて行かれたのは、大きな公園。ウォーキングコースもあって、ツツジや藤の庭園がある緑豊かな公園だった。燦々とした陽射しが、木の葉の隙間から漏れる。空の青も、葉の緑も、影の濃さも、鮮明に視えた。

 輝いていて、けれども眩むほどではない。鮮やかな世界は、優しくて素敵にこの目に映る。

 繋いだ小さな手を振りながら、ニコニコと私を見上げる宙ちゃんは尻尾をふりふり。カランコロンと下駄を鳴らす。

 妖を助けて、助けられた。この世界は優しい。そう思えて、ほっこりとする。


「宙ちゃんは、何歳?」

「ふふふっ! もう十さい生きたよ!」


 訊ねてみたら、どーんと胸を張って答えてくれた。

 舌足らずな喋り方でも、三歳にしては言葉をはっきり理解していると思っていたけれど、十年生きたらしい。見た目はどう見ても、三歳の女の子なのに。とても若々しい。そして、可愛すぎ!

 妖と人間では、成長が違うものらしい。


「お兄ちゃんは何歳なの?」

「百さい!」

「……」


 予想外に面食らう。それはそれは、予想外。

 宙ちゃんの兄って、宙ちゃんと歳の離れていない少年を想像をしていたけれど、もしかしたら大人なのかも。

 白銀の男の人。想像を変えてみると、あの夢の彼が浮かんだ。琥珀の瞳で白銀の髪で、白い袴姿だった。

 宙ちゃんも琥珀の瞳で白銀の髪で、白い甚平姿。

 私はクリン、と首を傾げた。すると、宙ちゃんはツツジの庭園の隣で足を止める。


「ここにお兄ちゃんがいるの?」

「ううん! 合言葉で森に行くの!」

「合言葉?」


 なにそれ、秘密の森に繋がる扉でもあるのかな!?

 目をカッと見開いて、ワクワクして待つ。木々が並ぶそこは、顔を上げると一見森の中にも思えるけれど、合言葉を言うとどんな風に変わるのか楽しみ。


「カッカフー! カッカフー! カッカフー!」


 上に向かって、宙ちゃんは唱えた。

 なにそれ可愛いー!!!

 私は顔を押さえて悶えた。

 って、悶えている場合じゃない。合言葉で森が現れるのをしっかり目にしなくては。


「……」


 顔を上げただけで、私は森を視る。さっきまで公園のウォーキングコースや住宅街が視界の隅にあったのに、森が広がっていた。どこまでも生い茂った木々が並んで、眩しい陽射しを零す鮮やかな森の中にいる。

 なんて素敵な世界だろう。

 口をぽっかーんと開きながらも、森を見つめた。合言葉で行ける不思議な森。


「お姉ちゃん、またぽかーんってしてるー」


 宙ちゃんは、笑った。私はまた、ここに来たらしい。

 妖のいる森。きっとここに来て、私を助けたのだろう。


「お兄ちゃんはどこ?」

「あっちだよ。ずっとお姉ちゃんを恋しがって、ぼんやりしてるの」

「え?」


 また小さな手に引かれて、歩き出す。


「木の上に座り込んで、お姉ちゃんのこと、ずっと考えてるの。会いに行くなって言っても、お姉ちゃんの名前を呼んでる」


 また頭に浮かぶのは、あの夢。私を切ない響きで呼ぶ男の人。木の上。完全に一致。

 あの男の人が恋しがって、私を呼んでいる。会いに行くなと言いながらも、私の名前を呼んでいる。


「……まるで恋煩いだね!」


 まさかと思いつつも冗談を言ってみた。

 宙ちゃんはキョトンとして首を傾げて見上げると。


「恋だよ?」


 と返す。

 私はこれ以上無理なほど首を傾けて、笑顔のまま固まってしまう。見た目、三歳の女の子に恋だって言われてしまった。


「小夏お姉ちゃんは、好き好きーってお兄ちゃんにずっと言ってて、くっついてたよ」

「!?」


 あの美麗な男の人に、私はデレ全開だっというのか!

 そんな初対面で美麗な男の人相手に、私がベタベタするなんて、ありえそうだけれどありえない。でも、幽体離脱状態なら遠慮なくベタベタしたかもしれない。だって宙ちゃんと同じ、犬耳……じゃなくって、狼耳や尻尾をつけているならなおさら。私なら、もうあんなところやこんなところまで触って、抱きついていたかもしれない。

 覚えていないのに、恥ずかしさに襲われた。


「お兄ちゃん、嫌がって引っぺがしてた」

「!!」


 フラれてるし! 覚えてないのに、ショック!


「でも最後はね」


 宙ちゃんは、にんまりと頬が持ち上がるほど深い笑みになった。


「ちゅーしてたよー」

「!!?」


 衝撃的すぎて、顎が外れてしましそうなほど口をあんぐりと開く。

 ちゅーって、つまりはキスってことだよね。それって、頬? それとも唇? 彼からしてくれたの? それとも私から? 私が別れ際に不意打ちでしたのなら、怒ってるんじゃないかな!?


「あ、お兄ちゃん! 月火お兄ちゃーん!」


 ひぃっ! 待って! 心の準備がまだ!

 怖じ気付いたけれど、宙ちゃんが手を振る先を見たら、変わった。

 周りの木とは違い、一際大きく空に伸びた木。三つの幹に分かれていて、その間に腰を下ろした白銀の髪の男の人がいた。あの夢と全く同じだ。

 妹に呼ばれていても、黄昏るように他所を見つめている。整った横顔は色白。頭の上には、狼の耳。陽射しで艶めく白い袴姿。そして、大きな尻尾まであった。

 目が覚めてから、見続けていた夢と同じ。


「小夏お姉ちゃん、連れてきたよー!」


 宙ちゃんが私の名前を出すなり、彼はピクンと耳を震わせて反応した。琥珀の瞳が、私に向けられる。

 月の火と書いて、つきか。人狼の妖。

 彼はふわりと舞い降りてきた。呼吸が感じられるほど、近い。何度も何度も夢で見た彼の存在を、今ここで感じる。

 目が離せない。眩しいほどの容姿だけれど、月光のように優しい。でも琥珀色の瞳は、燃えるような熱さがあった

。月のような優しい輝きを持ち、燃えるような情熱を持つ。名前の通りに思えた。

 彼に恋をしてしまうのも、必然だ。何度も夢に見てしまうのも、必然。もう二度と忘れられそうにもない。


「小夏……」


 切なそうな声で私を呼ぶ。何度も聞いたような声。


「会いたかった……!」


 その両腕で、彼は私を抱き締めてきた。絹のように艶やかな袖も、頬に触れるふわふわとした柔らかな髪も、温もりも心地がいい。

 やっと会えたのだと、実感した。


「だが……何故だ? 視えるのか? 俺が視えているのか

?」


 大きな両手で頬を押さえつけられて、目を覗かれる。言葉が上手く出そうにもなかったから、ちゃんと視えていると頷いて答えた。

 すると、そのまま顔を引き寄せられたかと思えば、唇と唇を重ねられた。あまりのことに、目を見開いたまま固まってしまう。


「ああ……すまない、覚えていないのか」


 以前会った記憶がないと気が付いても、彼の瞳から熱情が消えなかった。切なそうでも、愛おしげに見つめてくる。

 抱き締められてキスをされて、私は惚けてしまった。


「全然覚えてないけれど、ちゃんと視えてるんだって! 視えてるから、これからも会ってもいいよね!」


 宙ちゃんの声に、ハッと我に返る。


「小夏がそれを望むのならば」


 私を放すと、彼は宙ちゃんを腕に乗せて持ち上げた。


「よく連れてきたな、偉い」

「えへへ」


 優しく笑いかける人狼の兄と、無邪気な笑みを零す人狼の妹。微笑ましい。


「これからも、会ってもいいか? 小夏」


 彼が問いかけてきた。

 会ってもいいのならば、私も会いたい。

 コクンコクン、と首を縦に振れば、私にも優しい微笑を向けてくれた。


「覚えていないのなら、もう一度話そう。ここは妖の居場所だ。生者……つまりは小夏のように生きている人間は、自由に出入りが出来ない場所。神隠しとは、この空間に迷い込んだことを言う。こちらは妖の世、あちらは現世と呼んでいる」


 私の手を取ると、宙ちゃんを抱えたまま、彼は歩き出した。

 俗にいう神隠しは、ここに来てしまったこと。なるほど。

 妖の世か、素敵だなぁ。高揚感が湧いてくる。頭の中がまとまりそうで、まとまらないけれど、もう少し。


「妹の命を救ってくれた君に恩返しをするために、魂だけで彷徨っていた君を見付けて、ここに連れてきた。ここには、命の水を持つ妖がいたんだ。それを飲めば、小夏は肉体に戻って無事に回復をする。しかし、我々が視える力が備わるとは聞いたことがない。長い時間、妖の世にいたことが原因か。……命の水を持っていた妖に訊ねてみよう」


 命の水。そのアイテムを手に入れて、私は目覚められた。幽霊や妖が視えるオプションは、なにが原因か。突き止めるためには、その妖を探す。


「親切な妖さんですね。命の水だなんて、貴重そうな水をくれるなんて」


 彼と繋いだ手にドキドキしながらも、私は口を開く。

 変なことでも言ってしまったようで、二人ともきょとんとした顔を向けてきた。


「いや、奪い取った」


 命の水を持ち主から奪い取った、と彼は言い放つ。


「君が」

「えええっ!!?」


 しかも、私が奪い取った。私が声を上げて驚愕していると、彼は宙ちゃんを私に抱えさせる。


「命を救うほどの力がある代物を持つ妖というのは、一風変わっている。’’欲しいのならば奪ってみろ’’と勝負を持ちかけたため、俺は戦った。妹の命の恩人だ、命をかけて勝とうとした」


 なにもないというのに、見えない鞘から取り出したかのように刀が現れた。その見えない鞘から、ぶわりと白い花びらが溢れては散っていく。


「しかし、奴は妖の力を暴走させてしまい、戦いどころではなくなった。負けそうになった時、小夏が前に出た」


 彼は先を歩いていく。長い森を抜けて、開けた丘に出た。甘い桃の香りが満ちている。丘の上に一本、桃が実っているみたいだ。


「命懸けで助けようとしているのだから、自分も命懸けで戦う。そう言って君は笑った」


 振り返った彼は、笑っていた。桃の香りを運ぶ風で、白い着物も髪も靡きながら輝く。


「そんな君に、俺は惚れてしまった」


 愛おしげに見つめて微笑む彼を目にして、ドクンと心臓が跳ねて、熱さが身体中に広げた。

 命懸けで私を救おうとしてくれた彼が窮地に追い込まれたのなら、自分だって命懸けで立ち向かおうとする。そんな私に恋をしてくれただなんて、熱さが顔に集中してしまった。


「……奴は去ってしまったようだ」


 丘を見回して、彼は一言漏らす。

 命の水を所持していた妖は、いなくなってしまったらしい。どんな妖か、視てみたかった。話によれば危険そうだけれど。

 奪い取った私を怒っていそうだから、会わない方がいいか。

 宙ちゃんは私の腕から下りると、丘を裸足で駆け回った。ゴロンとでんぐり返しして、両手を上に上げて決めポーズ。

 拍手をしていたら、彼が私の元に戻ってきた。私の手を手を取って、丘に向かって歩き出す。


「不便か? 我々が視えて」

「え? ううん、そんなことないです。はっきり視えすぎて見分けがつかないけれど、前よりこの目で視える全てが素敵だもの」

「そうか……」


 桃の木のそばで足を止めると、私と向き合った。


「では、俺はその目に映り続けたいから、守り抜こう」


 親指で瞼が撫でられる。


「宙。蛇を呼んできてくれ」

「はーい。蛇さーまー!」


 彼は宙ちゃんに頼んだ。宙ちゃんは右腕を上げて返事をしてから、裸足のままパタパタと森に走っていった。「蛇さーまー!」と叫び続けている。


「蛇?」

「この森の主だ。小夏も会っていて、無事目覚めたのかを気にしていた。森の主の許可を得れば、他の妖からちょっかいを受けたりしない。いようものならば、俺が斬る」

「あ、ありがとう……ございます」

「前はもっと気を許した喋り方だった。俺を月火くんと呼んでいた」

「は、はい……あ、うん。月火くん」


 月火くん。そう呼んでいたのか。月火くんの手から、刀はいつの間にか消えていた。

 ひょいっと持ち上げられたかと思えば、草原に腰を下ろした月火くんの膝に乗せられる。


「初めは君の好意が嫌だった。目が覚めれば、覚えていないのだし、視えないのだから会うこともない。だから、妹の恩人でも突き放す態度をした。今でも俺を好きだと言えるか?」


 こんなにも見目麗しい異性の膝に乗っていると、心臓がバクバクした。けれど、答えないと。


「えっと……実は、ずっとあなたの夢を見ていたの。あの木に腰掛けて私を呼んでくれている月火くん」

「……会えない間も、君も俺を想ってくれていたのか」


 月火くんは、眩しそうに目を細めて柔らかく微笑んだ。


「あ、耳は見えなかったな。尻尾も」

「小夏はこれが好きだな。触ってもいいぞ」

「わっ」


 もっと笑わせようとしたけれど、月火くんが首に顔を埋めてきた。宙ちゃんと同じ、柔らかくて艶やかな髪、それに温もりを感じる耳。感動のあまり放心してしまいそうになったけれど、私はせっかく許可をもらったのだから、触らせてもらうことにした。

 月火くんの頭を抱えるように腕を回して、指先で耳を撫でる。お耳、ふさふさ!


「妹想いの優しさを持つ月火くんって、とっても素敵だと思う」


 なでなでしながら、私は月火くんの魅力を言ってみる。


「それは前も言っていた……。記憶になくとも、小夏は小夏でよかった」

「私も」


 別の態度をとってしまうような自分じゃなくてよかった。月火くんは心地良さそうな息をつく。私の首元に吹きかかるからくすぐったい。でも離れない。


「この経験を元に小説を書くと息巻いていたが、書くつもりなのか?」

「え? 私、そんなこと言っていたの?」


 趣味のことまで、月火くんに話していたのか。ちょっぴり恥ずかしい。


「うん、書こうと思う。ちょっと忠実に、優しい世界を描いたいんだ。この目で視た素敵なもの、詰め込みたいな」


 照れながらも、月火くんに明かしてみる。


「そうか……完成が楽しみだ」


 月火くんが微笑んでくれるから、私も笑みを零す。月火くんに見せるのなら、余計張り切っちゃおう。

 すると、かぷりっ。

 私の首に、月火くんが軽く噛み付いてきた。歯が、首筋を這うから、驚きのあまり仰け反る。月火くんの膝から落っこちた。

 倒れてしまった私に、月火くんが覆いかぶさるように追ってくる。


「狼を惚れさせたら、どうなるのかも……忘れずに書いてくれ」


 真上から見下ろしてくる月火くんは、艶かしく笑いかけてきた。そのまま顔を近付けてきたものだから、私は身体を強張らせる。


「ふえ!?」


 ちょ、ちょっと待って。狼を惚れさせたらどうなるのでしょうか。え、ちょっと、待って。それはちょっと、ちょっと、私には書けないと思う!

 

「おにーちゃーん! おねーちゃーん! 蛇様連れてきたぁ!」


 そこで宙ちゃんの声がしたから、月火くんは私を一緒に起き上がった。

 宙ちゃんが手を振りながら戻ってくれるけれど、蛇という名の妖が一緒にいるようには見えない。宙ちゃんは、ポンッと私の膝の上に乗った。フリフリ、ともふもふの尻尾が揺れるからお腹がくすぐったい。


「ちゅー、じゃましてごめんねー」

「ううっ」


 しっかり見ていた宙ちゃんがにんまりしながら言うものだから、私は顔を真っ赤にした。


「ほら、小夏お姉ちゃん。蛇様だよ」

「え? どこ?」


 宙ちゃんが指差す方にはなにかいるようには見えない。けれども、木の上が揺れていることに気付く。カサカサと揺れが近付いてくる。

 出てくるのを待っていたら、それは現れた。

 蛇だ。そのまま、蛇だった。エメラルド色の大蛇が木の枝から出てきて、こっちに伸びてきた。

 うわ、うわ、うわわわっ!

 口をあんぐり開けて、固まってしまう。エメラルド色の瞳で私を見つめながら、どんどん身体を伸ばしてくる蛇。


「彼の全貌を見た者はいない。森全体に彼の身体があるという」

「尻尾見つけて、頭まで探そうとしたらね、見つからないまま夜になっちゃったの!」


 どうやら、とてつもなく長い長い蛇なのだという。今度尻尾を見つけたら、宙ちゃんと頭を探しながら測ってみたいな。


「森の主よ。この通り、小夏は視える目になって戻った。これからここに足を運ぶだろう。見守ってほしい」


 月火くんが告げると、蛇はただ頭を垂れる。

「無口なの」と宙ちゃんは教えてくれた。

 森の主様は、無口な大蛇様か。


「あの、よろしくお願いします。蛇様」


 私からも、深く頭を下げて伝えておく。蛇様も私に頭を下げてくれた。

 この妖の世の出入りを認められて、私は喜んだ。宙ちゃんの頭を撫でれば、耳がピクピクと震えた。宙ちゃんも嬉しそうな笑顔だ。


「君が知りたいものがあるのなら、教えてやろう」


 ちゅっと頬に月火くんの唇が重ねられた。

 知りたいものは、たくさんある。月火くんのことも、宙ちゃんのことも、妖も妖の世も、知りたい。

 この目に映る優しい世界、全てを知りたい。

 ああ、とても優しい世界だ。私は笑みを零した。




こちらも誕生日のうちに書き上げたかった一作!


輝いているけれども、眩むほどではない、

美しく優しい世界が描きたいと思い、

書いてみました!

いつか、出会い編も書きたいと思います!


優しい世界でありますように!


20160809

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