Turn1 行峰フェイズ(1)
「あ、ああ……」
その時の僕は、恐怖で何も出来なかった。
『……』
目の前に立つのは、僕より遙かに大きな存在。
存在という表現になったのは、『それ』が男なのか女なのか、そもそも人間なのかすらわからなかったからだ。
『それ』は、2mはあろうかという身長。もう暑くなったいうのにトレンチコートとスーツを身に纏い、頭に帽子を被っていた。
だが僕にとって異常だったのは、『それ』の容姿ではなかった。
「あ、あ、あ……」
目の前に僕の親友がいる。
そう、目の前にいる。『それ』と同じ位置にいる。
僕の親友は『それ』の中に沈み込むように吸い込まれている。
僕はやはり恐怖で動けない。目の前の異常に対処できない。だから親友が『それ』に吸い込まれていくのをただ見ているしかなかった。
『……ケテ、ケテ、ケテ』
『それ』は何か言葉を発した。だが僕には何かの鳴き声のようにしか聞こえず、さらにノイズのようなものがかかった声だったので意味を読みとることは出来なかった。そうこうしているうちに――
「あ、ま、待って!」
僕がようやく手を伸ばしたと同時に、親友は『それ』の中に取り込まれていった。
「そんな……」
何が起こっているかはわからなかった。しかし、親友が『それ』に取り込まれて、二度と帰ってこないのではないかという予感はした。
そしてその予感は的中する。
『待って、そんな』
『それ』は何故か僕の言葉を復唱するように言葉を発すると、空気に溶け込むようにその姿を曖昧にしていき、やがてその場から完全に消えた。
「……」
……この時のことを、僕はよく覚えていない。何故『それ』が僕たちの前に現れたのか、なぜ親友が取り込まれたのか、こうなる前に何があったのか、よく覚えていない。
だがはっきり覚えていることもある。親友を取り込んだ、『それ』の顔の部分。
そいつが被っていた覆面の前面にははっきりと、二つの矢印が円を象っている、日常生活でよく見るマーク。
――リサイクルマークが描かれていた。
「……はっ!」
跳ね起きるように目を覚ました僕、行峰 義堂は周りを見渡す。
そこは見慣れた僕の自室だった。本棚と勉強机、上着が掛かっているクローゼットに、下着やシャツなどが入ったクリアケースなどが目に入る。
「また、あの夢か……」
先ほどまで見ていた夢を思い返す。リサイクルマークの怪人が僕の親友を取り込み消え去ったという夢。
あれは架空の出来事ではない、僕の目の前で確かに起こったことだ。
一年ほど前のことだった。僕と親友は町外れの神社で遊んでいた。
そこにあのリサイクルマークの怪人――とりあえず僕は『リサイクル』と呼んでいる――が突然現れ、親友を文字通り体の中に『取り込んだ』のだ。
『リサイクル』は神社の階段を降りることもなく、本当に、それこそ初めからそこにいなかったかのように『姿を消した』。
ヤツが何者なのかはわからない。だが、少なくとも人間ではあり得ない。別の何かだ。
そして当然のことながら、『リサイクル』に取り込まれた僕の親友もまた、それ以来行方不明だ。僕はもちろん、警察に目の前で起こったことを話した。しかし警察は、僕の証言を暴漢に出会った事による記憶の混乱と判断し、まともに取り合ってはくれなかった。
そして、『リサイクル』は今も警察に捕まってはいない。
当然だ、あいつはおそらく人間の常識を越えた存在。警察が捕まえられるわけがない。
だけど僕は一年たった今も、『リサイクル』を追い求めている。親友の行方を知るために。この一年、何度も現場となったあの神社に足を運んだ。だけど、何の手がかりも得られなかった。
本当はわかっていた。警察が捕まえられないような存在を、僕一人で捕まえるなど不可能だということは。だけど僕は何かしらの行動をしたかった。親友のために動きたかった。
それが僕の――
「いけない、もうこんな時間か」
机の上の時計を見ると、七時を回っていた。
今日から僕は高校に通い始める。入学式に遅刻するわけには行かない。
「おはよう、義堂」
階段を降りてリビングに入ると、台所に立つ母さんが挨拶をする。テーブルの横に座っている父さんはいつものようにテレビを見ていた。
「おはよう、母さん、父さん」
僕の挨拶に母さんは微笑みを返してくれるが、父さんは相変わらずの無表情だ。まあ、そういう人だから仕方がないか。
朝食を食べた後自分の部屋で身支度を済ませ、玄関に向かう。
「行ってきます」
リビングから聞こえた母さんの声を背中に受け、僕は自宅を出た。
僕が住む町、「門前町」。
人口二万人弱。海沿いではあるので漁業が盛んらしいが、それもたかが知れている。つまり、特に誇る所もない普通の町だ。
そしてこの町には高校が無いので、僕は自転車で一時間かけて隣の城山市にある高校まで通うことになった。まあ、いい運動にはなると思い、立地には特に不満はない。
しかし、不安はあった。僕は高校でやっていけるかどうかという不安だ。僕はまだ親友が消息を絶つきっかけになったあの事件を忘れてはいない。忘れるつもりもない。
だが、そのことをいつまでも引きずっているわけにもいかない。自分に何度もそう言い聞かせてきた。だけど僕は未だにあの事件に拘り続けている。そのことが高校生活に影響するのではないかと不安になっている。
僕に出来ることは待つことしかない。それはわかっている。しかしその事実が僕の心を圧迫しているのも事実だった。
そんなことを考えているうちに、高校に到着した。入学式の開会時間まではまだ時間がある。どうやら間に合ったようだ。気持ちを切り替えて、教師らしき人の案内に従って体育館に向かった。
入学式は特に何か特殊なイベントがあったわけでもない、とても普通なものだった。
長時間内容を考えたであろう校長先生の挨拶は大多数の生徒に聞き流されたのは空気でわかった。まあ、どこの学校もこんなものだろう。
入学式が終わるといよいよクラス発表だ。といっても、僕の中学からこの学校に進学した人はあまりいないので、どのクラスになろうと知らない人が大多数なのは変わらない。
新しい環境に不安はあった。だけど僕はいつも通りの信念を胸に高校生活に臨むつもりでいた。
僕の信念。それは、「他人を嫌わない」ということ。
どんな人間にも、いいところと悪いところがある。その人の悪いところだけを見て、それだけで相手を嫌いになるのはとても不幸な事だと思う。お互いに嫌い合っているより、お互いに好きになっている方がいいに決まっている。
こちらが相手を嫌うから、相手もこちらを嫌ってしまうのだ。こちらが相手のいいところを見つける努力をして相手を好きになろうとすれば、きっと相手にもその気持ちが伝わるはずだ。
だから僕は他人を嫌わないようにしている。それこそが皆が幸せになる道だと考えているから。
僕のクラスは三組だった。予想通り知らない顔ばかりで、男女の比率はほぼ半々。特に不良っぽい生徒はいない、入学早々多少制服を着崩している人はいるが。
城山市の中学出身者が多いのか、既に顔見知り同士らしきグループがいくつか出来ている。かといって全員がそうだというわけでもなく、僕と同じくクラスの様子を伺っているような人もいた。
そして僕は、そのうちの一人に目を奪われた。
その人は廊下側の席に座っている女子生徒だった。長くしっとりとした黒髪に、目尻の垂れた大きな目が特徴で、制服をきっちりと着こなし、姿勢正しく座っている。肌は色白というわけではないが、普通の女子よりは白い肌をしていて、リップクリームを塗っているであろう唇は瑞々しい。その顔には吹き出物一つ無く、整っていると表現が似合っている。
全体的な雰囲気としては、まさに清楚な女の子。これほどまでにその言葉が似合う人に僕は生まれてから出会ったことがなかった。
思わず見とれていると、彼女もそれに気づいたのかこちらに目を向ける。
いけない、初対面の人をジロジロ見るのは失礼だ。悪い印象を与えたかもしれない。
「……」
だが彼女は、こちらを見て少し顔を傾けながら微笑んできた。
「……!」
それを見て思わず僕は目を逸らしてしまう。顔が熱を持って真っ赤になっているのがわかる。あの微笑みは反則だ。あれでときめかないヤツは男子じゃない。
そう、僕は彼女に物の見事にときめいてしまった。
「はい皆さん、席についてください」
そうこうしているうちに、担任の男性教師が教室に入ってきた。見た感じ、三十代半ばだろう。自己紹介をした後、明日からの予定やこの学校の設備の紹介。教科書の配布に部活動紹介の日程などの説明をする。
「ではでは、ここでお待ちかねの自己紹介タイムです!」
なぜか突然ハイテンションになった先生の号令で、生徒一人一人の自己紹介の時間が始まった。
この手のイベントの定番で、出席番号の早い順から前に出て自己紹介をすることになり、当たり障りの無い自己紹介が次々と耳に入ってくる。
そして七番目あたりで、先ほどの彼女の順番になった。
「おお……」
彼女が教壇に立つと、一部の男子からため息が漏れた。おそらくは僕と同じようにときめいてしまったのだろう。
いよいよ彼女が口を開く。
「初めまして、返崎 鈴音と申します」
彼女――返崎さん――は見た目通りの礼儀正しい口調で自己紹介をした。その声も高く透き通るものであり、名前の通り良質な鈴の音を聞いたときのように、心が癒される。
だが次の言葉は、誰もが予想していなかったものだった。
「ですが、皆さんは私の名前を覚える必要はありません」
教室がざわつく。彼女が言った言葉の意味を考えようとしている。ただ単に驚いている人もいる。それだけ予想外の言葉だったからだ。
名前を覚える必要はない? これから一年間クラスメイトとなるのに?
よく大人が、高校生活は人生で一番楽しい時期だといった趣旨の発言をする。当然ながら僕にその実感はまだ無いが、それでも高校生活をよりよいもの、かけがえのないものにしたいという願いはある。
それなのに彼女は名前を覚えなくていいと言う。みんなと仲良くする気はないということだろうか。
「あの、どういう意味ですか?」
我慢することが出来なかったのか、一人の女子が返崎さんに質問を投げかけた。正直言って、皆同じ質問を投げかけたかったはずだ。
その質問に、返崎さんは真剣な表情で答えた。
「私の名前を覚えても、意味が無いからです。おそらく私がこのクラスにいられる時間は長くはないでしょうから」
その言葉にさらにクラス内がざわつく。だがそのざわめきを切り裂くかのように、彼女ははっきりとした声で言葉を続けた。
「私は近いうちに、この命をあるお方に捧げます」
僕がその言葉の意味を考える前に、彼女は再び僕に向かって微笑んだ。
だがその微笑みに先ほどとは打って変わって得体の知れないもののような印象を受けた。