パラノイド系乙女
今日の待ち合わせは午後1時。場所は、いつものスターバックス。私は一足早く店に着いていた。昔は注文に戸惑っていたけど、今では流れるようにカフェラテを頼めるようになった。
休日で賑わう街中が見えるカウンター席で、生駒圭――私の彼氏を待つ。ガラスの外で流れていく人影を眺めるのは楽しい。それは、群衆の中から彼を見つける喜びには到底敵わないけど。
『駅に着いたから、もうすぐ着くよ』
液晶ディスプレイに記された、貴方からのメッセージ。腕時計を見ると、すでに約束の時間は過ぎていた。相変わらずよく遅刻する人だ。
ストローに口付けながら駅前の光景を見つめる。カップの中身が半分になった辺りで、視界の端に圭を捉えた。彼は焦った表情で店内に入って来た。
「おまたせ、明日香」
「また遅刻? 待ってるこっちの身にもなってよ」
「ごめんごめん」
返す言葉が無いといった様子で下手な作り笑い。圭は自分のバッグを私の隣の席に置くと、レジに向かっていった。わざわざ聞かなくても分かる。彼の注文は激甘なホワイトモカだ。一度飲んでみたことはあるけれど、飲めたものじゃなかった。
「で、今日は何時に起きたの?」
容器を片手に戻って来た圭への質問。休日は目覚ましをかけない彼は、言いにくそうに目を逸らした。
「……12時17分です」
「その時点でメールしてよ。ウインドウショッピングでもして待っててもいいんだから」
「無理じゃね? 映画行くんだし」
「だったら早く起きる」
彼の口から息が漏れた。勝ち目のない戦いだと悟ったのだろう。私は小さくほほ笑む。
今の会話の通り、私たちは映画を見に行く。巷でも流行りになっているラブストーリーだ。彼はそんなに恋愛映画が好きではないから、私に合わせてくれたのだろう。かくいう私は、原作を何度も読んで予習済み。今から楽しみだ。
それでも、しばらくはとりとめのない会話が続いた。映画の上映までまだ少し時間があるから。コーヒーがすぐには無くならないから。色々理由はあるけれど、何より圭の声を聞いていたかった。
「――んじゃあ明日香、そろそろ行く?」
楽しかった時間は、とても速く過ぎていく。時間は可変式だけど、戻ることは無いのが歯がゆい。それでも、私は空のコーヒーを手に持った。
「映画、始まるしね」
スタバから出ると、日光が眩しいのに肌寒かった。秋口とはいえ、薄着過ぎたのだろうか。袖から入り込んでくる風が、痛い。
それより。
私は恨めしい気持ちで圭を見つめる。手ぐらい繋いでくれてもいいのに。空っぽの手を凝視しながら、悔しさと安堵の波に耐えた。
映画館は駅前にあるから、そんなに歩かなかった。今日は高いヒールの靴を履いてきたから、少しだけ嬉しい。
「券はあるからさっさと入ろうか」
「飲み物欲しい。あとポップコーンも」
「はいはい」
お使いのために売店へ向かう圭。でも帰って来た時には、ちゃっかり2人分の飲料と食糧が確保されていた。いや、普通の映画鑑賞なら数回分のフードを買ってきていた。
「ジューシーチキンピタ4つって食い過ぎ。それ全部食べるの?」
「朝飯食ってないんだって」
彼は頼まれた分を渡すと、受付の奥に行ってしまった。私は慌てて自分の券をバッグから取り出して、係員に渡した。
「映画の半券を持っていますか?」
「いえ、持ってないです」
事務的な応答を済ませて中に入ると、圭はちゃんと待ってくれていた。私は安心すると共に、新たな不安が頭をもたげた。
人が多い。休日だからしょうがないことだけど、今日一緒に見るのは話題の映画。下手をすれば立ち見かもしれないし、一緒に座れる保証もない。
「圭、先に席取っちゃおうよ」
「そうだな」
言うが早いか、彼は単独でシアターの中に飛び込んでいった。彼の場合、食事を座って食べられるどうかは、大事な境目なのだろう。
遅れて上映場に入ると、開始15分前だというのにほとんど満席だった。私は焦った。それは薄暗い空間の中で圭が見つからないからではない。むしろ、両腕に抱えたご飯のせいですぐに見つけられた。
彼とは反対側から1段1段階段を下りてゆく。2つ以上繋がって空いている席は見つからない。せっかくお金を払っているのに、彼と一緒にいられないなんて耐えられない。私はますますもどかしい気持ちになった。
結論から言えば、運よく席が空いていた。かなり前方の席だけど、3席。ぽっかりと空席になっていた。
「席が空いてて良かったな」
「うん。座れないかと思った。でも、スクリーン近くない?」
「まぁしゃーないって」
私はあまり画面が近くない方がいい。見上げる形になると首が疲れてしまう。それでも、圭の隣に座れたことはそのデメリットを補ってあまりあるのに違いない。
私の左側で圭はピタを頬張る。上映前の注意映像が終わるまでの10分間の間に、彼は3つ目の包みに手を伸ばしていた。食べるのは速い。
「もう始まるよ、圭」
「分かってるから静かに食う」
事実、上映中彼の席は静かだった。ピタが音を立てにくい食事だったのもあるし、彼は食べ終わるとすぐに寝息を立て始めたからだ。12時過ぎまで寝ていたという話はどこに行ったのか。私は笑いながら彼の寝顔を眺めていた。
結局映画の映像なんてほとんど憶えてない。恥ずかしながら、彼が寝ていたように私も映画を見ていなかった。どうしようもない思いで、圭の横顔を見ていた。悪い感情は一切ないけれど。
その後は圭と映画のグッズを見て回った。
「だからさー、映画館で寝るのっておかしいと思うんだよね。寝坊してきたくせに」
「……謝るけどさぁ。じゃあ明日香こそ何やってたんだよ」
「まぁそれはその……」
どちらも内容は全く覚えていないので、しょうがなくパンフレットだけ購入した。1人1冊。原作を読んでいた私はともかく、圭は非常に微妙な表情をしていた。
私が映画館を出たのは4時過ぎ。まだまだ早い時間だけど、圭は夜に飲み会があるらしくデートは終了。準備で忙しいだろうに、彼はわざわざ自分の彼女のために家まで送ってあげていた。
「隣の駅なんだからいいのに」
「いいんだよ。なんか申し訳ないし」
空ではまだ太陽が自己主張激しい時間帯。こんなに早くお開きというのは初めてで、何か物足りない。それを少しでも埋めてくれようと、彼は1駅通り越して送ってくれている。その優しさに、私はまた惚れ込んだ。
日曜の5時なんてまだまだ遊びの時間帯。電車は隣に座れる程ではなかったけど空いていたし、帰り道も歩道はスカスカ。
「今日は私たち何しに出かけたんだろう?」
「映画だろ?」
「メシ食って寝ただけじゃん」
「……あの暗がりは反則」
くだらない雑談を繰り返しながら、私たちは帰路を進む。乗り物だらけの交差点を歩道橋で乗り越えて、大通りから外れた道を歩く。数本道を逸れただけで視界には黄金に輝く河原が現われる。
「綺麗だね」
「そうだな」
キラキラと輝く水辺を眺めているうちに、自然に歩幅が小さくなっていく。ゆっくりと、でも確実に前へと進んでいく。だから、そんな夢みたいな時間には終わりがあって。まもなくゴールの家が見えた。古ぼけた4階立てのアパート。
「じゃあね、圭。送ってくれてありがと」
「おう、またな明日香」
そして、明日香は住居の門を越えていった。その姿を見届けると圭も踵を返し、1つ前の曲がり角に隠れていた私の横を通り過ぎていく。
私は憎悪のこもる眼で明日香の住む部屋を睨んでから、駅に向かう圭を追いかけていった。
何故だろう。
なんであんな女が、圭の隣で笑っているんだろう。
なんで圭は、あんな女のために時間を浪費しているんだろう。
なんで圭は、私の名前すら憶えていないんだろう。
こんなに私は、圭の事を愛しているのに。
「死ねばいいのに」
私――愛宕聖那は、明日香の間抜け面を思い返し毒付きながら、駅の改札を越えていく圭を見守っていた。
彼の家は明日香の家から1駅隣にある。1区間130円で往復はその2倍の金銭的負担。彼女に値段をつけるにしても、そこまでの価値はないだろう。
延々と円をなぞり続ける金属の塊がやってくる。流石に混み始めてきた時間帯。同じ車両に、別のドアから乗り込む。彼を見ることは出来ないけど、降りる駅は分かり切っている。
数分間の押しくらまんじゅう。人生諦めてそうな中年の男が正面から体に密着する。汚れる。苛立たしさに思いっきり睨んでやると、怯えたような顔をしてスペースを空けてきた。勤め先でも同じような社畜人生を送ってるんだろう。私は呆れた。
まもなく苦痛な時間の終了を知らせるアナウンスが聞こえてきた。すぐに駅に到着し、私は乗客を押しのけてホームに降り立った。
『分かってるって。ちゃんと7時までにはそっちに行くからさ』
耳に着けたイヤホンから、圭の声が聞こえてくる。彼は基本的に独り言は言わない。セリフも考えて、電話だろう。電車の中だったから、喧騒に会話が紛れてしまったに違いない。音量調節を間違えるなんて、不覚。
通話を終えると混雑した帰路を歩む圭。彼から約20メートル離れた距離を保つ。この感覚は車と同じ。「車間距離は十分とりましょう」という看板の通りだ。
今日も圭は私を見つけることなく自分のアパートに入って行った。いつもならここでお別れ。でも、今日は違う。
冷え込み始めた夜に紛れてしばらく。圭が家から出てきた。ちゃっかりアパートの向こう側で待機していた私とすれ違うことなく、圭は再び駅へと歩いて行った。
私は彼の影が闇に溶けていくのを見届けてから、堂々とアパートの中に入る。圭の部屋に向かうと、彼の部屋の隣から男性が出てきた。
「あぁ、生駒さんの彼女さん。お久しぶりですね」
「お久しぶりです」
「先ほど生駒さんは出かけて行きましたけど、何か用でも?」
知ってる。全部知ってるから黙れ。罵倒の代わりににこやかな笑顔を浮かべて私は答える。
「彼、今日は飲み会と言ってましたけど。そうですか……ちょっと遅かったですかね」
「伝言とかあるなら伝えますけど」
「いえ、この前お邪魔した時にうっかり忘れ物をしてしまいまして。恥ずかしいので、むしろ来たことは言わないでくれると助かります」
名前も知らない男は頷くと、階段を下りて行った。私は胸をなで下ろして。バックからカギを取り出す。鋳造してもらった合カギだ。オリジナルは彼の元カノから“拾った”ものだ。ちゃんと返したし、文句も言われていない。
施錠を外し、部屋の中へ。目の前に広がるのは、ユートピアと見間違うほどの個人情報の山。私は嬉々として彼の生活を共有し始めた。
「あ、そういえば……」
今は圭の彼女となっている明日香。彼女のセリフを引用して私は「飲み会」と言った。
でも彼女の知らないことが1つ。
彼が今日向かっているのは、某女子大の学生との合コンだ。
「やっぱり何も分かってないのね、あの女」
圭が撮ったであろう写真を見ながら、私は笑い声をあげた。
写真に写っているのは、明日香が知らないであろう女性だった。その女性は鳥谷美紀と言って、かつての私の親友と呼ぶべき人物だった。
私が初めて圭と出会ったのは、昨年友人に誘われた合コンだった。
「聖那お願い、出れないかな?」
「うーん……」
今では専攻が変わって疎遠になってしまった美紀は、とても他人の目を引く人物で、私とは比べ物にならないぐらいの美貌を持っていた。
「でも、私可愛くないし……」
クラスに女子は私たち2人しか居なかったから仲良くなったけど、性格も全然違うし、興味も合わない。文系だったら確実に一緒になることは無かっただろう。
「大丈夫だよ。人数が足りないの、ね、お願い」
懇願された私は断り切れず、頷いてしまった。
なんで頷いてしまったんだろう。よほどの奇人じゃない限り、私より美紀を選ぶに違いない。私は美紀の引き立て役に過ぎなかった。
でも美紀はちょっと可哀相な娘。毎日のように格好良くない理系男子に言い寄られて、勝手に神聖化されてる。彼氏が出来ても続かなくて、まともな恋愛したことないって言ってる。だから、彼女の出会いを増やせたらいいなって思ったのかもしれない。
私は、放課後に家に帰って困った。こういう時の綺麗な服もないし、メイクも上手くない。寮に付いている申し訳程度の鏡の前で、何パターンも服を試着しては脱ぐ。最終的に、泣きながらへたり込んでしまった。
結局今日の講義と同じ服で待ち合わせに向かった。同じ学部の女の子たちは、全員おめかししていて、自分のみずぼらしい恰好を見直して帰りたくなった。
「聖那、着替えなかったの?」
「うん、まぁ……」
「せっかく可愛いんだから、こういう時ぐらいお洒落したらいいのに。ま、聖那らしいけど」
「あは、は……」
可愛いなんて、お世辞もいいところ。私は苦笑いで場を流した。
私は昔から変な子って扱いだった。ただ理科が好きで、実験とか開発とかが好きなだけ。でも、周りにそういう同級生はあんまり居ないから、いつも浮いていた。大学だって工学部なのに、知識も経験もない人ばっかりでうんざり。
美紀も男とか食事とか、ゴシップの話題ばかり。そんな話題には全然興味なくて、ついていけない。
「今日は聖那にも男の良さを知ってもらうんだから、しっかりしてよね」
「えぇっ、聞いてないよ美紀」
「言ったら来ないじゃん」
「それは、そうだけど……」
驚いて変な声が出た。凄い帰りたい。ますますブルーになって来た。男? ムリムリ。話題が合いそうな人だって――いやむしろ話題が合いそうな人の方が生理的にムリ。
駄弁っている間に、何とか帰ろうとしたけど、そんな便利な話術は見に付いてなくて、会場の店に連れていかれた。
「うぅ……もうやだ」
「聖那、まだ会ってもないのに」
「だって……」
私の後ろ向きな心情に反して、美紀はドアを開ける。奥の多人数席の片側が男性で埋まっていた。見事にまあ、容姿の整った人たちが揃っていた。私の周りの娘たちが少し嬉しそうな顔をするけど、私は素直に笑えなかった。
押されるようにして、一番奥の席に追いやられる。すると男女間で楽しそうな談話が始まる。私は参加できなくて、縮こまっていることしか出来なかった。
「聖那、飲み物どうする?」
美紀が気を使って話を振ってきてくれた。お品書きを受け取ってドリンク欄を見てみる。
「う、ウーロン茶で」
それからどうしてもメニュー表が手放せなくて、顔を隠すように開いていた。美紀は呆れた表情で私を見ていたけど、勘弁して欲しい。
自己紹介とかはしたけど、それだけ。わざわざ私に話しかけてくれた人はいたけど、会話下手なせいで話が不自然に途切れて、そうしたら話しかけてこなくなった。
「聖那、2次会どうする?」
「え、えと……大丈夫、かな」
限界です。私が目で送ったメッセージは美紀に伝わったらしい。私はなんとか生き地獄から生還することを許された。そのために、1週間分の食費を払う羽目になったけど。
「え、圭は行かねぇの2次会」
「今月ヤバいんだよ、貸してくれたら行くけど」
「ゼッテー嫌だ」
「この野郎」
恨めしそうに言うと、彼は私の方を向いた。どうしていいか分からなくて、私は首をすぼめてしまう。でも、彼は輝くような笑顔を浮かべた。
「今日帰んの俺らだけらしいし、なんなら送ってく?」
急に胸がドキドキし始めた。お酒を飲んだワケでもないのに顔が火照っていて、ますます彼から目を逸らしてしまう。なんだろう、この感じ。
私はゆっくりと頷いた。
予想外の展開に戸惑いながら、彼と帰宅する。
「さっきの君さ」
「は、はい」
圭に話しかけられて、思わず背筋を伸ばしてしまう。他人と会話するときは、いつも身構える。でも、今回は何かが違う。
「君、あんまり馴染めてなかったみたいだけど、もしかしてこういうの初めて?」
「ご、ごめんなさい……」
反射的に立ち止まって頭を下げてしまう。格好悪いな、私。視線の先は、自分の足のつま先。すり減ってボロボロな靴。なんだか泣きたくなった。
急に軽くて大きなブレーキ音。音の方を見ると、目の前に自転車が迫っていた。
いきなり腕を強く引っ張られた。支えきれずに前のめりになった体は何かにぶつかる。
「大丈夫?」
顔を上げると、彼の心配そうな顔が見えた。とても近くて、気付けば私は彼の身体に密着していて――
「わぁっ」
突き飛ばすようにして離れた。バランスを崩して今度は尻餅をついた。強く打ったお尻をさすっていると、目の前に手が差し伸べられた。
恐る恐る、私は手を取る。冷え性の美紀と違って、大きくて温かい手だった。
それから私は何を喋ったか覚えてない。もしかしたら、何も話さなかったのかもしれない。気が付いたら寮に帰っていた。
「温かかった、な……」
お風呂に入りながら、さっきの体験を思い出していた。繋いだ自分の右手を見つめて、恥ずかしくなって、湯船に沈んだ。
次の日、美紀は上機嫌で講義に出てきた。前方の席を取った私の隣で、ニコニコしながら携帯を見つめているから、凄く気になった。
「美紀、何見てるの?」
訝しげに聞いてみると、私の前に液晶画面が差し出された。映し出されているのはメールの文面。
「昨日あの後メール来てね。デートのお誘い」
「へー、良かったね」
昨日会ったばかりとは思えない甘ったるい文章を読みながら、テキトーに応える。まぁ元々美紀の出会いが私の目的だったし。
一通り読み終えて、何の気なしにメールの差出人の欄を見たとき、私は凍りついた。
「……えっ、ウソ……」
「ん? どしたの聖那」
メールの差出人は、生駒圭。私と昨日駅まで一緒に行った人だった。胸にぽっかりと穴が開いたような気分でいると、美紀が笑いかけてきた。
「あそうか、昨日聖那は圭君に送ってもらったんだっけ」
「う、ん」
私の心情に気付かない彼女は、私が帰宅した後の美紀と圭の話を語り出した。相づちを打ちながら、期待を抱いていた自分が嫌になった。
もっと私が可愛かったら、何か変わっていたのかな。美紀のふわっとウェーブした茶髪とファッションを見ながら、バカなことを考えていた。
今日、美容院を予約してみようかな。
「え、フラれたの?」
あれから3ヵ月後。夏休みも中腹に入って夏も本番って時期。ファミレスに呼び出された私は、暗い顔をした美紀から衝撃の発言を聞いた。
「昨日突然電話がかかってきてさ。いきなり『別れよう』って……」
「何かの間違いじゃないかな。急にどうして……」
「分かんないよぉ」
顔を伏せる美紀。私は私で呆然としていた。直接彼と会ったことはないけれど、私なりに美紀の恋愛を応援していた。
紅茶を飲みながら美紀の愚痴を聞く。どうして美紀がフラれたんだろう。そう思うような、順風満帆な恋愛話を散々聞いてきたから不思議だった。
「せっかくの夏休みなのになぁ……」
美紀の不満の最後はそんな言葉だった。弱々しい笑いが洩れた。そんな私を見て、メロンソーダを飲むストローを加えながら美紀が文句垂れる。
「こんな話の後でアレだけどさぁ、聖那も彼氏とか作らないの? せっかくお洒落になってきたのに」
美紀が言った通り、私はこの3ヵ月間頑張って勉強した。新しい服を買ったり、眼鏡をコンタクトに変えたり。化粧を美紀に教わったら自分が別人に見えて、同じ学科の女の子に「可愛い」って言ってもらえた。
ちょっとは自信が付いたけど、美紀より可愛いとは今でも思わない。
「恋愛は……まだ、いいかな」
「あぁ、ごめんね聖那。あたしのせいで男性恐怖症がまた……」
「違うよ」
口を尖らせて否定した。どちらにせよ、私は圭に失恋した身。傷が癒えるまでは、私は恋路に踏み出せないだろう。
でも……。
美紀が圭と別れたということは、圭は今フリーだということだ。もしかしたら、私にもチャンスがあるかもしれない。
そこまで考えて、首をブンブンと横に振る。美紀でもダメなんだ、私なんて。でも……。美紀がフラれたのがそれ以外の要因なら。
彼の好きな人ってどういう人なんだろう。
知りたい。
最初は少し圭を尾行するぐらいだった。でも、いつでも当然のように彼の横には女がいて、それを見る度にモヤモヤして、日を経るほどに悪化していった。
圭のメールアドレスは美紀が知っていたから、それを元に彼の携帯電話を監視し始めた。彼の家さえ特定出来れば、追跡でも撮影でもなんでも出来た。それは私にとって息をするようなもので、趣味、日課、本職。どんな言葉でも当てはまる行為だった。
そんなことをしているうちに、雪が降り始めて、桜が散った。年齢とか学年とかに数字が1つ足されると、受験で苦しんだ人たちがフレッシャーとか呼ばれて入学してきた。
『明日香なんでお前ここにいんの?』
ある日の昼休み、私が次の講義の教室でお弁当を頬張っていると、イヤホンからビックリした圭の声が聞こえてきた。
アスカ? 知り合い?
圭は食堂に居るみたいで雑音が酷い。私は音量を上げて耳を澄ませた。
『圭? アンタもこの大学だったの?』
『ねぇ明日香、この人誰?』
『カナちゃん。えぇとね、中学の時の同級生。高校は別だけど』
カナちゃんとやらに説明する、戸惑ったような女性の声。これがアスカだろう。私はスマホの画面を操作して画像を開いた。圭の中学校の卒業アルバム。圭と同じクラスに山岸明日香という少女がいた。多分この娘だろう。
悔しいけど可愛い子だった。思わず唇を噛んだ。
『つーかお前この学校だったのかよ。昨年見かけなかった気がすんだけど』
『うっさい浪人したの悪い?』
『あー……そうなのか、ごめんな』
『その眼止めて、圭』
仲良さそうな関係だな。私は空っぽの弁当箱を片付けながら考える。今度、この2人の関係性について掘り下げていこうかな。私が知らないから、元恋人同士ってことはないんだろうけど。
「聖那、なにニヤニヤしてるの? キモいよ」
「ちょっとやる気出てきちゃって、うん」
「はぁ? なんて言うか、聖那ってたまに変になるよね」
意味が分からないといった感じで首を捻る友人。私は気にすることなくノートパソコンを開き、作業を始めた。
圭と明日香の関係はよく分からなかった。会話を聞く限り、悪友みたいな関係にも聞こえるけど。ただ、大学に明日香が入学してから、同じ学部の先輩後輩ということもあり2人の距離は縮まって、夏休みに入る頃には2人は付き合うことになった。それが3ヵ月前。
2人の仲は、今日の映画館デートだけでも大体把握出来る。先週のデートから関係性に変化なし。自分のメモ帳に書き込む。
『え、圭2次会行かねぇの、珍しい』
『うーん、なんかなぁ……乗らねぇ』
しばらく合コンでガヤガヤうるさかった耳が、彼のセリフを聴きとった。2次会に行かない圭は本当に珍しい。私の知っている限り、私を送ってくれた時以外は、2次会以上には行っているハズだ。
帰ってくるまで数十分もない、そろそろ彼の部屋からおいとましよう。散らかした部屋を元の状態に戻す。
「……あら?」
彼の部屋の隅に置いてある机。その上はごちゃごちゃした物置場になっていて、机の下には3段の小さい棚がある。その棚の最下段から、ビニールの袋がはみ出ていた。この前お邪魔した時には、こんなもの無かったはずだ。
棚の引き出しを開けてみると、その中には細々としたものが入っている。いわゆる大人の玩具が入っている。その中を見ると、経験のない私は色々思うところはあるけれど。
新しく購入したのか知らないけど、ビニール袋はシワも少なく新しいものに見える。中を漁ってみると、入っていたのは小さめの箱。パッケージから中身は予測出来る。
「コンドーム、ねぇ……」
何に使うか、なんて考えるまでもない。最近購入したものと考えるのなら、対象も然りだ。
私は心の奥底で何か黒いものが渦巻いているのを感じた。震える手に必要以上の力がかかって、手中の箱が軽く潰れた。
そんなことさせない。
絶対に。
見つけた。
私が明日香を見つけたのは、彼女が通うキャンパスだった。この大学には圭も通っているけれど、圭と違って現在地が分からない以上、捜すのには骨が折れた。
今日は平日だけど、自分の大学生活には興味ない。出席数なんてどうにでもなる。それより私は、明日香を壊す方を優先する。
「16時、ね」
彼女のスケジュールは知らないけど、あと半時間後か2時間後には彼女の授業は終わる。それまで、私は計画的な緑に囲まれた学校を眺めて待ち続けていた。
最長2時間なんてたいしたことない。待つのは大好き。
赤みを帯び始めた紅葉が、沈んでいく太陽で血に染まっていき、やがて酸素を失った色に近づいていく。都合のいい程度に暗くなった頃、彼女が細長い建物から出てきた。近くにはバカみたいにスカートを短くした、髪の明るい女どもが数人。
「ねえマコ、今日サークルどうする?」
「あたしは行かない」
「えぇ、また?」
「だって佐伯先輩が引退しちゃったんだもん、行く価値ないじゃん。明日香もそう思うでしょ?」
明日香は困ったような顔を浮かべていた。圭の家で見つけた情報によると、彼女は県でも入賞する位のテニス少女だったと聞いた。不純な動機でテニスを舐める輩は嫌いなんだろう。
「私も、今日は……いいかな」
明日香は明らかな苦笑いを浮かべていた。友人づきあいなんて無理してするからこんな間抜けなことになるんだ。
空気を読んだようなフリをするKYは、ろくな人間じゃない奴らに連行されていった。
可哀想な女。圭の幼馴染であることに免じて、その苦痛から救ってあげよう。私とて面倒なことじゃない。利害は一致する。
アンタ、邪魔なの。
本当は私はずっと圭のことを見ていたい。でも、今日は我慢して明日香のことをストーキングしていた。
ゲーセンやら喫茶店で固まってバカ笑いを繰り返す迷惑集団。無意味に甲高い声はもはや騒音だ。私の人生でも稀に見る苦痛な時間だった。まったく、社会的な害悪だ。
「じゃあ明日香またね」
ようやく駅にたどり着くと、明日香以外の人物が反対側のプラットホームに歩いていく。残された明日香はどこか寂しそうな表情で人の流れに紛れてく。
人が多い。私は明日香との距離を数メートルまで縮める。
次の電車の前に駅を通過する快速電車が1本来る。それまで残り4分。その間に明日香の友人気取りの女が、向こう側のホームに着いた各駅電車に乗り込んだ。知り合いも消えた。
『まもなく列車が通過します。危険ですので、黄色の線の内側までお下がりください』
駅中に鳴り響くアナウンス。遠くから響き渡る甲高いブレーキ音。近づいてくる金属の塊。
明日香は呑気にスマホをいじりながら黄色い枠線の上を歩いている。押せば、彼女は確実に死ぬ。
私は明日香に近づいて右手に力を込めた。
「あっ……」
私が右手を伸ばすのと同時に、彼女は線路から遠くへと歩を進めていた。無意識の内に危険を察知したんだろう。伸ばした私の右手は空を切り、イメージでは浴びるはずだった生温かい液体が感じられない。
私は残念な気持ちと一緒に安心を覚えた。このまま彼女を飛ばせていたら、確実に私は日の光を浴びれなくなる。つまり圭に会えなくなるということだ。
殺しちゃダメだ。私の倫理観が急速に感情を支配していく。そして理性が新しい発想を授けてくれた。
別に殺さなくてもいい。再起不能にすればいいんだ。
自分の身に訪れる恐怖を人は知らない。天が与える災害も、人が与える邪念も。体感して初めて人は恐怖に慄く。
何事もなかったように電車に乗る明日香を見ながら、私はのんびりと考える。今日は平日だからか、そこまで電車は混んでいなかった。それでも大事を取って隣の車両に乗ってはいたけれど。
この前の映画館デートの時は夕暮れで真っ赤な空の色だったけど、太陽が仕事を終えて帰った世界は暗闇に包まれていた。
圭のいない河原はキレイでもなんでもない、どす黒いドブの色だ。あそこに突き落としたら明日香はどんな顔をするだろう。想像したら胸の高鳴りが止まらなくなってムズムズしてきた。
「沈めよう」
口に出すことで決意を固める。イヤホンで何やら曲を聴いている彼女には聞こえてないに違いないけれども。
人通りの少ない河原。隠れる場所もない無防備な場所。でも、人間は後ろで歩いている人物を普通は気にしない。事実、振り向くことなく明日香は最期への道を進んでいく。
やがて彼女は橋を渡ろうと体の向きを変える。私は嬉々として一気に近づいた。私の右手はためらわなかった。
「さようなら」
いきなり体を強く押された明日香は、低い柵を越えて川の中心に落ちて行った。短い悲鳴が聞こえると共に、大きな水しぶきがあがった。無人とはいえ、私は周りの目も気にせず笑い声をあげた。無意識的に湧き出るような笑声だった。
足が着くか着かないかの水深。もがきながら明日香は浮上してきた。自分を偽る化粧がみじめに顔にまとわりついている。まるで化け物だ。
ビックリしたように水面から見上げる彼女。目が合った。瞬間、明日香は怯えた表情を見せる。なんて嗜虐心をくすぐる顔をしているんだ。
その瞬間、私の中の何かが弾けた。
「壊れろよ」
私は地面に落ちていた、こぶし大の石を投擲した。狙ったつもりだったのだが、明日香に当たることはなかった。
それでも彼女の恐怖をあおるには十分過ぎるぐらいだった。浮上しては沈没を繰り返していた体が、上がってこなくなった。
明日香は一命を取り留めたようだ。遠くから見届けていたところ、偶々通りかかった人間が救助したのが見えた。
彼女を発見した青年が携帯電話を握りしめる。数分後には救急車のサイレンが闇夜に鳴り響く。明日香が搬送されていくのを見送った後、私は自分の携帯端末をバッグから取り出した。
「もしもし」
4コールで彼に繋がった。彼とはもちろん、生駒圭のことだ。
『もしもし、どちら様ですか?』
彼の声を聞くのは慣れている。でも、自分に向かったセリフを聴くのは1年越しだ。恥ずかしくて溶けてしまいそう。でも、自分の名前を名乗るワケにはいかない。
「貴方の彼女、溺れて病院に搬送されたの」
『は? 明日香が?』
驚いたというより、イライラしたような口調。私は彼からすれば赤の他人、当然の対応とも言えるけどショック。思わずため息が洩れてしまう。
「信じる信じないは自由だけど、事実。牛込病院に行ってみたらどう?」
『……なんなんだよ、アンタ』
「それから。彼女を助けた青年、わざわざ人工呼吸までしてくれたの、良かったね」
『なっ……』
必要な事項を言って、名残惜しさを隠して電話を切る。リダイヤルされる前に電源を切る。少しだけだけど、彼とついにちゃんと会話が出来た。あまりの嬉しさに小躍りする。
でも。
おそらく圭は半信半疑のまま病院へ向かうだろう。圭の会話ならここでも聴けるけど、家なら更にクリーンな音質で傍聴出来る。
私は急いで自宅への帰り道を進んだ。後ろでは、ゴシップに飢えた見物人が集まって騒音を成していた。
家に帰ると、私は自分のパソコンを立ち上げる。素早く立ち上がったデスクトップから専用のソフトを起動。
VOX機能付きの盗聴器からは音声が届いてこない。つまりまだ圭は到着していないということだ。私は最高音質で聴く準備を首尾よく済ませる。
後ろではラジオ代わりのテレビがニュースを読み上げている。「神田川で女性が1人水没」なんて流れるはずもない。私はノイズだらけのメディア機器の電源を止めた。
『すいません、この病院に知り合いが搬送されたと聞いたんですけど』
盗聴器が作動して、私の耳に圭の声が届く。私は神経を集中させた。
『はぁ……患者のお名前は?』
『明日香、山岸明日香です。神田川で溺れたって聞いて……』
なるほど、どこかで情報を集めていたから時間がかかったんだろう。私は「神田川で溺れた」なんて言ってない。
病院関係者から部屋の番号を聞いた彼は、まっすぐ目的の場所へ向かったようだ。服の擦れる音が大きい。
『明日香、圭だけど入っていいか?』
スチールドアをノックする音と一緒に圭の声。しかし、返事は帰ってこなかった。音量が小さくて拾えないワケじゃない。彼も戸惑ったようだった。
『明日香? 起きてるのか?』
再度呼びかけても、無音のまま。彼は何度も明日香の名前を呼んで、最終的に痺れを切らしたようだ。
『明日香、入るぞ』
動く壁をスライドさせると、数歩分の足音。そして、息を呑む音が聞こえた。
『あす、か……?』
恐る恐ると言った口調。流石に音声だけでは状況が完全には掴めない。私は眉をひそめてアゴに手を添えた。
どうやら病室に居たのは2人だけではなかったらしい。明日香の両親もいるようだった。
『失礼ですが、あなたは?』
『……お久しぶりです、明日香のお父さん。生駒圭です。その、明日香は小中学校の時の同級生でして』
『そうか……君だったか。しばらくぶりだね』
しわがれた声が彼女の父親のようだ。知り合いとはいえ、圭がよそよそしい。交際するか否かは大分違うのだろう。
『医者に聞いたんだが、後遺症は特に残らないだろうと言っていた』
『本当ですか。良かった……でも、今の明日香は』
『……酷く怯えている。溺れたんだからしょうがないと医者は言っていたが』
どうだろう。独りぼっちの部屋で私は呟く。あの時彼女は間違いなく、私に怯えていただろう。でも、最終的に溺れたのであれば、そちらに精神的なトラウマを持ってもおかしくはない。
耳からの情報を頼りに状況を推測している私は、誰かがドアを開けて出ていくのを捉えた。音量からして明日香の家族だろう。気を利かせてくれたようだ。
『明日香、俺だよ。圭だよ』
懇願するような声。慈しみを帯びていると言い換えてもいいかもしれない。布が擦れる音。服のモノより柔らかく、長い。シーツだろうか。
『け、い……』
憔悴した明日香の声。続いて溢れて出て来る嗚咽。私は、自分が成した出来事をぼんやりと思い返していた。
『大丈夫だよ』
『っ……』
シーツの音が激しく鳴るばかりで、状況が掴めない。どうなってるんだ、コレは。
今度は圭も口を開こうとせず、私の部屋は静寂に包まれる。時折明日香のむせび泣きが聞こえてくるだけだ。私はデスクトップから体を遠ざけ、お茶を啜った。
病室には人物は2人。明日香の容態は不明。圭の行動も不明。手がかりとなる雑音、泣きの涙。全く持って意味不明。私は息を吐きながら大きくのけぞって、頭を椅子の背もたれに乗せた。
『……ごめんね』
明日香の弱々しい声。私は反射的に背筋を伸ばしてイヤホンに手を添える。
『大丈夫だよ』
落ち着いた彼の返事。励ますわけでもなく、責めるわけでもない、独特な感情が込もっている。圭の台詞によって、女性のすすり泣きのノイズがより多く届く。
『圭……。私、……怖い』
『うん』
同じ調子の相づち。
『水がまとわりついて……沈んで……息を吸いたいのに、水が、水が……』
『……うん』
お互い通じ合ったような沈黙。居心地が悪い。私はムズムズして、マウスパットを指でトントンと叩きつける。ちっとも話が進まない。なんなんだ、アンタら。
これじゃまるで、私だけが除け者みたいじゃないか。
『……圭』
『うん?』
『ホントはね、あの時、私……押されたの。後ろから、急に』
『えっ』
流石に驚いたような圭の短い感嘆の声。私は思わず薄ら笑いを浮かべる。明日香を突き落してから、ずっと聞きたい話題だった。あの時の胸の高鳴りが甦る。
体中に血が巡る感覚。身体が火照ってきているのに、強烈な背筋の寒気。高揚感が止まらない。
『知らない、人……だったと思う。女の人。笑ってて。笑って……』
続く言葉は、荒くなる彼女の息で途切れた。不規則な呼吸音。そのリズムが奏でるのは、紛れもなく恐怖だった。
デスクトップにうっすらと映る私の表情は、自分でも認められるほどの恍惚に包まれていた。きっと、似たような顔を明日香は見たんだろう。たまらない。
『ごめん、ね……』
『大丈夫。それで、明日香?』
『……怖くなって。逃げようとしても、泳げなくて。それで……投げられた』
『何を?』
『多分、石、だと思う。当たらなかったけど……当たってたら……』
明日香はきっと目覚めてからそのことを脳内でシュミレーションしていたんだろう。そして想像したはずだ。現実には遠く及ばない、自分の顔面に突き刺さる激痛を。
『明日香……』
圭も困り果てたような様子だった。予想だにしなかった事実に驚嘆しているんだろう。その程度の事で圭に余計な心労を与えたくなかった。私は自分の気分の高揚が収まっていくのを感じた。
『……なぁ、明日香。退院した後さ、もしよかったらなんだけど』
彼の言葉が一瞬途切れる。ためらった後、決意の言葉を発した。
『一緒に住まないか?』
「……は?」
無言で事態を傍聴していた私は、思わず声を洩らしてしまった。当事者である明日香はもっと混乱しているだろう。そう思っていたら、彼女は存外落ち着いた――冷めた様子だった。
『冗談止めてよ……圭』
『冗談じゃねぇよ』
彼を追い続けてきたけど、今まで聞いたことないぐらい気迫に溢れた返事を返す。
『無差別かは分からないけど、その女絶対ヤバい。女友達でもいいよ、とにかく1人で生活するのは危なすぎる』
その女絶対ヤバい。彼の言葉が私の胸にチクリと刺さる。彼に批判されたことが、これ以上無いほど辛かった。でも、何がヤバいのかさっぱり理解できない。
どうして? なんで私を責めるの、圭?
『分かった。でも……なんで一緒に住もうなんて』
『それは、その……』
強気だった圭の歯切れが悪くなっていく。私はなんとなく彼が次に言うセリフを予想してしまった。
止めて、言わないで。
『出来るならさ、俺が守ってやりたいんだよ、明日香のこと』
「っ!」
無線越しじゃ、私の願いは届きやしなかった。呆然として、耳に流れ込んでくる情報を聴き続ける。
『……バカ。そういうの、今言わないでよ』
『だってしょうがないだろ。俺だって色々考えてたんだぞシチュエーションとか。でも緊急事態だしなんていうか……その、ごめん』
申し訳なさそうな圭の表情が浮かぶ。数秒の静けさを破ったのは、明日香の「バカ」という言葉だった。涙声なのに、否定的な感情の伝わってこない2文字だった。
『……ありがと』
先ほどまでとは大きく違う泣き声。シーツの擦れる音。あぁそうか。この音はそうか。私はようやく理解した。
抱き合っているんだ、この2人は。お互い思い合う、純粋な愛の音だ。私から最も離れた、私がどこかで捨ててしまったモノだ。
たまらず私はイヤホンを耳から外した。これ以上は聞きたくない。私が圭を愛してから、初めての彼を拒む行為だった。
電源の点いたままのディスプレイ、壁に貼り付けられた圭の盗撮写真。本棚に仕舞われた大量のアルバム。仕舞いきれず、乱雑に部屋に広がった資料。
おかしい。私は誰よりも生駒圭を知っているはずなのに。
今、彼が全く分からない。
明日香は検査入院という形で数日間病院に拘束されることになった。その間に、圭はいつも通り合コンに行ったり女友達と遊んでたりするだろう。私はそう思っていた。
でも違った。彼はそういった誘いを全て断り、サークルのある日以外は放課後に病院を訪れた。そこで可能な限り2人は語り合う。その会話の中に、愛情を直接表現する単語は一切含まれていなかった。
「……イレギュラー……修正」
毎日のように書き換えられる彼の行動原理とスケジュールについての表。私は憔悴し切っていた。
自分のやっていたことが、とてつもなく時間の無駄に思えて来る。それほどまでに、彼は変わってしまったように見えるのだ。
そう、まるで別人。
「別、人……」
彼はこんな人じゃなかった。今まで彼から私に対しての悪口を聞いたことが無かった。1人に対して愛情を注ぎ続ける人間じゃなかった。
誰なんだ、この男は。
こんなのは、生駒圭じゃない。
「……あの女のせいだ」
原因なんてとっくに分かっている。山岸明日香が彼をたぶらかしたことぐらい。私は手に持っていた手帳を閉じる。そこに記された大量の情報は、最早役に立たなくなっている。
私は何の気なしに、部屋を見回す。悪女に惑わされる前の圭の姿が、壁一面にプリントされている。私は、元の彼に戻って欲しい。そのためには、あの女が邪魔だ。
自分の部屋なんて、目を瞑ってもどこに何があるか分かるもの。でも私は、わざわざ目を開いてマイルームを見る。私の視線がある一点で止まる。それは、キッチンの調理器具置き場。
銀色に鈍く光る刃が、私の何かを駆り立てた。
テーブルの上に置いてある携帯電話を手に取り、電話回線に繋いだ。
今日は山岸明日香が退院する日。圭がわざわざ病院まで出向く手間がやっと無くなる。なのに、圭は明日香を部屋に招き入れる準備を着々と進めている。そんなことをしたら、ますます圭が毒されてしまう。私は、早急にことを済ませて阻止しなければならない。
空を見ると、全面灰色。今にも雨が降りそうな気配がする。
腕時計を見れば午後3時。圭は授業が終わったばかりだから、今こっちに向かってることだろう。授業をサボるという話も有ったけど、今日退院したばっかりの明日香の意向で却下された。
「時間だ」
着るにはまだ早いトレンチコートのポケットに右手を忍ばせ、待ち合わせ場所に向かう。それは、私が彼女を突き落した川だ。
明日香は例の橋の手前に立っていた。私はコートのフードを被り、左手の携帯電話で電話を掛けた。彼女はいきなり鳴り響くコール音に慌てて対応する。
『も、もしもし』
『あぁ、落ち着いてください。私は居ますよ。ほら見えるでしょう、後ろです』
彼女の小さい手には不釣り合いに大きいスマホを耳に当てたまま、振り返る。私は通話を終了し、携帯を持った手を小さく振る。
明日香が訝しげな表情をしているので、取りあえず距離を数メートルまで縮め、社交辞令を切り出してみる。
「退院、おめでとうございます」
「……何で知ってるんですか?」
「もしかして、もう忘れたんですか? ショックですね」
私はわざとらしいため息を吐いた。このままでは話が進まないので、左手で直前に被ったフードを外した。
「私です」
ニコリと笑いかけると、明日香の表情が凍った。無理もない、数日前に自分を殺そうとした人間が目の前に立っていたら、しょうがないだろう。でも叫ばれたら困る。
「大きな声を出さないで下さいよ。今日は、あなたに訊きたいことがあるんです」
私が笑いかけると、明日香はキョトンとした顔をした。でも、体は明らかに逃げるための体勢を取っていた。私は大事なことを思い出した。
「あぁすいません。自己紹介が遅れていました。私は愛宕聖那と言います」
「愛宕、さん……ですか」
「あなたは浪人していますから1つ下の学年ですけど、同い年ですから敬語なんて使わなくても大丈夫ですよ」
「なんでそんなこと……」
気持ち悪そうに腕をさする明日香。私は彼女の気分なんて気遣う暇はない。それでも、ちょっとは彼女の本心を引き出すためのお膳立ては必要だろう。
「私は生駒圭君の知人でして」
「はぁ……圭の、ですか」
何が圭だ。呼び捨てなんてしちゃって、何様のつもりだ。そう言いたい口をグッと噛みしめて我慢する。
「えぇ。それで、1つ山岸さんにお聞きしたいことがありまして。正直に答えてくれると助かります」
あなたの命が。口が滑らないようにキュッと閉じて、ごまかすように笑う。緊張をほぐすために、ポケットに入れたままの右手で木製の棒を掴む。手の平にフィットする形状が、なんとなく落ち着く。
「えぇ……大丈夫、ですけど」
「それでは。山岸さんは、生駒圭君をどう思っていますか?」
「えっ」
小さく声を洩らす明日香。「えっ」じゃねぇよさっさと答えろよ。彼女と話してくるとイライラしてくる。こんな女誰が好きになるっていうんだ、やっぱり圭は騙されているに違いない。早く救ってあげないと。
「それはまぁ……付き合ってますし、その……」
「大丈夫ですよ。彼には言いませんから、本心を言っていいんですよ」
爽やかな表情を意識して待っていると、次第に彼女は恥ずかしそうにモジモジし始めた。可愛い仕草のつもりなのだろうか、鼻に付く。
根気強く待っていると、空から細かい雫がポタリと一滴降って来た。それを皮切りに、辺りに小ぶりな雨が降り始めた。アスファルトが濃淡だけのマーブル柄になっていく。
「……してます」
小さい声だったので、聴き逃してしまった。私は顔を明日香に向ける。すると、彼女は真っ直ぐな目をして、もう1度告げた。
「私は圭を愛してます」
「……そうですか」
私は笑いを堪えるので必死だった。愛してるなんて言葉、軽過ぎて反吐がでる。バカバカしい、こんな言葉を聞くために雨に打たれるなんて、割に合わない。
それでも社交辞令という名の嘘を使いこなし、微笑の中に本心を隠した。そして目の前の愚かな女は、それを見抜けない。
「ありがとうございます」
「い、いえ……」
「この間は申し訳ありませんでした。私変になっていて、あんなことになってしまって」
頭を思い切り下げる。これは本心。私が下手に明日香を川に突き落としたから、圭があんなことになってしまった。その責任はちゃんと取らないといけない。
「いえ、もう済んだことですし……それに、良いこともありましたし……」
後半部分はボソリと呟いていたみたいだけど、長年盗聴で耳が鍛えられた私は、しっかりと聞き取っていた。
「雨、降ってきましたね。すいません」
私は適当な話題を振って、さりげなく明日香に近づく。右手に握った木の棒をちゃんとグリップする。
ちょっとは緊張感が解けたんだろうか、彼女は身構えたものの、逃げようとはしなかった。
「そうですね」
呑気に答える明日香をあざ笑うかのように、私は右腕をポケットから引き抜いた。鞘から解き放たれた包丁が覗く。
「本当にすいません。今回はちゃんと殺しますね」
迷わず明日香の腹部に包丁を突き刺した。声が洩れないように、彼女の口は左手で塞ぐ。信じられないようなものを見るような表情の明日香。私は包丁を体から引き抜く。
途端に肉体から溢れ出て来る鮮血。コートが、右腕が清々しいまでに真っ赤に染まる。忌み払うように、私は再び右手を突き出す。何度も、何度も。
その度にくぐもった声と粘液が左手にこびり付いて、最悪の気分。お気に入りの服が、嫌いな女の命で台無しになっていく。しかし反対に、気持ちは昂揚していく。その衝撃は、彼女を橋から突き落とした時とは比べ物にならない。
私は夢中になって明日香を壊し続けた。ずぶずぶと刀身を身に沈ませては、体を真紅に染めゆく明日香。次第に反応も鈍くなり、吹き出す血肉の量も減ってゆく。最終的に、刺しても何の手ごたえも無くなった。
「ハァ……ハァ……」
思いの他の重労働を終えた私の足元には、黒く変色しかけの明日香だったモノ。私は達成感に身を任せて、無傷の頭を蹴飛ばした。人間としては変な方向に首が曲がったけど、問題ない。コレはもう人間なんかじゃない。
「……明日香?」
背後で懐かしい声がした。私は嬉々として振り向いた。予想通り圭がいた。時間は……腕時計は血がこびり付いて読み取れない。彼がキャンパスから直行したと考えると、3時半くらいだろう。
「なんだよ……これ……」
呆然とした様子で呟く圭。これって、あぁこの死体のこと?
「害虫を駆除しただけ」
そう、圭にとってあの女は害虫。だったら駆除しないといけない。それだけのことなのに。
圭は私の足元にひざまずく。そして出来立ての死体を抱きかかえて泣きじゃくり始めた。予想外の状況に私は目をぱちくりとさせる。
何をしているの、圭。そんなことをしたら、貴方の綺麗な身体が汚れてしまう。小雨程度では、洗い流せない頑固な汚れだ。だから、それはもう只のゴミだから、無駄なことをしたって意味がない。なのに、どうして。
「あ……」
そうか。私は納得した。明日香が消えたって、圭はもう戻らない。この死骸と同じだ。変わったら、もう後戻りは出来ないのだ。
困った、どうしよう。俯いて圭を見つめる私の視界の端に、赤黒い鋼の刃が見えた。まだ固まってない血液が、透明な水によって滴り落ちる。
瞬間、私の中の心臓が激しく動悸した。さっきよりも強大な破壊衝動がやってくる。身体が、圭の血肉を求める。
私は圭のことは何でも知ってるつもりだ。でも、彼の中身は知らない。
「圭」
呼びかけても反応なく、圭は辺りを憚らず泣き続ける。今すぐ救ってあげるから。私は、後ろから彼の首を一突きした。貫通するわけもなく、圭の首の真ん中程で刀身が止まる。
感情に任せて引き抜くと、噴水みたいに激しく液体が噴き出た。圭は明日香の骸を抱えたまま、地面に倒れこんだ。
私は腰が抜けて地面にへたり込んでしまった。
「……殺っちゃった」
不格好な表情で最期を迎えた彼の顔を、手でいじって笑顔に変える。少しは安らかな顔に変わっただろうか。
それから私は内なる声に従って包丁を扱い続けた。子供が粘土で遊ぶように、ひたすら手を動かし続けた。
その呪縛から解き放たれたのは、女性の悲鳴が聞こえた時。顔を上げると、会社帰りと見える女性が口に手を当てて叫んでいた。目が合うと、逃げるように走り去って行った。
もうすぐ私は捕まるだろう。直感的に思った。でも、逃げる気にはなれなかった。腰が抜けているのも原因だけど、何より圭がいなくなった世界に未練が無くなった。
人を殺すのも中々刺激的だけど、圭以上に興奮する相手もいないに違いない。どうでも良くなって、圭の身体に手を触れてただ待つ。
どこからかパトカーやら救急車のサイレンの音が聞こえてきた辺りで、少しだけ思考が回復した。
「死のう」
刑務所に入っても生きる意味はないだろうし、刑によっては不本意な死に方になるだろう。それならいっそのこと、圭の血が染み込んだナイフで、彼と一緒になろう。
自分を殺す。考えただけで胸が高鳴って来た。自分の首に包丁の刃を当てる。これから私の身に起こることを考えただけで興奮してくる。
少しの間、その感覚を堪能し、最後には、右手を思いきり薙いだ。