温もりの光
「……へ?」
「私を抱いてください」
なんだかものすごい事を狼に言われた。あれ、突発的に言われたらワケわかんなくなってきた。今どういう状況だっけ? そもそも、その言葉はどう言う意味だっけ?
「えーと……というのは、詰まるところ……」
「お噺のラストのように、私を抱きしめて欲しいんです。そうすれば、願いが叶うような気がして」
「……あぁ」
……うん、なんか盛大な勘違いをしていたみたいだ。今までの話の流れ的にそういう意味しかあり得なかったのに僕はなんだか違う意味で解釈しようとしてたよ。いや、たぶん解釈は出来ても理解はできなかっただろうけど。
「その……いいですか?」
「あ、あぁ、それは……」
ここまで来て言うのもアレだけど、まさか噛み殺されたりしないよね? そりゃ、殆ど安心しきってるけどそれも100%安心してるわけじゃないし、もしそんなことが起こったりなんかしたら、僕もう人生終了だからね。
「……やっぱり、人間でもないのに無理ですかね」
「……いや、いいよ」
「っ!? 本当ですか!?」
ええい、もうどうにでもなれ!! ここまできて信じない奴がいるか!! 僕は彼女を信じるぞ、人間になるかどうかはさて置き、完全無警戒で抱きしめちゃう!! あの体毛すごい気持ちよさそうだし、抱きしめたついでに顔をあのふわふわに埋めよう。その後意識を失っちゃったら、それまでの人生だったと達観した気持ちで死のう。あぁ、悔いのない人生だった。嘘です、悔いだらけです。死ねない死ねない。ってか死なないってば。さっき信じるって言ったじゃん。
バカみたいなことを永遠考えていると、表情では汲み取りにくい喜びを人間その物の声で表しながら、彼女は尾を振る。
「あ……そういえば、こんなときになんですけど、お名前、何て言うんですか?」
「あぁ、名前? それは勇――」
「??」
「――ヴァンだよ」
ちょっと迷って、僕は一度死んだ名前を呟いた。モニカの前ではその時だけヴァンになると言ったが、それ以上に彼女の前ではヴァンでいなければいけないと思う。
「そ、そうですか……ヴァン、さんですか……」
「えーと、じゃあ僕は君をなんて呼べばいいのかな?」
「あ……それは、抱きしめてもらってから決めて貰っていいですか? もし人間になれたら……その姿に似合った名前がいいなって」
「そっか、分かったよ」
「それじゃあ、あの、お願いします……ね?」
そう言って、彼女は大きな体を少し下ろして、前の足を畳んだ。彼女の顔が僕の胸の辺りに来る。
僕はゆっくり歩いて近づいて、彼女の目と鼻の先まで近づくと、どう腕を回そうかと考える。
当たり前だが、女の子は勿論、友達同士でも抱き合ったことなど一度もない。ましてやモンスターとなんて考えもしない。
いろいろ考えた結果、首周りに回すことで意見が集結した。
「じゃあ、いくぞ?」
「はい、来てください」
僕はゆっくりと腰を下げて、彼女の首に手を回した。目を閉じて、体を彼女と密着させる。肌をくすぐる毛先の細かいライトブラウンの毛がとても清らかに香る。頬を沿わせた彼女の顔はもはやダンジョン一つを牛耳るモンスターのものではない、それこそ透き通った柔肌、弾力と張りを兼ね備えた質感、生涯の内で一番の輝きを放つ時期の女性を彷彿とさせた。そんな彼女との接触に、僕はただただ温もりを感じ、ここ最近味わうことのなかった幸福感に満ちていた。
すると、彼女を覆う体毛が途端に逆立ち始める。勿論、風なんて吹いていなければ、彼女が危険を察知したわけでもないんだろう。
逆立った毛並みは次第に脈打つように躍動し始め、やがて彼女の周囲を自然発生の一言では無理の有りすぎる一陣が渦巻く。
僕の防具もその力に一気にはためき、まるで外套のような造形を作って踊り狂う。
僕を包んでいた彼女の鎧毛もすごい勢いで波打ち、そのただならぬ状況の推移を予感させる。
「これは……!?」
「何でしょうね……私にも分かりません。でも――」
僕たちを囲む風はどんどんと勢いを増し、僕たちを台風の目としたように辺り一帯をとんでもない空気の層で暴虐的になぎ払っていく。
そしてそのエネルギーは飛躍的に上昇していき、小さな稲妻も走り出しちょっとした乱気流の中のような状態になっていく。摩擦で生まれた電気が弾け、同時にまばゆい光が放たれる。吹き荒れる暴風は留まるところを知らぬままあらゆるものもなぎ払っていく。
「――空中で抱き合った少年とドラゴンも、同じようになっていたんだと思います」
直後、今まで内包、集約されていた莫大で膨大なエネルギーが、突如として逃げ場を見つけたかのように、もしくはその力を抑えていた何かが決壊したかのように、彼女を中心に解き放たれた。
「っがは――」
その衝撃は一瞬何が起こったのか分からないほどだった。視界が暴れ、脳が揺さぶられ、腰がひしゃげたような感覚。耳には甲高い音が鳴り響き、口内を鉄のような味が一杯に満たす。
どれだけ飛ばされたか分からない。気づいたとき、神々しく座っていたあの彼女から視界を覆うような閃光が飛び散り、その光から少しだけ遅れてやってきた破壊的な風と衝撃波によって、僕はどうすることもできないまま後方に吹き飛ばされた。
背中を強く打ったから、壁面まで飛ばされたということだろう。飛んでいる最中、何度も地面にぶつかって転がり、全身を均されていないデコボコの地面に引きずり、叩きつけられた事で平衡感覚も失い、圧倒的な量の光のせいで視界も失っている。耳の奥の膜も、破れていないながらも骨の振動を検知できないほど異常をきたしてしまい、少しの間音が聞こえない。
「……何が、どうなった……?」
だんだん慣れてきた目を擦って現状の把握を急ぐ。辺りの地面が大きく削れ、砂や埃が巻き上げられて視界は不明瞭だった。
それでも、巻き上がった煙には時より、電気の帯が走る。バジバジと不穏な音を立てて、その場で現れては消える。
その中心には、黒い影が一つ。さっきまで僕が抱きしめていたはずのコボルト・エグゼクティブがそこにはいるはずだった。しかし、煙が消え始めたとき、その異変に気がつく。
「……あれ? あんなに立派だった影があんなに小さく……って、え?」
視界が明瞭になってきて初めて見えてきたその影は、どう考えても獣の輪郭ではなかった。二足で立ち、すらっと細長い身長、無駄のない頭部から肩部にかけてのライン。それは間違いなくコボルトのものではない。
「まさか……本当に?」
体の方もようやく上下左右が判別できるくらいにまで回復したので、立ち上がって彼女に近づいて行ってみる。煙がたなびくその場所へ、大きな希望を持って、それでも若干の恐れも入り混じった複雑な感情でその場へ歩み寄るとその結果は非常にあっけなく、明確なものだった。
そこには、一人の女性が立っていた。
「――私、人間になれましたか?」
腰ほどまであるライトブラウンとシルバーのアッシュヘアは、外に跳ねたり内に跳ねたりと非常に流動的な動きを魅せている。身につけたワンピースはまるで気高いコボルトの毛並みをそのまま模したかのようで、淡い黄色で彩られ、その華麗な腕を際立たせ、細く華奢な脚を程よく隠す。細い体のボディラインは胸の辺りで大きく膨らみ、体躯にそぐわない魅力的な胸をワンピースの下に秘める。そして、彼女の目。琥珀に輝きながらも全体を霧のような白みが覆っている。それは彼女が、彼女本人であるということを知らしめる皮肉なポイントだった。
「……うん、ちゃんとなれてるみたいだ……綺麗な女性に」
「ほ、ホントなんですね!! 私、人間になれたんですねっ!!」
本当に、心の底から嬉しそうにそう呟く彼女は、慣れない人間の体を必死に動かしてその事実を体感しようとする。
「でも……どうして?」
「この世界、魔法だって使えれば、教会で生き返ることもできるんですよ!? 細かいことはいいんですよ!! やったァっ!!」
「ちょっとちょっと、突然楽観的になりすぎじゃない!?」
「だってうれしいんですもん!! ヴァンさんも喜んでくれていますか? ヴァンさーん、どーこでーすかッ!?」
彼女はそう言ってよたよたとふらつきながら、同じ辺りを行ったり来たりした。体全身が喜んでいるのに、目だけがその彼女の意思に反するかのように、光を失い雲がかかったように虚ろだった。
「……あれ、おかしいですね。人間になる前は感覚でヴァンさんの場所が分かったのに、今じゃ全然分かんないです」
おっかしいですね、とニコニコしながら彷徨う少女は、僕の元からどんどんと離れていってしまい、ついには壁にぶつかって転んでしまう。介入しようか悩んだ僕だったけど、結局することにした。
「僕はここだよ」
「あ、ヴァンさん!! すいません、お見苦しいところを……」
ちょっと暗い表情になってしまった彼女だったが、すぐにパッと顔が明るくなったかと思うと僕の方を向いてこんなことを言ってきた。
「そういえば、名前、私の名前!! 人間になった私に似合う名前、付けてください!!」
そんなことを嬉々として言う彼女の目が、僕のことを捉えていないのがとても心苦しかった。
僕は少しの間考えてみた。彼女に付ける名、彼女に因んだものがいいと思ったのだが、うまい具合に文字に起こして名前にできない。自分で名乗りたい名前はないのかと聞いても、ヴァンさんの決めたのにしますと一点張り。
その時ふと、ある童話の主人公の名が頭に浮かんだ。
『アリス』。
この噺の主人公は、森に住む一人の少女で、いつも森の動物たちと元気に遊び回るような少女。ある日、いつものように森の仲間たちとかくれんぼをしていたところ、森の大樹に隠れた大穴に落ちて不思議な世界に落ちてしまい、その世界を旅するというお噺。
最終的に、アリスは不思議な国の魔女に『願いを一つだけ叶えてあげる』と言われ、自分が元の国に戻るか、森の皆をこっちの世界に連れてくるかを悩み、自分が元々いた、いつもの世界を選んで帰るのだが、そこではもう既に仲間たちが死んでしまっている。
という、衝撃的な最後でこの噺は終わる。しかし、この噺は『この後のアリスの人生は、読んだ人に導いていってほしい』という意図のもとの噺なのだ。要は、本の終わりは一つの節目でしかなく、それ以降の彼女の本当のストーリーをあなた自身が紡いで創るのだ、というワケ。
僕は、この本の主人公『アリス』と、夢を叶え人間になれた彼女に重なるところがあるような気がした。
そして同時に、アリス同様彼女の人生を導くのは、僕なんだろうなと思った。
彼女に夢を与えておいて、これほどまでに思われていて、ここで終わりなんて僕にはできない。だけど、僕が導くということは王国の勇者に付いて貰うということ。それは唯でさえ過酷になるというのに、さらにその勇者はこの僕。王国民に忌み嫌われしんでほしいと願われているヴァンこと僕なのだ。それは、彼女にとって何を意味するのか、それを知っておかないことには、話は進められないと思った。
「君は……これからどうしていきたいの?」
「?? これからですか……」
少し考えた様子の彼女は、それから直ぐに頬を赤くして、口元を歪めて眉を下げた。
「私、勝手にヴァンさんに付いて行く気でした……ご、ごめんなさい、まだ許可ももらってないのに……」
「あ、あぁ!! いやいや、それは勿論許可するんだけどさ……だけど僕には事情があってさ……」
「??」
それから、僕が王国の勇者であること、ここに来ていたのはレベリングのためだったこと、僕が王国民にしんでほしいと思われていること、そして、そんな僕についてくることはとても辛い思いをすることになるかもしれないこと。
全てを彼女に話した。すると彼女は、
「私はどうなろうとヴァンさんの傍にいられればそれでいいです。だってヴァンさんがいなければ今の私はいませんから。それに盲目を負い目にしてそれこそ辛い道を進んでいたかもしれません。だから、私はヴァンさんの隣にいたいです」
「…………」
「ヴァンさんは、私にどうして欲しいですか?」
「……いてほしい」
「え?」
「傍にいて欲しい。できれば、僕のとなりで僕の話し相手になって欲しい。それから、もし出来れば勇者の仕事とかも手伝って欲しい。それから、それから――」
「――全部しますよッ!!」
ただただ励ますため、そんな笑顔で飛びついてきた彼女はしっかりと僕の体を抱きしめた。見えないはずのその双眸を必死に瞬かせて、彼女は僕を抱きしめてくれた。僕の本音を受け止めてくれた。
そんな直向きな彼女が、自分も辛いはずの彼女が、頑張って僕を励ましてくれているという事。
それがどれだけすごいことなのか、僕には分かりきれなかった。僕は屁理屈は得意だけど、基本的に馬鹿なんだ。
モニカ王女に馬鹿と言えたもんじゃない、それくらいのバカだった。だから、彼女の辛さを分かち合うことができない。
だけど、それも段々出来るようになればいい。だから、僕は彼女の胸の中であれこれ考えるのを止めた。
「アリス、君の名前は今日からアリスだ」
「……アリス。綺麗な響き、良い名をありがとうございます、ヴァン」
続けて、アリスは荒れた呼吸を整えて
「私はヴァンの右手となって戦います。私はヴァンの左手となって支えます。私はヴァンの右足になって進みます。私はヴァンの左足となって踏ん張り堪えます。今の私の体はヴァンの物です、ヴァンのおかげで得られた体です。だから私はヴァンに尽くします。ヴァンと共に在ります」
彼女の鈴のような声が、優しく僕を包んだ。その言葉に、ここ最近傷つけられた心が嘘のように癒され、彼女の姿が聖母と重なり合う。
その時だった。
普段なら戦いの末、ようやく手に入る筈の褒美の光が、彼女の元から光の軌跡を描いて宙を漂う。それが何なのか、いまいち分からないでいたけど、このタイミングでこの光で変なものだったら僕は本気で神様を殺る。
その光の軌跡は、たった一つのか弱い小さな明かりだったが、その内彼女の体もほんのり輝きだし、小さな光の粒が充満し始める。
「……じゃあ、僕も今できる最高のプレゼントをアリスに届けるよ」
「??」
また柄にもないことをしようとしているな、なんて僕は思っていた。だけど、僕だってこんなことするなんて、否、できるようになるなんて、考えもしなかった。
彼女の足に結ばれた栞が解け、一筋の光となって僕の周りで浮遊する。そして、その光は周りの光を吸収し、緩やかな弧を描いて右手に触れる。
そして慈愛の剣はこの一瞬だけ進化を遂げる。対象への慈しみを増幅し、対象へ特殊な恩恵を捧げる慈愛の施し。
それはまさしく、彼女が僕に授けてくれた力だった。
彼女の慈しみの心が形になったのだろうか。それとも、彼女の持つ過去や思いが僕という存在と接触したことで生まれたのだろうか、はたまた、僕の思いが定まったことで得られた天界からの褒美だろうか。分からない。
だけど、タイミングだけは完璧すぎた。このままだと僕は彼女に尽くされっぱなしだったんだ。恩返しに恩を返すというちょっと変な形ではあるが、恩の大きさからすれば妥当なはずだ。
慈しみの分だけ、それを処置として実行できるこの力。殺傷にも、治癒にも。
「僕はアリスへの慈愛の心を解き放ち、彼女の瞳に施しを――」
右手で剣を抜き、その刀身に暖かな黄色の施しを宿す。そのエネルギーを、今も尚戸惑って良く分からない様子のアリスに向かって放つ。その暖かな光はゆっくりと彼女の瞳に行き着くと、染み渡るように彼女の中へと溶けていった。
「僕が君の目になるっていうセリフ、ちょっと言いたかったんだけどなぁ」
琥珀に煌き、金色の膜で覆われた彼女の瞳には、間違いのない光が差込み、鏡面のように輝くその表面には映るはずのなかった僕の姿が、反射して見えるようだった。もう、その目に白さなど無かった。代わりに、彼女は綺麗な雫を溜め込んで――
「これが、人間同士の温もりだよ。さっきは僕が抱きしめられたからね。今度は僕が」
――温もりと共に、失っていた光を見出したんだ。