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ごうごうと風を切る音が耳を突く。それ以外に何の音も耳に入らなくて、風圧で目を開けることもままならない。
侍女の背中にまわした手を離さないよう、必死にしがみ着く。上も下も分からないなか、また何かを突き破った感覚がした。かすかにガラスの割れる音、人のどよめきや悲鳴を聞いた気がした。
その瞬間、ふわり、と身体が浮いて。やっと風に邪魔されずに耳が正常に機能しだした。妙な浮遊感に ハッ、と目を開けると、リルは厳かな教会にいた。城から居なくなった人々が、教会のなかに ぎゅうぎゅう詰めになってひしめき合っていた。
浮かぶリルの目の前に十字架があって、その下には口を あんぐりと開けた神父と、顔をしかめたケインが。
ここはどこ?なんでこんなところにケインが?と きょとんと するリルだったが、
「すみません、ちょっと飛ばしすぎちゃって、バージンロードを一秒で駆け抜けてしまいました」
てへ、とリルを抱えたまま舌を出して笑う侍女に、いまだに自分が侍女にしがみついたままだったと気づいたリルは、つい しがみついていた手をぱっ、と離してしまった。
「あっ、駄目です、まだ…!」
「きゃっ…きゃあぁあぁー?!」
手を離したリルは、侍女の魔法から解放されて、真っ逆さまに落下した。
天井に近い、かなり高いところからの落下に教会中から悲鳴が上がる。リルも「しまった!」と後悔しながら、固く目をつぶり衝撃に備えた。
「――――あ、れ?」
とてつもない衝撃と痛みが来ると覚悟していたが、リルが感じたのは、リルを力強く抱き止める腕だけだった。
何故?と固く閉じていた目を怖々と開いてみると、そこには無表情ながら眉間にシワをよせたケインの顔が すぐ近くにあった。リルを連れて来た侍女は、侍女長に襟首を掴まれて引きずられて行った。
ぼけっ、とケインを見つめるリルをよそに、リルを無事に受け止めたケインに称賛の拍手が送られる。男性はヤジを飛ばし、女性は目の前で起きた救出劇に安堵しながら、うっとりと溜め息をつく。
「おっ、なんっ、なに…」
オルグラント様?なんでここに?何をしているんですか?
と問いたかったが、どうしたものか、口が回らない。言いたいことが色々と先走って、言葉にできないのだ。自分が思っている以上に、リルは動揺しているようだった。
「――――君は、本当に面白い女性だ」
ケインはリルを抱き留めたまま、切れ長の目を細めた。リルを見つめる顔は変わらず不愉快そうにしているものの、その声音は愉しそうで、どこか甘い響きを含んでいる。
「私を怖がらない。睨み付けても逃げない。それだけでも稀少な人間だというのに。――――君に二度と会えないのかと思ったあの時、…私は心臓が張り裂けてしまうかと思ったのだ。もう、私から離れるな」
まるで告白ともとれる台詞に、リルは盛大に赤面し、胸が激しく高鳴った。
「…で、でも!」
嬉しいと思う気持ちを無理矢理に押さえつけて。リルはケインの服の襟をつかみ、その目を睨み付けた。
「私を辞めさせるつもりなんでしょう?それに、城に来るときは覚悟をしろって言ったじゃないですか!」
怒りをあらわにリルが言うと。ケインは うむ、と頷き、
「前から決めていたのだ。結婚するとなれば、侍女の仕事は辞めてもらわなければならないとな。」
ケインの言葉は、リルの頭を真っ白に するには十分だった。
「けっ、こん…」
ケインが結婚する。だから、リルは侍女を辞めさせられる。そういうことらしい。
(どうして?どうして結婚なんて…私に好きだって言っておいて、自分は結婚するような相手がいたの?…しかも、自分が結婚するから私に侍女を辞めさせる気でいたなんて…)
「最低…」
ぼそっと呟いた一言が よく聞こえなかったのか、ケインは怪訝な顔をして、リルに顔を寄せて耳を傾けた。
「最低だって言ったんです!顔近づけないで下さいよ!この二股男!離してください!」
抱き止めたままの態勢で両手が塞がっていたケインは、リルの怨みのこもった重い一撃をかわすこともできずに見事に顎に食らい、痛みにリルを支えていた力が弛んだ。
ギャラリーからは、再び どよめきと悲鳴が上がった。
その隙に ケインの手から逃れたリルは、一目散に教会の出口に走る。
「待てっ!」
後ろからケインの声がしたが、知ったこっちゃないとリルは振り向きもしなかった。
明らかな修羅場に教会は ざわつき、緊張感に包まれる。
「出口を封鎖しろ!」
ケインの鋭い声に、出口に待機していたらしい数人の男が扉を閉めようと慌てて動き出す。しかし教会に来る際に侍女とリルが吹き飛ばしてしまっていたので、バラバラに散らばった二枚の木片を扉にするのは無理があった。
「チッ…縛れ!」
封鎖は不可能と踏んだケインは、掌から黒い鎖を出現させ、リルに向けて放つ。
「なっ、卑怯じゃないですかっ!」
不穏な言葉に振り向いたリルが見たのは、矢のように風を切る黒い いくつかの筋だった。
「汝、この者を愛し――――」
「御託は良い。指輪の交換をする。それを早く寄越せ」
「は、はいっ…!」
涙目で指輪が二つ乗ったリングピローを差し出す神父。哀れな神父を助けようとする者は、この教会には 居なかった。
「君は本当に面白い。式の最中に花婿に暴言を吐き、その上暴力までふるう花嫁など、どこを探しても君ぐらいだろう」
くっ、と笑ったケインは、リルの左手を取り、まばゆく輝く石の付いた指輪を薬指に はめ、愛おしそうにリルの細い指を撫でる。
「次は 君の番だ」
リルよりサイズが大きめで、小さな石が内側に埋め込まれた指輪をリルの手に取らせ、自身の指にはめるよう、優しく誘導する。
「そうだ。よし、よくやった――――これで私たちは夫婦だ」
普段の険しい仏頂面が嘘のように、幸せそうに はにかんだ笑顔を浮かべるケインを、教会に駆け付けた城中の者が祝福をした。
皆、ケインを恐れながらも国のために その力を惜しげもなくふるうケインを、陰では英雄のように慕っていたのだ。だからこそ、彼の人生で一番幸福な日を、是非に祝いたいと思っていたのだ。それは、大臣であれ、侍女であれ、この国に住む者
であれば、誰しもが思っていたことだった。
しかし。
肝心の花嫁が黒い鎖で両手を がっちりと繋がれていたのには誰もが微妙な顔をしたが、一人の若い侍女の
「素敵…あんなに想われてお嫁に行くなんて、アーキーさんは世界一の幸せ者ですねー」
という一言に、皆 これはこれで良いのだろう。と己を無理矢理納得させるのだった。
指輪の交換が終わり、誓いのキスを と神父が びくびくと怯えながら言った時。それまで黙って されるがままだった花嫁が、きっ、と強い眼差しで花婿を睨み付けた。
そして、花嫁は花婿の頬を両手でガッチリと わし掴んで引き寄せ、ぶっちゅう~!と熱烈な口付けをした。
これは末代まで語られる無理矢理婚か、と花嫁を可哀想な目で見ていた人々は その行動が あまりに予想外過ぎて、花婿と一緒になって目を丸くして驚いた。花婿に至っては、硬直してしまっている。
挑むような目で花婿を見つめながら、唇を ゆっくりと離した花嫁は、
「私が大人しく流されてばかりだと思ったら、大間違いですよ?」
と、勝ち気な笑みを見せた。
誰もが固まるなか唯一通常運転だった若い侍女は、
「嘘だー、アーキーさん、めちゃくちゃ抵抗して、大人しくも 流されても なかったじゃないですかー」
と、無邪気に笑った。空気の読めない侍女だったが、その 発言が人々を逆に和ませたのだった。
唇を手で押さえて顔を真っ赤にした花婿から、突如二人を包むように黒いもやが巻きあがり、どよめくギャラリーを置いてきぼりにして、主役二人が忽然と姿を消しても。
残された者たちは、両想い万歳と胸を撫で下ろしたのだった。