5
「お父さんお母さん!」
バターン、と寝室のドアを勢いよく開け放ったリルは、驚いて飛び起きた両親のそばまで大股で駆け寄った。
「ど、どうした?何かあったのか?」
寝ぼけながら、訳がわからないという顔をした父。
「私、帰るね!ちょっとやらなきゃいけない事ができたから。お母さん、また食べ過ぎて倒れるなんて事絶対にしないでね。お父さん、お母さんをちゃんと見張っておいてね!じゃあ急ぐからもう行くね!今度は、ゆっくりできるようにするから!」
じゃあね、と手を振りながらドアをバターン、とまた大きな音で閉める娘に、父は何も言えずにドアを見つめた。
「リル、昨日は しばらくこっちで過ごすって言っていたのに…一体、何があったんだ…?」
「あら、あなたはわからなかったの?」
「え、何がだい?」
キョトン、とする父に笑いながら、母は咳払いを一つ。
「“私、行かなくちゃいけないの。だって、あの人が呼んでるんだモンっ☆”って顔だったわよ」
ふふん、と得意気な顔をする母とは対照的に、父は顔を真っ青にして叫んだ。
「リルはまだお嫁に行かせませんっ!」
父の涙ながらの叫びがツボにはまった母と、姉を追ってきて覗き見していた弟が ぶわはははははっ、と笑い転げている頃。
リルは朝一番の馬車に揺られて、城を目指していた。ガラガラと鳴る車輪の音を聞きながら、早く早くと固く拳を握っていた。昨日と全く同じ状況だけれど、リルの気持ちは、昨日とは大きく変わっていた。
城に、一台の馬車が停まった。
「おじさん、ありがとうございました」
赤い髪に、薄紅色の目をした女性は、馬車から降りると、御者の男性に ぴょこりと頭を下げた。
男性は軽く手をあげて頷くと、馬車をまた走らせた。女性は車輪の音が聞こえなくなるまで見送り、城へ一歩踏み出した時。
「アーキーさーん!!」
若い侍女が女性目掛けて、髪を振り乱して走ってくる。
いつかと全く同じやり取りで、向かう場所も同じ。だけど、リルは これからケインに思いを伝えるのだ。ドキドキとうるさい胸を撫で付けて、リルはエミリに軽く手を振った。
エミリは、リルに近づいてくると、リルに思いっきり飛び付いた。
「きゃっ…エミリ?どうしたの?」
予想外なエミリの行動に戸惑っていながらも、なんとかエミリを抱き止める。
「アーキーさん…どうして辞めちゃうんですか?アーキーさんが居なかったら、私、私…」
リルの胸に顔を埋めていたエミリだったが、顔を上げると、その顔は涙にまみれていた。
「え?私が何って?…エミリ、ちょっと落ち着いて、話を聞かせて?私、何がなんだかわからないのよ」
エミリの背中を優しく撫でて、言葉を促す。エミリは、ひっく、ひっく、としゃくりながら、口を開いた。
「今朝、オルグラント様が何故だか凄く怒って登城してきて…私、怖くて目を合わせないように部屋の隅に立ってたんです。八つ当たりされたら嫌だし、機嫌が良くなるまで声を掛けないで、様子を見ようと思って」
侍女として その対応は どうかと思ったが、恐らくケインの不機嫌の原因は自分だろう。リルは少しエミリに申し訳なくなって、何も言わずに先を促した。
「そうしたら、オルグラント様が急に、アーキーさんには、じっ、侍女を辞めさせて、別の職を用意したって、言って…」
リルは、エミリの言葉に 鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。「辞めないでくださいぃー」と再び泣き出すエミリを慰める事も出来ずに、呆然とするしかなかった。
もう、遅かったのだろうか。あの時に すぐ返事をしなかったから、ケインはリルに ふられたと思って、リルを見限ってしまったのかもしれない。もともと、ケインは山のようにプライドが高い人間だ。自分が侍女ごときに告白をして、その上 玉砕したとなって、プライドが酷く傷つけられたのだ。彼にとっては もう忘れてしまいたい出来事なのだろう。そして、同じ職場なのが気まずくなって、異動させることにしたのかも。
そんな事を考えていたら、ケインの言葉を思い出した。
『…君が城に帰る時。その時には――覚悟を決めて来るんだな』
そう言えばあのとき、彼は覚悟を決めて来いと言っていた。その前にあった告白で頭がショートしていたから、今の今まで頭から すっぽりと抜けていたけれども。
「…そんな」
リルは、足に力が入らなくなって、へたりと膝をついた。
「アーキーさん?!」
エミリが驚いて目を見開いているが、それを気にする余裕もなかった。
遅かったのだ。ケインは血も涙もないと言われるほど、敵も味方も不要と見なせば、バッサリと切り捨てる人間だ。後からすがり付いても、足蹴にして取り合ってはくれない。そういう人だった。
リルは、やり場のない悔しさと悲しみを堪えるために、服の布地を強く握り締めた。そうして、ハッ、と思い出した。
この服は、いつだったかケインに新調しろと言われた服だった。リルは気に入っていたのに、作業着とまで言われてしまった服。経費で新調してやると言われていたのに、その日の帰りに封筒を渡されて、見てみるとなかには大金が入っていた。恐らく、馬車代と服代。それとメモが一枚。そこには、癖のある字で「もう少し露出の少ない服を着なさい」と書かれていた。その時は、見たくもない肌を見せるなという意味かと思い、ケインを睨み付けて怒ったものだった。
――――今思えば、自分は あんな態度で、よく今までクビにされなかったものだ、とリルは しみじみと思った。
そして後日、そのお金とは別に馬車代を渡されて、仰天したのも覚えている。(勿論、貰いすぎは怖いので馬車代と服代を引いて、残りはケインに押し返したが)
他にも、ケインに対するリルの態度は、お世辞にも褒められたものではなかっただろう。
でも、リルは多少ミスをしても、ケインの質問を適当にはぐらかして睨まれたりしても、切り捨てられたりはしなかった。それは何故か。
「――――なんだ、私ちゃんと…特別扱いされてたんじゃない」
女の子の様な扱いはされなかった。けれど、リルは、『リル』としてケインに認められていたのだ。だから、リルが面倒くさそうに相手をしても 生意気な口を聞いても 皮肉が返ってくるだけで、決して魔法で吹き飛ばされなかったし、雷が落ちる事もなかった。鈍感なリルは全く気づいていなかったけれど、ケインは ちゃんと、リルを特別な人間だと思っていてくれたのだ。
その事実に思い当たると、リルは どこからか力が湧いて来るのを感じた。
「エミリ」
リルはエミリの肩を がしりと掴むと、
「私、絶対に辞めないから。辞めろって言われても、辞めてやらない。蹴られても吹き飛ばされても、足に巻き付いて離れてやらない事にしたの」
「ぇえ?け、蹴られ…ぇえ?アーキーさんが?誰に…?」
目を 真ん丸に見開いて、訳がわからないという顔のエミリに微笑むと。
「勿論、オルグラント様よ。…私の気持ちを しっかり聞きもしないで色々してくれたこと、後悔させてやるわよ!」
決意表明のつもりなのか、腕捲りをして腰に手をあてて笑うリルを、エミリは うるうると見つめていた。
「カッコいいです、アーキーさん…!私もお供いたしますっ!」
ヨッシャー!と空に拳を突き上げる侍女二人を遠視の魔法で覗き見ていた一人の男は、うむ。と頷いて小さな黒い鳥を何羽か掌から生み出した。
それに一言 言付けると、「行け」と鳥たちを放す。
鳥は四方八方に散り、壁をすり抜けて城中を駆け回り、主の言付けを高々と宣告する。
「作戦開始。総員、予定通り配置に付け」
と。