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風呂に駆け込んで、シャワーを浴びて。リルは温かい湯に打たれながら、ケインの言葉を反芻していた。
『私は こんなにも思っているというのに、なぜわからないのだ!』
ケインが自分を好きでいてくれたなんて。リルは全くケインの好意に気付いていなかった。しかし、あんな態度をとられて気付けと言う方が難しいだろう。ケインとリルの間には男女の色恋の「い」も無かったし、これといって相手を異性として意識する様なこともなかった。リルにとって、ケインはケインだ。仕える主、職場の上司とは思えど、異性として見たことはなかった。ケインだって そうだと思っていた。リルは女扱いされた覚えも、優しくされた覚えもない。
花を贈られたのも、本命に渡しそびれた物を自分にくれたのだろうと思った。 ネックレスだって、安物の処分に困ったから――そう言って押し付けられたのが真実だと思っていた。
なのに、ケインが告げた言葉は それとは真逆で。
「…冗談じゃ、ないの?」
リルの呟きは、シャワーの水音に掻き消された。
タオルで濡れた頭を拭きながらリビングに行くと、弟が ミルクを がぶ飲みしていた。
「よ、姉ちゃん」
「…おはよう。早いのね」
まだ両親も しばらくは起きてこないだろう。そんななか、弟が早起きをしているのにリルは少し驚いた。
「早いのねって…気持ち良く寝てたら、起こされちまったんだよ。誰かさんが部屋で逢い引きしてるから、うるさくてね」
「なっ、逢い引きなんて…」
弟の言葉に、リルは顔から火が出そうなくらいに真っ赤になった。
「まさか、聞いてたんじゃないでしょうね?!」
家族に、しかも弟に あのやり取りを聞かれていたら。リルは恥ずかしくて穴があったら飛び込んで そのまま埋まってしまいたいくらいだった。
「いや?よく聞こえなかったけど、もめてんのかなって。姉ちゃん、急に実家に帰ったから、彼氏が寂しくなって押し掛けてきたのかなって思ったんだよね。だから姉ちゃんの悲鳴が聞こえたけど、ちょっと様子みてたんだよ」
やれやれ、とわざとらしく肩をすくめる仕草に かなり苛ついたが、弟に心配をかけたことに申し訳なく思う。
「ごめんね、心配かけて。でも大丈夫だから」
「ふーん、まあそうだろうね。喧嘩してんのかと思ってたら、姉ちゃん真っ赤な顔して風呂に行くからさ。なんだ、心配することなかったじゃんって思って、胸焼けしたからミルク飲んでた訳」
弟の言葉に色々とダメージを受けて、リルは頬を手で隠した。
「真っ赤になんて、なってないわよ!それにオルグラント様とはそんな関係じゃないからっ!」
「へえ。オルグラントっていうんだ、彼氏」
「だから、彼氏じゃないってば!」
そう、リルとケインは恋人同士という甘い関係では決してないのだ。そもそも、昨日ケインの気持ちを告げられたばかりで、まだ何も返事もしていない。
「でもさ、早く帰んないと泣いちゃうんじゃないの、彼氏さん」
弟の やけにニヤニヤした顔が憎たらしい。
「しつこい。彼氏じゃないってば。…あの人が泣くわけないでしょう。血も涙もない様な最強で最凶の男っていわれて、皆が怖がるような人なんだから」
「ふーん?」
「それに、意地悪だし ひねくれ者だし変にプライド高いし、すぐ怒るし。相手をする私だって、毎日大変なんだから!」
「ふーん」
適当な返事ばかりの弟に、リルのこめかみに怒りがにじんでくる。
「ちょっと、聞いてんの?!」
面白くもない諸々の出来事を思い出して、苛々してくる。
「――でもさ、それでもその人の事好きなんでしょ?」
「………え?」
弟の言葉に、リルは思考が止まった。
「姉ちゃんさ、その人の悪口言ってる癖に、目が優しいっつーか…“仕方ないなあ、こいつぅ。でも、そんなアナタも私は可愛くて好きだゾ☆”って顔してる」
くねくねとしなをつくりながら、わざとらしい裏声でふざける弟。いつものリルなら、止めなさい、と怒ってひっぱたいたかもしれない。でもリルは、固まったまま動かない。
「…姉ちゃん?」
さすがに、おかしいと思った弟がリルの顔色をうかがうと。
「――私、そんな顔してた?」
呆然としたまま固まっていた姉に驚きつつ、
「ああ。なんか恋する乙女って顔しちゃってさ。だから胸焼けしたんだよ、姉ちゃんの そんな顔初めて見たし」
と弟が返すと。リルは ぼうっとしたまま、
「そうなのかも。私…今、自分の気持ちを自覚したのかもしれない…面倒くさくて、口煩くて、人に手を焼かせてばかりで、すぐにキレるウザい人なんだけど…何故だか、憎めないのよ」
ぽつりと呟いた。
弟は驚きで噴出しそうになったミルクを なんとか飲み下す。
「はあ?付き合ってんじゃなかったのかよ?!ていうか、どういう人間なの その人?!」
「つ、付き合ってないわよ!昨日初めて そういう事言われて…」
「昨日って…んで、姉ちゃんの返事は?」
「……」
「なんでそこで黙るんだよ。したんだろ、返事。なんて言ったの?」
「…て…い」
「え?」
「してないって言ってんの!」
床を踏み鳴らしながら叫ぶ様に言うリル。弟は それを聞いて ずっと手にしたままだったミルクのグラスをドンッ、とテーブルに置いた。
「はあぁー?なんでしてないんだよ!?」
「吐きそうだったから!」
言い捨てる姉に、弟は呆れた顔をして、
「そりゃないって姉ちゃん。男は待つのが苦手だからさ。返事は早めにもらえないと。しかも返事してない理由が吐きそうだったなんて、幻滅だね」
「うるさいわね!こっちもこっちでギリギリだったのよ!」
ぷい、と顔をそらすリル。
「へえー…まあ、姉ちゃんの胃袋事情は置いといてさ、いつ返事すんの?姉ちゃんしばらく こっちにいるんだろ?」
「…返事は、あっちに帰ってから直接言おうかなって思ってるの…」
いつものリルらしくない もじもじした様子に、弟は生温い目を向ける。また胸焼けが再発しそうだ。
「んで、いつ帰んの?」
「うーん…一週間後かな」
「はあぁー?俺だったら告白の返事そんなに待てないし!」
信じらんない、と 頭をがしがしと掻く弟に、リルは少し不安になってきた。
「駄目かな?一週間って、返事するの遅い?」
「姉ちゃん、相手は 一週間ずっとモヤモヤしながら待ってんだよ?…俺だったらさ、一週間ほったらかしにされたら…んー、諦めるかな」
その言葉を聞いた時、リルの脳裏にケインの言葉がよぎった。
『――もういい。君のことを待っていたら、私は いつになったら婚姻を結べるのかわからない…不本意だが…諦めることにする』
もういい。…諦めることにする。サーッとリルの頭から血の気が引いていく。――それって、私に好きって言ってくれたのを、なかったことにするってこと?それどころか、彼はリルの返事を待っていないのかもしれない。もう他の人に目を向けて、自分への気持ちなんて捨ててしまっているかも…
リルは唇を噛みしめた。どうして あのとき、正直にケインに気持ちを伝えなかったのか。ああでも、あのとき自分はケインに惚れている自覚がなかったんだから、気持ちを伝えるなんて出来なかったか。
でもやっと、自分の気持ちに気づいたのに。恋心を自覚したばかりの自分には、ケインの全てを受け入れる度胸は、まだないかもしれない。でも、これからは ちゃんとケインのことを男性として見ていきたいし、自分もただの侍女ではなく、出来れば 彼の――彼の、恋人として共に過ごしていきたい。
――ケインと一緒にいたい。そう思った時、リルのとるべき行動はもう決まっていた。
「私すぐに帰って自分の気持ちぶつけてくる!もういいなんて言葉、撤回させてやるわ!」
「はっ?えっ、姉ちゃん?」
急にシャッキリとして、メラメラとやる気に燃え始めた姉に驚いた弟は、「ありがと!じゃあまた来るから!お腹大事にね!」と言って台風の様に駆け出す姉を ただ見送るしか出来なかった。
「俺、ただ待つのを諦めるって意味で言ったんだけど…」
手紙送るとかさ…と、ぽつりと呟いた弟の呟きは、突っ走る姉には一切届いていなかった。




