迷子の稲本
背中を向けて自分の席へと戻って行った沙都に声をかけそびれ、席についたまま、もう一度窓の外に目を向けた。
ホームルームが終われば、沙都に見学を申し出てみよう。
ザワザワと何人かのクラスメートたちが、教室に戻って来た。
笑い合ったり、寝むそうにアクビをしていたりと、三人しかいなかった教室内が急に騒がしくなった。
全員が自分たちの席についたと同時に担任の笹川先生が入って来た。
そして、教室を見渡すなり
「あれ? 稲本いないな。あいつ、確かに体育館には居たよな」
「帰ったんじゃないですか」
誰かが、面倒くさそうにそう答えた。
後ろを振り返ると、窓際の一番後ろの稲本の席には誰もいない。
稲本……もしかして、迷子になった?
迷ってキョロキョロしている稲本を思い浮かべ、怒って、おいて来たことを急に後悔し始めた。
「あいつ、部活あるしな……帰るってことはないと思うけどなぁ。おい、栗木、お前知らないか?」
「……」
教室中の視線が一斉にわたしに向けられた。
クラス全員、わたしが稲本のお世話係りと思っているらしい。
そんなつもりはないし、そこまで世話を焼いているつもりもない。
笹川先生さえ、わたしの返事に期待している。
「あ……あの、わたし、捜してきます」
そう言いながら席を立った。
「イヤ、そこまでしなくていいが……知らないなら、それでいいんだけど。まっ、栗木座れ」
「はい」
稲本が気になって仕方がなかったが、先生の言う通り、もう一度椅子に座り直した。
稲本……どこへ行ったんだろう。
怒ったわたしにショックを受けて帰ったのだろうか?
幾ら稲本でも、そこまで気は弱くないはず。
気になる。
教室の後の引き戸が思い切り開けられ
「遅れてすみません!」
そう言いながら稲本が教室の中に飛び込んできた。
「稲本……お前、もしかして迷子か?」
笹川先生の冗談に教室内が一斉に笑い出した。
走ってきたのか、肩でゼイゼイ息をしている。
「いえ……すみません。先輩に呼び止められて怒られてました」
「先輩? もしかして三年の長谷部か?」
「はぁ」
稲本がドアの前に立ったまま、頷いた。
「ったく。剣道部の恥をさらしたからな。長谷部、舞台裏で寝ているお前見て、ずっと笑ってたんだぞ。まあ、稲本は長谷部のお気に入りだからな。ほら、突っ立てないで早く席に付け」
顎で合図をした笹川先生は、剣道部の顧問だから、稲本とその長谷部先輩の関係をよく知っているようだった。
昔から、誰に対しても反抗心のない稲本は、目上の人や先輩によく可愛がられている。
そんな先輩に呼び止められ、叱られていたのなら、逃げ出すわけにも行かなかったのだろう。
席について大きなため息をついている稲本を自分の席から振り返って見ていると、フイに顔を上げた稲本と目が合った。
稲本は、視線を逸らすことなく、わたしをジッと見据えていた。
切れ長で大きな一重の目。
羨ましいくらいの黒目勝ちな目は、まるで一生懸命剣道の練習をしている時のように真剣だ。
急に怒って走り出したわたしのことを逆切れしたのだろうか?
おどけた風もなく、なにか言いたげな目をしている。
そんな稲本の視線からゆっくりと視線を逸らして、笹川先生の立つ教壇の方へと向き直った。