悲しい思い出
歴史的天体ショーを熱く語っていた天文学部のクラブ紹介が終わり、場内からパラパラと拍手が起き、舞台へと視線を移すと、熟睡モードの女子生徒に優しいまなざしを向ける男子生徒の横顔が眼に飛び込んできた。
茶色の髪に茶色かかった綺麗な瞳。
日に焼けた肌は色白の稲本とは対照的だ。
勝気そうな横顔と、優しいまなざしから目が離せなかった。
入学して二日。同じクラスの生徒だというのは分かるけど、名前が浮かばない。
『茶髪の子がいるな』くらいにしか気に止めていなかった。
となりの女子生徒の名前も分からない。
小柄な子という印象しかない。
二人は恋人同士だろうか?
その姿から、女子生徒はかなり相手の男子生徒に気を許しているように見える。
クラブ紹介四番手の女子バレー部たちの高らかな声が響く会場内。
トスのし合いでミスをするたび、会場内に笑い声が起きる。
その中で、わたしの視線はその二人に釘付けになっていた。
なんて言うんだろう?
その男子の彼女に向ける視線は、怒るでもなく、バカにするでもなく……
とても柔らかで、温かみのあるものだった。
彼女をいつも見守っている。そう言った感じだった。
それは、恋人とかに向けるものではなく、もっと超越したもののように思えた。
何年か前に自分に向けられていた温かな視線を急に思い出した。
四年前に亡くなった実父の視線。
無条件で向けられていた愛情溢れるその視線は、強くて、温かで、とても心地の良いものだった。
怖いものさえ知らずにいたあの頃。
いつも当り前のように傍にいた父が、ある日突然いなくなるなんて、想像すらしなかった。
小学校を卒業し、中学入学までの休日期間内のことだった。
父は、いつも通りのスーツ姿に、ロングのスプリングコートを羽織っての出勤。
背が高く、体格の良かった父にそれはとてもよく似合っていて、幼いわたしから見ても、自慢したいほど、カッコイイものだった。
その日はなぜか、仕立てたばかりの中学のセーラー服を着て、
「似合うでしょ?」
クルリと一回りして、玄関先にいる父に見せた。
「うん。うん。似合う。似合う」
顔に柔らかな皺を寄せて、二コリと笑った。
それが……父の最後の姿になるとは夢にも思わなかった。
停留所で通勤バスを待つ人の列に、軽トラックが突っ込んだのだ。
十人ほどの列の中に父がいた。
運転手は夜通し飲んでの泥酔状態。
ブレーキの後さえ残っていなかった。
父と二十代のOLと総合病院へ通院していた六十代の老女の三人が命を落とした。
一瞬の出来事だったと、目撃者たちは、その惨状を語っていたらしい。
父が運ばれた病院内。
慌ただしく病院関係者が走り回る。
泣き叫ぶ母の姿。
わたしは、泣くことも出来ず、周りの騒然とした光景にのまれそうになっていた。
ただ、救急治療室のゴミ箱に捨てられていた血まみれの父のロングコートだけをボンヤリと見ていた。
わたしのその時の記憶は今でも、それしか残されていない。
大好きで、カッコ良くて、自慢だった父を……わたしはある日突然失った。
その日から、何もかもが変わってしまい、母とわたしの生活が、父にどれほど守られていたのかと思い知らされた。
あの日から、母もわたしも、心の底から笑ったことなどなかった。
あの日から……四年経った今でも心の根っ子は冷たく氷つき、時間は止まったままだった。
体育館内に笑いの渦が起こった。
そのざわめきに弾かれたように現実に戻された。
コツン
コツン
ブレザーの右肩に稲本の黒い短髪が同じ拍子でぶつかる。
相変わらず無防備だ。
思い出した辛い過去がその寝顔に少しだけ癒された気がした。
そして、無意識に、何度もその茶髪の男子の柔らかな横顔に目を向けていた。
懐かしく感じた視線を何度も眼で追っていた。
何気ない自分の無意識な行動が、何を意味しているのか、この時点では気付くことさえなかった。