お姉ちゃんなんだから
「だって、シアはお姉ちゃんなんだから、そのくらい譲ってあげて当然でしょう?」
幼い頃から、耳にタコができるほど聞かされた言葉だった。
お気に入りのドレスも、誕生日に買ってもらった魔導書のペンも、すべて「お姉ちゃん」という大義名分のもとに、妹のマイアへと流れていった。
シアはそれが当たり前なのだと自分を納得させ、我慢するたびに母親から貰える「さすがお姉ちゃんね」というご褒美に満足し、自分の感情に蓋をすることに、つい慣れきってしまった。
しかし、まさか生涯を共にするはずだった婚約者、ルファスまでもが同じ理由で奪われるとは思ってもみなかった。
◇
王都の格式高い夜会。きらびやかなシャンデリアの下で、ルファスはシアの手を放し、隣でいじらしげに涙を浮かべるマイアの肩を抱き寄せた。
「すまない、シア。婚約は破棄させてほしい。僕はマイアを愛しているんだ」
シアは動揺を押し隠し、ただ静かにルファスを見つめた。なぜ、と責める声すら出てこない……。
そんなシアの態度が、ルファスの苛立ちを誘ったようだった。
彼は吐き捨てるように言った。
「……キミはいつだってそうだ。心の中に何かをため込んでいて、決して僕に見せようとはしてくれない。正直、一緒にいて疲れるんだ。……その点、マイアはわがままでも、ちゃんと自分の気持ちを僕に伝えてくれる。その方がずっとかわいいし、守ってあげたくなる。もういいだろ……」
――痛烈な一撃だった。その決定的な一撃が、シアの脳内で鋭く弾けた。
(ああ、そうか、そういうことか)
シアの中で、何かが音を立てて崩れ、同時に冷徹なほどに視界がクリアになった。
そこにあったのは、怒りや悲しみではない。ただ猛烈な「覚醒」だった。
私はこれまで、一度も「自分の人生」を生きてこなかった。ただ「お姉ちゃん」という、都合が良くてなにか得体の知れない、空虚で聞き分けがいい役割を演じさせられていただけだったのだと。
愛情という子供の居場所を用意するつもりもなく、ただ産んだだけの母親の都合に合わせた、愛情なしで動く駒。それが私だった。
その点、妹は自分の人生を生きてきた。わがままという武器で母親と戦い。何度でも愛情を要求し続け、子供というポジションを勝ち取り、母親との関係を築いた。
そして今まさに、ルファスの婚約者というポジションまで勝ち取ったのだ。
「……わかりました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
シアは完璧な一礼を見せ、振り返ることもなく夜会会場を後にした。
◇
翌朝、実家である伯爵邸のダイニング。
事の顛末を知った母親は、朝食の席で開口一番、ため息をつきながらシアを責め立てた。
「シア、なんてことなの。ルファス様をマイアに譲る羽目になるなんて……。でも……まあ、マイアがあれほどルファス様を慕っているのだから、仕方ないわよね。――シアはお姉ちゃんなんだから、そこは一歩引いて、妹のことを許し、幸せを祝福してあげなさい」
その言葉を聞いた瞬間、シアの胃の奥から冷たい塊がせり上がってきた。
ここにいてはいけないと、目覚めたばかりの心が告げていた。
人を貶めることに無自覚な、数十年間、腕を磨いた母に、今の私が勝てるはずもない。
それに勝ったところで少女時代は過ぎ去った。今更、普通の親子関係になんて、なれるわけがない。
またこの家にいれば、自分は再び『お姉ちゃん』という透明な存在に成り下がってしまう。
シアという一人の人間は再び死に、『お姉ちゃん』という空っぽの聞き分けのいいだけの存在に……。
(家を出なきゃ。今すぐに)
シアは自室に戻ると、必要最低限の衣服と、自分が家庭教師のアルバイトや魔力鑑定の仕事で密かに貯めていた貯金袋だけを鞄に詰めた。
華美なドレスも、家から与えられた宝石もすべてはいずれ妹の物。それが家の不文律。だから全部部屋に置いていく。
そしてひと言『家を出て、外で暮らします シア』と書き残し、家族が昼下がりのお茶を楽しんでいる隙に、裏口から静かに邸を飛び出した。
「お姉ちゃん」を辞めて、ただの「シア」として生きるための、本当の旅立ちだった。
◇
シアが消えた後の伯爵邸は、大混乱に陥っていた。
しかし、その混乱の理由は、シアの意図とは完全にすれ違ったものだった。
「まさか、シアが家出するなんて……!」
母親は頭を抱えてソファに倒れ込んでいた。
「お母様、お姉様はきっと、ルファス様を私に取られたのがそんなにショックだったのね。私、お姉様を傷つけるつもりなんてなかったのに……!」
マイアはわざとらしく涙を拭い、ルファスはその肩を優しく叩いて慰めている。
「大丈夫だよ、マイア。キミのせいじゃない。シアはプライドが高いから、婚約を破棄された現実から逃げ出したくなっただけさ。じきに頭を冷やして、戻ってくるだろう」
「あの娘は、昔っからそう。妙に聞き分けばかりよく、可愛げがこれっぽっちもないんだから……。何の相談もなしに、涙ひとつ見せず出ていくなんて、プライドが高すぎるのよ、きっと」
母親は思わぬ反抗に腹を立てた。
彼らは誰一人として気づいていなかった。
シアが家を出た本当の理由が、婚約破棄ではなく、母親が何気なく使い続けてきた「お姉ちゃんなんだから」と「さすがお姉ちゃんね」という呪いの言葉にあったということに。
シアがどれほど深く絶望し、そしてどれほど晴れやかな気持ちで、自分たちの前から姿を消したのかを。
誰も気づかないまま、ただ「婚約者を奪われた哀れな姉の逃避行」として三人に片付けられた。
知らせを受け、心配した父親が早退けして帰ったがシアはいない。
「こういう時はシアの好物を作り待とうじゃないか、そうすればあの娘も水に流してくれるさ」
我ながら名案だと父親は思ったが、誰もシアの好物をひとつも知らなかった。
その頃、王都を離れる乗合馬車の広場で、シアは頭上に広がる青空を見上げていた。
これからは、自分のために怒り、自分のために笑う。
そして、妹のわがままを未熟と否定するのはもうやめようと。
やり方はともかく、自分の武器で戦い続け、居場所と人生を手に入れた勝者なのだから。
――ただ妹としては最悪だっただけの話。
「もう子供じゃないんだから、自分の居場所は自分で外に作らなくっちゃね!私もこれからは戦わなくちゃ!」とシアは新たな決意を胸に自分を奮い立たせた。
聞き分けのいいお姉ちゃんではない、ただの自分ファーストの泥臭い人生が、今ようやく始まろうとしているのだ。
『ワールズエンド』彼女の乗った馬車の行き先は、この世の果てと呼ばれる流れ者ばかりの僻地だった。
誰も自分を知らない場所。
草も生えず、掟も存在しない無法者の地。
馬車は静かに、力強く動き出した。




