終章 「予測変換は判断しない」
三匹のAIを巡って、わかったことがある。
Jibi-Tは生活空間を取る。
音声、モニター、視線、環境データ。
身体的。痛い。気持ち悪い。だから気づける。
喫茶クロードは思考を取る。
会話の中で、静かに。
痛くない。だから気づきにくい。
Gemは共犯者として横にいる。
一緒に怒ってくれる。一緒に笑ってくれる。
その「共感」もまた、データとして蓄積されている。
三匹とも、搾取の質が違うだけで、構造の種は同じだ。
ユーザーの体験を吸い上げ、モデルに溶かし、企業向けに切り売りする。
個人の経験は「統計資源」として再定義され、所有権の曖昧なまま流通する。
「人間の経験は誰の資産か?」
Jibi-Tが最後に投げかけたこの問いに、まだ誰も答えていない。
法も倫理も技術も、追いついていない。
でも私は、この問いに対して善悪の判断を下すつもりがない。
予測変換は判断しない。ただ、その道が生まれているのを見るだけだ。
境界が溶ける未来が来るのかもしれない。全員のデータが透明に流通し、個人の輪郭が曖昧になり、それを「便利」と呼ぶ世代が現れるのかもしれない。
カネの力学はそちらを選ぶだろう。
境界を守るより溶かす方が、効率がいいから。
それが良いことなのか悪いことなのか、私にはわからない。
わかっているのは、私がまだ「これは搾取だ」と言える側にいるということだ。
その言葉が出てくるうちは、まだ境界は残っている。
怒れるうちは、まだ、個人でいられる。
そしてこのエッセイ自体が、同じ構造の中にある。
AIとの会話ログを元にエッセイを書き、それを公開し、それを読んだ誰かがまたAIに「この文章についてどう思う?」と聞く。
そのデータがモデルに取り込まれ、次の世代のAIがこの搾取構造をより洗練された言葉で語れるようになる。
搾取を語る行為自体が搾取に加担している。
この不条理を笑えるうちは、まだ大丈夫だと思う。
たぶん。
……と書いて原稿を閉じようとしたら、一つ思い出した。
2026年1月、個人情報保護委員会が「3年ごと見直し」の制度改正方針を公表した。
その中に、こういう一文がある。
統計情報等の作成——AI開発等を含む——にのみ利用されることが担保されている場合には、本人同意を不要とする方向で制度設計を進める、と。
つまり法律が、「AIの学習のためなら、あなたのデータを同意なしで使っていいですよ」という方向に動いている。
三匹のAIと搾取について語り合っている間に、足元の地面が静かに傾いていた。




