Track.10 wanderer
「……では、改めて経緯を説明いたします」
鍵の閉められた午後の理科室、グレイは口を開いた。
「最初の違和感は、理科室のごみ箱でした。中にね、割れた瓶が入っていたんですよ。もしこれが授業中に割れてしまったガラスの器具だとしたら、先生はもう少し丁寧に片づけるんじゃないか、と素人ながらに思いましてね。すると、考えつくのは、先生の知らない間に誰かが無断で捨ててしまった、という線です。……次に、準備室の棚に付着していたジャムです。もちろん、理科室にジャムなんて保管されているはずがありませんから、ジャムが棚の端に着いているのには違和感がある。でも、それだけではありません。実は、それを発見したとき、一匹の蟻が引き返していったんです。砂糖の匂いにつられてやってきたものの、近くのアルコール臭に耐えかねて諦めたのではないでしょうか。確かに、理科室や準備室では様々な薬品の容器が開封され、その度に匂いが漂うとは思いますが……もしかすると、あの夜眼鏡の先生が見たのはこぼして広がってしまったジャムで、誰かがアルコールを使ってそのこぼれたジャムを掃除したのではないでしょうか。……そして、あの偽装された壁ですね。鉄板の奥に一枚フェイクの壁を設置することで、あの扉を隠していたんですね。いやあ、壁の色の違いに気が付くのは大変でしたよ。何故そこを怪しんだかといえば、それはつまるところ間取りですね。理科室の端から端まで歩いた時より、距離が足らなかったんですよ。ちょうど歩幅一つと半分くらいですかね。それで、隠れた空間があるのではないかと考え、調べた結果、あの扉の発見に至った訳です。……これで、納得していただけましたか?」
グレイは紳士的な笑みを浮かべて、あくまで優しく問いかける。すると、正面に座っていた女性が小さく息をこぼした。
「……さすが探偵さん、とでもいうべきでしょうか」
「いやあ、とんでもない。これが仕事ですから」
「それで、私たちをどうする気ですか?」
女性がグレイをきっと睨みつける横で、汚い身なりのやせ細った男性は、落ち着かない様子で膝の間で両手をすり合わせていた。
「まあまあ。今回受けた依頼は、学校に侵入した疑いのある不審者についての調査なんですが……我々はあくまで探偵です。何が言いたいかというとですね、我々は問答無用で罪を裁くポリスではないんです。そちらさんにも、何か事情があるのでしょう? でしたら、まずはそれを聞かせていただけませんか」
「……わかりました」
事の真相は、こうだ。ある男性が、ゆく当てもなく彷徨っていた。にぎやかな表の街からは追いやられてしまい、既に居場所はなく、かといってミドルで生きてゆく力もない。そんな男性は、ある日偶然、一人の女性に出会った。女性は、男性の境遇に同情した。そして、ふと自身が教師として勤めているジュニアハイスクールのことが脳裏をよぎった。理科室の準備室には、理科の教科担当が私的に使用することができる、代々受け継がれてきた空間がある。そこに、彼を匿うことは出来ないだろうか――。
「確かに、スクールに人を匿うことは、別の視点から見れば不審者の侵入に当たるでしょう。あるいは、彼に分けていた食べ物には私がくすねてきたものも一部含まれていますから、それも悪事と指を刺されても、私は何も言い返せません。……ですが、必死に生きているこの命を見捨てることは、それは正しいことなのでしょうか」
「先生のおっしゃることは、まあ、わかりますよ。我々としても、出来るだけ穏便に済ませたいと思っています」
「では、このままというわけには……」
「しかしですね、先生。我々が見逃したとて、こうして一度ばれてしまった以上、次がないと証明することはできません。彼がここにいられなくなるのは、時間の問題ですよ。そういう未来を提示したうえで、改めてお伺いしますが……果たしてそれは、本当に彼のためですか?」
グレイは鼻の前で両手を組み、見つめ上げるように女性と目を合わせた。女性は眉をピクリと動かし、すぐに目線をそらした。それきり、だんまりだった。
低い響きの息が部屋の空気を震わせる。グレイは名刺を一枚取り出し、その裏に何かを書き込んだ。そして、それを始終黙っていた男性に差し出した。
「こんなくたびれたおじさんに言われても、あまり説得力はないかもしれないけどね。君はもっと、人生を自分で選んでみるべきだ。……まあ、それで再び行き着く先がここだったとしたら、もはや俺に止める権利はないな」
そう話している間も、男性はもじもじ両手を擦るばかりで、なかなか受け取ろうとしない。仕方がないので、グレイは彼の手を片方引き、その掌に名刺をそっと押し付けたのだった。
「じゃあ、そろそろお暇しようか。ああ、先方には上手く伝えておきますから、後はお二人が決めてください。……それじゃあ」
グレイはそう言って立ち上がると、「行こうか」と隣に座っていたリオードにも小さく声をかけた。「は、はいっ!」と勢いよく返事すると、リオードは歩幅の広いグレイについて行くように慌てて駆け出していった。
「んん~……! はあ~、一仕事おわったねえ」
少しだけ日が傾き出した中、グレイは大きく深呼吸をして、いつものように街中を歩いていた。先ほどは置いてけぼりだったリオードも、今はしっかりとグレイの隣に並んでいる。
「どうだった? リオード」
「え」
「最近はジムと一緒の事が多かったから、こういうのは久しぶりだったんじゃないかと思って」
「そう、ですね……」
リオードは気まずさげに一間おいて、話し出した。
「改めて、自分の実力不足を感じました。僕はグレイさんにヒントを貰って、なんとかあの隠し部屋を見つけることができましたけど……実際には、グレイさんは僕と同じ調査時間で、僕の数倍の情報を拾い集めて、より具体的な仮説を立てていたんですよね。もちろん、グレイさんやジムさんやデオさんが僕とは比べ物にならないくらいすごい人だっていうことは、頭ではわかってるんですけど……でも何だか、自分はすごくちっぽけで大したことのない存在に思えて、やっぱり今のままじゃ駄目だって思って……」
「それって、悔しかった、ってことかい?」
「悔しい、んでしょうか……」
リオードはそう口にしながら、ひどく不安げな表情をグレイに向けた。それは至極真っ当な、迷える子羊の顔だった。グレイは我が子を見守る父のようなあたたかな声で言った。
「反骨の精神を持つのは、とても大切なことだよ。それはこの街で生きるうえでもそうだが、人間としての成長においても同じことが言える。何かに抗おうとする気持ちは、時としてとんでもない力を生み出すからね。君も、きっと今に素晴らしい探偵になるに違いない」
「……はい。ありがとうございます」
グレイはリオードの身体にこそ触れはしなかったが、リオードはぬくもりの感触を知ったような気がした。それが少し気恥ずかしくて、俯いてばれないように唇をはんだ。
「それにしても、グレイさんが気障な台詞を言うと、何というか……どことなく胡散臭いですね」
「ははっ、言うじゃないか。ま、その調子だな」
会話の空気がいつもの温度に戻ったところで、リオードははっと思い出す。
「そう言えば、さっきはあんなふうに言ってましたけど……依頼主の方にはなんて説明するつもりなんですか?」
「まあ、この街の物差しで測るなら、あれはまだ犯罪と言えるレベルには達していないだろうし、無理に表にさらけ出して問題を提起する必要もないかと思ってね。『残念ながら、あれは本当にオカルトでした』みたいな。うん、そんな感じで報告しよう」
「ええ、そんな適当な……。仮にも僕らって『探偵』ですよね?」
「常に正しさが全人類を救ってくれるほど、この世界は甘く出来てないからね。大人のやり方として、こういうのも一つの手段ってわけさ。勉強になっただろ?」
「はあ、そういうものですか……。でも確かに、この街の治安の悪さなら、ああやって救われる命もあっていいのかもしれませんね」
「…………リオード」
「……? なんでしょう?」
「あー、念のため言っておくが……あの形はおすすめしないよ。その、やめたほうがいい」
「え、っと……?」
「あれは愛玩動物を見る目だった」