2-1 シエナの苦難
⚠︎︎この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
⚠︎︎2章は恋愛要素少なめです。
今日できるようになったこと。コンビニに行く。おにぎり(鮭)を買う。店員さんにお礼を言う――これはまあ小さすぎて聞こえてなかったかも。
メモ用紙に、定員さん云々のところだけばってんを付ける。要訓練が必要だという意味も込めて、ぐりぐりと念入りに。
人と接するための特訓にあまり進歩がないことは残念だが、そんなに焦ってはいない。なんせ、今は無職だし。
龍樹は呑気にぽりぽりと頭を掻いて欠伸をした。ぐぐっと腕を前に伸ばし、ペンを机に置く。ベッドの側面に背中を預けると、龍樹の重みにギシッと鳴った。
それからおもむろに床に手をつくと、そこにちょうどなにかが落ちていたらしく、手にあたってそれはコロコロと転がった。そのなにかは、ベッドの下へ入り込んでしまう。転がっていったものに対してまったく心当たりはなかったが、ベッドの下に物があるのも嫌なので仕方なしに下を覗き込んだ。
「よっ、と……」
『ああ、やっと来ましたね。焦れったくて石ころをそちらに送ったかいがありました』
「、っシエナさん!?」
この無機質な、感情のこもっていない声は、5日ほど前にお別れをしたリヴィアのメイド、シエナだった。リヴィアからの音沙汰がなかったから、もしかしたら話すことさえできなくなったのではと思っていたが、そんなこともなかったらしい。
『タッチャンさん、緊急事態です』
シエナが深刻そうに告げる。龍樹は何事かと、ごくりと喉を鳴らし、耳をそばだてる。
『リヴィア様が逆カルチャーショックで精神的に参っておられます』
「逆、カルチャーショック……。リビーさんは、今どうしてるんですか? 俺に、なにかできることは……」
といっても、こちら側から何かできることがあるかと問われると何もできないのだが。逆カルチャーショックだと聞いて思い浮かぶのは、やはり環境だろうか。日本はとても居心地がいいし、向こうがどうなのかは知らないが、リヴィアが言うには断然こっちの方が住み良いということだった。
『リヴィア様は今、かなりお忙しくて手が離せない状況にあります。そんな中での逆カルチャーショック。リヴィア様を見ているだけで、私の心が痛むほどです』
なるほど。シエナの心が痛むほどとは、本当にリヴィアは辛い状況にありそうだ。シエナが龍樹を頼ってきたということは、それだけ猫の手も借りたい状態なのだと思う。
『そこでタッチャンさんです。幸い、この時空の歪みは今かなり安定した状態にあります。リヴィア様と私が行き来して、広がってしまったとも言いますが、それが逆に良かったみたいです』
「……はぁ。それで、俺はどうすれば?」
『私がタッチャンさんに気づいてもらうために、石ころを送りつけましたよね。つまり、タッチャンさんもそちら側から物を送ることができるようになったということです』
そうか、そういうことになるのか。今までは声か、リヴィアやシエナのように特定の意思のある者しか通れなかったが、時空の歪みが広がったことにより意志の存在しない物までも通ることができるようになった、ということである。と、自分で納得させるように情報をまとめたが、事情も知らない第三者にこんなことを言っても理解されないだろうが。
龍樹はもう何度も非現実的なことがこの身に起こっているので、並大抵のことでは動じなくなっていた。
「つまり、こちら側から何かを送ってほしい、ということで合ってますか」
『話が早くて助かります。まずオニギリが欲しいとおっしゃっていました。ハクマイが食べられなくて、手の震えが止まらないという禁断症状まで発症してしまったので最優先事項です』
リヴィアがそこまで白米厨だったとは。白米が食べられなくて手が震えてくるという経験をしたことがなくて、実際どういうふうになっているのか気になってしまう。しかしそんなことも言ってられなそうなので、さっきコンビニで買ってきた鮭おにぎりをベッドの下に放り込んだ。
「中身にシャケが入っていますが、リビーさんは食べれていたので、心配せず渡してあげてください」
ちゃんと送れているか少し不安だったが、シエナのお礼の声が聞こえてきたので無事に送れたらしい。
『それから私も。なにかつまめるものありませんか。丸くて平たくて茶色い、バリバリできるものありましたよね。こちらの世界に戻る際に数枚ほど持って帰ったんですが、終わってしまいまして』
「ああ、煎餅か……どうりで数枚無くなっていると思った。煎餅、美味しかったですか、?」
『私が食べるためではなくて、そのセンベイとやらをサンプルとして持ち帰っただけです。仕方なくですので』
「さっき何かつまめるものっておっしゃいましたよね」
そんな会話をしたあと、1階のリビングから個包装の醤油せんべいを何個か持ってきて、仕方なしに放り入れる。
シエナはおにぎりの時より、こころなしか嬉しそうにお礼を言った。
『とりあえず今はこのくらいで大丈夫です。あとタッチャンさんに伝えたいことがひとつだけ。急いでいるので手短に話します』
「なんですか?」
『それが、まるで仕組まれているかのように、リヴィア様はこの5日間部屋に戻れないでいます。こっちに戻ってからなにかと忙しくしていらっしゃいますが、それがどうにも不自然なのですよ』
「不自然?」
龍樹が聞き返すと、先程より小さい声でひそひそ話をするかのように、シエナは続けて言った。
『リヴィア様をこの部屋から遠ざけているみたいに、別の場所で祈りをするよう変更されてしまったのです。どうやら城内に、リヴィア様が2日と半日ほど居なくなられた原因に勘づいている者がいるかもしれないと、リヴィア様と私は考えております』
たしかリヴィアは、国民の願いを叶えるために祈りを捧げているのだったか。その祈りを自分の部屋にも戻れないで、ずっと捧げているのかと考えると、龍樹は頭に血が上った。リヴィアにそのような過酷なことをやらせているのかと。
不愉快極まりない事実に、龍樹は眉根を寄せて憤った。
『もしかしたら、タッチャンさんをはじめとする、そちらの世界に危険が及ぶことがあるかもしれません』
「こっちの世界にも……」
たしかにもしこちらの世界のことに勘づいている第三者がいるとすると、リヴィアにそのような仕打ちをしている時点で悪意のある者に違いない。こちらにも被害が及ぶかもしれないと言われ、真っ先に母のことを思い出し、身震いした。
しかし、シエナに心配されるほどとは。それだけで龍樹が思っている以上に危険な状態なのだと思い知る。
『リヴィア様の身を案じる私にとって、タッチャンさんは今協力関係にあります。なので、なにか異常がありましたらすぐにご連絡ください』
「、分かりました」
用心するに越したことはない。シエナの心強い言葉に、龍樹はぐっと力を込めて頷いた。
『とにかく助かりました。ああ、また物を頼むのでなるべく部屋にいとくようにしといてください』
「それは分かりかねます」
龍樹が不満気に言葉を漏らすも、それでは、とシエナはさっさと立ち去ったようで、聞こえてはいなそうだった。
久しぶりの人との会話に思ったより力が入っていたみたいだ。シエナが居なくなったのを感じると、一気に脱力した。そしてその反動で、お腹の虫が大きく部屋に鳴り響く。
「またおにぎり買うミッションを受注してみるか……」
今度は梅にしようと、財布を片手に立ち上がった。
――
シエナはベッドの下から顔を出して立ち上がる。パンパンと足首まであるメイド服のスカートの埃を払い、おにぎりと煎餅を誰にも見えないようにエプロン下に隠した。
リヴィアの部屋の、廊下に繋がっているドアを少し開けて、きょろきょろと見渡す。誰もいないのを確認して、急いで部屋を出た。
「……ふぅ」
「やあやあ、願いの姫お付きのメイドじゃないか。主君の元を離れていいのかい?」
どこから現れたのか、男口調のローブを着た女がシエナの横に立っていた。シエナの肩を叩いてそのまま体重を乗せてくる。
シエナは肩にかかる重力を涼しい顔で受け止め、女を見ずに軽く頭を下げた。
「リヴィア様に仰せつかったもので。忘れ物を部屋まで取りに行っていただけでございます」
シエナの言葉に女はふーんと呟き、シエナの顔を覗く。シエナは女の赤い目から逸らすことなく、その場でじっとしていた。ふたりの間にピリッとした空気が漂う。
やがて女は興味をなくしたようにローブを翻して、シエナの横を通り過ぎて行った。女の姿が見えなくなるまで見届け、女が廊下の角を曲がったところでシエナはリヴィアの元へ急いで歩を進めた。
「……っち。魔教徒の蛇が。リヴィア様の周りをコソコソと嗅ぎ回っているようだな」
シエナはものすごいタイムロスに苛立ち、つい口調が荒くなる。
あの女は王宮魔導師のひとり。ルーシャという名である。魔法が発展したこの世界で、魔導師は魔法のスペシャリストといえる。生まれた時から魔法の才に恵まれ、高度な魔法を使いこなす極小数の貴重な人材。それらが集められた集団は、国家レベルの独自の権力を有している魔教団である。各国の中でも高い権力を有しているヴィリニア王国でさえ政治的介入ができない、無法地帯。
王宮魔導師ルーシャなどはその魔教団の教徒であり、ヴィリニア王国が魔教団から雇った者なのだ。
シエナは魔導師が嫌いだ。ルーシャのことはもっと嫌いだった。でかい顔で城を歩き回り、ことある事に突っかかってくる無礼者。だが、一介のメイドが逆らっていい相手ではない。王族であるリヴィア様やその兄上である王でさえ、王宮魔導師に下手な口出しはできないのだから。
「……今日はツイてない」
苛立ちを抑えるために、高速で煎餅の袋を開けて1口で口の中に放り込む。バリバリと口の中で咀嚼すると、醤油のしょっぱい味が口いっぱいに広がり、シエナの気を落ち着かせた。
「やはり、あちらの世界の食べ物も悪くはないですね」
いつもの無表情のシエナには珍しく口元が緩んでいて、ニヤついている。煎餅の力によりある程度落ち着きを取り戻したところで、リヴィアのいる部屋へと辿りついた。
リヴィアはまた、願い事を読みながら祈り続けているのだろう。シエナはその光景を、もう20年ほど傍で見続けている。外にも出られずに、ずっと同じ所に拘束されるリヴィア。その姿しか見てこなかったシエナは、6日前外にいるリヴィアを見て、柄にもなくはしゃいでいた。本人には言わないが、シエナだってリヴィアにはもっとのびのびして欲しいという気持ちはあるのだ。本人には、言わないが。
「リヴィア様、シエナです」
「お入りになって」
シエナが部屋へと入ると、リヴィアは机に向かって、背もたれに高さのある、長い椅子に腰掛けていた。自室にいたときの、薄手のドレスという楽な格好とは違い、あらゆる装飾が施されたなんとも着心地の悪そうなドレスを身にまとっている。
きらびやかなドレスに身を包み、ふかふかの椅子に座っている姿は王女そのものであるが、その顔には疲労の色が浮かんでいた。
「リヴィア様、タッチャンさんからの貢ぎ物です」
「タッ、チャン」
シエナは言ってから、しまったと思った。リヴィアは「タッチャン」という言葉に耳をぴくりと動かしたかと思うと、うゆりとした目でシエナを見つめてくる。
「――っう、うわぁぁぁん!! ダッヂャンに会いだいですわぁぁぁ……!」
持っていた紙を放り投げ、机に突っ伏して泣き出した。シエナは目を伏せて、リヴィアがタッチャンに思いを馳せ終わるのをただ待った。
この方のタッチャン依存は、オニギリよりも恐ろしい。シエナはそれを教訓にしたつもりだったのに、つい口が滑ってしまった。
リヴィアは「タッチャン」という単語を聞いただけであのようにヒステリック……感情が爆発するようになってしまった。あと「オニギリ」。
シエナはある程度リヴィアを騒がせたあと、エプロンの下からすっと鮭おにぎりを取り出した。
「う、ひっぐ、……うぅ……」
「リヴィア様。こちら、シャケオニギリでございます」
机に突っ伏していたリヴィアが、ばっと顔を上げる。シエナの手にある鮭おにぎりを見て、涙が止まった。
「それ、タッチャンから、ですのね」
「そうですリヴィア様。だからもう落ち着いてください。涙で味がわからなくては、もったいないですから」
リヴィアはシエナから鮭おにぎりを受け取ると、バリバリと包装を破る。それから三角のてっぺんにかぶりつくと、一気に真ん中の鮭まで食べきった。
「ああ、美味しい……。タッチャンの味ではないですけれど、久しぶりの白米は染み渡りますわ」
心做しか、リヴィアの目に明るさが戻った気がする。シエナはふぅと息をつき、リヴィアがこぼした海苔の破片を手で拾い上げていった。
「タッチャン、わたくし頑張っておりますわ。だからどうかもう少し待っていて……わたくしに元気を与えていて……」
つぅ……と涙がリヴィアの頬を伝う。シエナは近くでそれを聞きながら、なんとも言えない気分であった。リヴィアは婚約者がいるはずなのに、龍樹とどうなるつもりなのか。嫌な考えが頭をめぐり、シエナはそれを振り払うように頭を振る。
とにかく自分はメイドの仕事をこなすだけ。シエナはリヴィアから回収した包装のゴミをポケットにしまい込み、いつものように振る舞った。
――
ルーシャは長いローブを床につくのもお構いなしに、ベッドの下を覗き込む。
「――ああ、やはり。願いの姫の魔力は本当にすさまじいものだね」
ルーシャの赤い瞳が怪しく光る。口元に笑みを浮かべ、ベッドの下をまさぐる。
「マリル。行ってこれるかい?」
「うん。よゆー」
マリルとそう呼ばれてルーシャの後ろに立つのは、同じローブを身にまとったおさげの少女。マリルはひとつ頷くと、気だるげに足をベッドの下に突っ込んだ。
「ひとり、連れてくるんだ。異世界人を」
「いえっさー、ルーシャ」
ゆるく敬礼をした後、マリルはするりと時空の歪みに入っていった。
「ふ、ふふふ、あははは! これでぼくの研究がまた進む! ははは、あーっはっはっ! ――っう、げほ!」
ルーシャは興奮で喉の変なところに唾が入り込んでしまい、勢いよくむせた。
「げほっごほっ……、はー。頼んだよ、マリル」
そう言ってまた悪役ばりの3段笑いを披露する。それからルーシャはご機嫌でリヴィアの部屋を出て行った。
お読みいただき、ありがとうございました。