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1-3 願いの姫

 少年はベッドに手をつき、下を覗き込んでいる。少年はなにやら神妙な面持ちで、少女の話を聞いていた。


『わたくし、いやだ。いや、なんですの……』


 少女は今にも消え入りそうなか細い声で、そう呟き続けている。少年はそんな少女の声を聞きながら、目を伏せる。

 それからしばらく経ち、やがて少女が泣き疲れたのかベッドの下からの声が聞こえなくなると、少年はすっくと立ち上がった。ベッドから離れ、部屋から勢いよく飛び出す。

 ドタドタと階段を下る音を聞きながら、龍樹は部屋にひとり残された。過去の自分が何を目的に走り出したのか分からないが、特に追う気にもならなくて、ぼーっと立ち尽くす。

 いつこの夢が覚めるのか。ここが夢だと分かっているのに目覚め方が分からなかったので、とりあえずベッドの側にあぐらをかいた。

 しばらくして、またドタドタと今度は階段を上る音が聞こえたかと思うと、バンッと部屋のドアが開け放たれた。部屋に入ってきた少年の顔と手には少し泥がついていて汚い。泥ついた手に持たれていた数本の黄色い花は、2本ほど萎れてしまっている。

 龍樹はその黄色い花に見覚えがあった。たしか、通学路の土手らへんに咲いている、コスモスだったか。

 少年はコスモスを手にベッドに走り寄ると、大きな声で叫んだ。


「リビー、聞こえる? これ、リビーが好きだって言ってた花!」


 そう言ってコスモスをベッドの下に押し入れる。しかし、向こう側からの返事はない。いつもならすぐ少女の声が返ってくるはずなのに、ベッドの下は不気味なほど静かで、少年は違和感を覚える。


「……リビー?」


 再度、少年が呼びかける。ベッドの下に顔を覗かせ暗闇を見つめていると、突然ガッ、と頭を掴まれた感覚が少年と、それらを見ていた龍樹を襲う。


 ――さあ、忘れなさい。


 ハッとして目が覚める。龍樹は勢いよく布団から飛び起きた。上半身だけを起こして頭を揺する。龍樹は冷や汗をかいていた。どくどくと脈打つ心臓を、服の上から手で抑えるようにしてうずくまる。


「……タッチャン?」


 ただならぬ様子で起き上がる龍樹を、リヴィアは不安げにベッドの上から見ていた。


「どうかいたしましたの?」


「いや、……さっきまで何か、夢を見ていた気がする……んだけど……、?」


 小さい自分がベッドの側で何かをしている夢。目を覚ますまではっきりと見えていたはずの映像が、今は薄ぼんやりとしている。頭にモヤがかかったように、思い出そうとしても何も浮かんでこなくて、代わりにズキリと鈍い痛みが頭に走った。

 スマホの画面を指で叩き、ロック画面を開いて今が何時か確認する。深夜の4時前、デジタル時計特有の、3:46と表示されていた。

 まだまだ起きるには早い時間だったが、龍樹は完全に眠気が飛んていた。ふぅと一息つき、ぼすっと頭から布団に倒れ込む。おでこに手を置いて天井を見ていると、ベッドの上から声がかかった。


「タッチャン」


「どうしました」


 顔だけリヴィアの方へ向かせ返事をすると、リヴィアはベッドから顔を覗かせた。


「わたくしね、昔のようにタッチャンのお話を聞かせてほしいのですわ」


「……昔の、ように……」


 昔のようにと言われても、覚えてないのだからどのようにすればいいのか分からない。……覚えていない? いや、さっき確かに……、とここまで考えたところでまたズキリと頭が痛む。

 考えることを放棄して、どうしようもないように眉を下げてリヴィアを見つめた。リヴィアは困った顔をする龍樹に、意地悪でしたわねと呟いて苦笑する。


「ごめんなさい。ただ、タッチャンとお話がしたかっただけですの。……そうね、でもいきなり言われても思い浮かばないかしら。だからまず、わたくしがお話し致しますわ」


 リヴィアはゆるりと起き上がり、ベッドに腰掛ける。両足をバタバタと数回ばたつかせたあと、楽しそうに話し始めた。


「昨日、いやもう一昨日かしら。わたくしがタッチャンに自己紹介したのを覚えていらっしゃる? その際わたくしは国で、()()()()と呼ばれているとタッチャンには説明致しましたわ」


 たしかに覚えている。一国の王女に相応しい、なんとも美しいお辞儀だった。それからリヴィアは自分のことをヴィリニア王国の王女だと言い、願いの姫とも呼ばれていると言っていた。その時は名前を覚えるのに必死であまり気にしていなかったが、願いの姫とはどういう意味なのだろうか。


「わたくしは生まれた当初、王宮魔導師からこう言われたそうですわ。"この姫は()()の力を持っている。この姫が願えばなんでも叶うのだ"と」


 リヴィアが願えばなんでも叶う? そんな力、ほんとに存在しているのか。龍樹はにわかには信じられないと、半ば半信半疑になりながらもリヴィアの話を聞く。


「そのような唯一無二の力を持っていたものだから、それはもう大事に育てられましたの。ふふっ、少し過保護すぎて今まで、お城の外に一度も出たことがないくらいには」


「お城の外に出たことがない……今まで!?」


 リヴィアの言葉を反芻し、龍樹はつい声を大きくして驚いた。その様子をくすくすと笑いながらリヴィアは龍樹を見つめ、話を続ける。


「ええ、ですから昨日はタッチャンとお外に初めて出ることができて、新鮮でとても楽しかったですわ。と、それはまた別の機会に。とにかく、わたくしはお城の中でずっと暮らしておりましたの。お城では淑女のための教育のほかに、わたくしにしかできない大切な仕事を賜っていましたわ」


 リヴィアは両手を祈るように組んで、目を閉じる。


「ヴィリニア王国、全国民の願い事を聞き入れ、ただひたすらに願うこと」


「――……」


「ですがわたくしが願えばなんでも叶う、と言われているけれど、全てが叶うわけではないのですわ。叶う条件はわたくしにもあまり分かっていなくて。でも唯一分かっていることは、わたくしが叶えられなければ願いを寄せた人々が悲しむということだけ」


 ……ああ、分かった気がする。リヴィアが昨日のシエナの「リヴィア様が消えたら国民は……」という言葉に、喉を鳴らして唾を飲み込んだ意味。そのあと暗い表情になった理由も。

 リヴィアは、国民の願いという重荷を一身に背負っていたのだ。叶えれば喜ばれ、叶えられなければ悲しまれる。そんな身勝手な期待を、生まれた頃から寄せられ、城に拘束される。あまりにも不自由なリヴィアの身の上に、龍樹は悔しさで唇を噛んだ。

 歯でギリギリと唇を噛む龍樹に、リヴィアはそっと指を龍樹の唇に添えた。龍樹はリヴィアが触れてきたことに驚き、噛んでいた歯を引っ込める。


「でもわたくしはね、それで良いと思っておりますのよ。小さい頃は理不尽さに泣いていたときもあったけれどね。そのときはタッチャンが励ましてくれましたの。その励ましの言葉が、今でもわたくしの胸に残り続けているものだから、わたくしはもうそんなに気にしてはいませんのよ?」


「……俺が?」


 今もリヴィアの心に残り続けている言葉。そのようなこと龍樹に覚えているはずもなくて、でも当時のリヴィアには救われたことだったらしい。なんとなく、過去の自分であるはずなのに、嫉妬心が芽生えた。

 龍樹の心情に気づかないまま、リヴィアは龍樹の唇から指を離し、人差し指を上に立てて話を続ける。


「タッチャンが勘違いしているかもしれないですから言いますけど、わたくしがシエナのあの"リヴィア様が消えたら……"のあとの言葉を気にしているのは、国民の願いを叶えられないからではなく、……もっと個人的なことですわ」


 個人的なことだとそう言って龍樹を見るリヴィアの目は、複雑そうな色を浮かばせていた。その個人的なことは龍樹に言う気がないらしく、それはなんだと気にはなったが、リヴィアがすぐに口を開いたので、聞きかけていた言葉をしまい込む。


「でも、タッチャンからのお返事をもらうまで、諦めるわけにはいきませんの。わたくしは欲張りなのですわ。だから待っていてくださいまし、タッチャン」


 待っていてと言うリヴィアの声は、優しいながらもどこか切実な色も混じっていた。


 そして話を聞く中で龍樹は、そういえばリヴィアへの返事をまだしていなかったということに気がついた。言おうとしていたところでシエナに遮られ、それからはタイミングが見当たらずにここまできてしまった。

 でも、またいつ言おうかと、今がチャンスか、いや……と考えあぐねていると、リヴィアは龍樹の耳元に近づいて、ひそひそ話をするかのように口に手を当てた。


「次は消えたりしないでくださいね」


 とても小さな声で、少し不安げに告げるリヴィアに、龍樹はズキリと胸が痛む。まだあのときの返事もしていないし、消えるわけないのだが。でもリヴィアと接していると、なぜ自分は小さい頃突然リヴィアから離れたのか、甚だ疑問である。このように親しげに話せる人など子供の頃からただひとりさえ居なかったのに、なぜリヴィアを手放したのだろうか。理由さえ覚えてなくて歯がゆかった。


「わたくしのお話はおしまいですわ。さあ、次はタッチャンの番です!」


 ぱっ、とリヴィアは切り替えるように声を上げ、龍樹に向かって指さした。唐突に話が切り替わるし、しかもこっちに話を振られるとは思わなくて、んんっ、と変な声が漏れる。


「話って言っても、何を話せばいいのか……」


 上半身を起こしながら考える。が、悲しいかな何も思いつかない。自分のレパートリーの無さと、脳みその小ささを恨んでいると、リヴィアが助け舟を出した。


「今すぐ思いつかないのなら、わたくし、タッチャンに聞きたいことがありますの!」


 はいはい、と元気よく手を挙げるリヴィア。その姿に学校の生徒のようだと、思わず吹き出す。


「聞きたいことって、なんですか?」


「はい! 行ってきますにはいってらっしゃいを返しますでしょう? 昨日、タッチャンのお母様に言いましたものね。あれはとても気持ちが良かったですわ」


 思い出しているのか、リヴィアが楽しそうに笑う。それから首をかしげて龍樹を見た。


「ではその反対で、お帰りなさいにはなんて返すのが気持ちが良いのかしら。こちらの世界ではなんておっしゃるの?」


 ああ、たしかにまだそれはリビーさんの前で言ったことはなかったか。

 しかし意外な角度からの質問に、龍樹は軽く驚きながらも、分かりやすいようにはっきり答えた。


「ただいま、って言うんですよ」


「ただいま?」


 リヴィアが龍樹の言葉をそのまま言ってきて、その可愛さに龍樹は頬が緩むのを感じた。


「実は行ってきますは、"行きますが必ず帰ってきます"の略した言い方、なんです。それと同じで、ただいまは省略された言い方で、本当は、"ただいま帰りました"と言うんです」


 昔、省略された日本語としてテレビで紹介されたのを、頭で思い出しながらリヴィアに語る。知っていて良かった。でも、この説明でちゃんと伝わったか不安で、ちらとリヴィアを見る。


「でもただいまだけで伝わるので、それで十分」


 最後にそう付け加えると、リヴィアは顎に手を当てて、唸るように納得の声を出した。


「なるほど……わたくしも、いつか言ってみたいですわ」


 良かった。ちゃんと伝わったみたいだ。

 龍樹はほっと胸を撫で下ろし、安心したようにリヴィアに微笑んだ。


「きっとこれから沢山、言う機会はありますよ。リビーさんの目で、外の世界全てを見て回るんだから」


「……そうでしたわね」


 目を見合わせ、ふたりして笑う。龍樹は近いうちに、リヴィアにおかえりと言ってみたいと未来に思いを馳せた。

 そうこう話しているうちに、窓からは朝日が覗かせていた。


――


 龍樹はハンカチを手に、リビングにいるであろうシエナの元に向かっていた。


 朝の6時頃、もう一度寝てしまったリヴィアを部屋に残し、朝食の準備をしようと台所に向かった。その時、台所はリビングと繋がっていてリビングの全体がよく見渡せるので、ソファに眠っているシエナを目視したのだ。

 昨日の夜に、シエナに母のベッドを使うよう言ったはずなのに、なぜソファに寝転がっているのかは分からなかったが。

 だがちょうどいい。龍樹は台所からいそいそと退出して、ハンカチを取りに戻った。


 リビングに入るとシエナはいつの間にか起き上がっていて、ソファに腰掛けていた。


「シエナ、さん。……ハンカチ、貸していただきありがとうございました。あと、昨日はすみません……手、は、大丈夫ですか?」


 ハンカチを差し出しながら、シエナの手を見つめる。昨日の夕方、シエナの手を振り払ったときのことを謝った。

 しかし、シエナはなんのことだか分からない様子で首をかしげている。


「手、のことがなんのことか分かりませんが、ハンカチはありがとうございます。洗濯までしてくださって」


 シエナは龍樹からハンカチを受け取ると、メイド服のエプロンのポケットに仕舞った。それを見届けて、龍樹はじゃあと手を振り台所へ向かおうと、シエナから目を背ける。


「リヴィア様は、婚約されている男性がおります」


「こ、んや、く?」


 シエナの口から突然の告白に、龍樹は思わずオウム返しする。婚約、という言葉に一瞬頭がズキリと痛んだ。しかし、龍樹が痛みに顔を歪ませた頃にはもう治まっていた。


「国王様をはじめとする、ヴィリニア王国全土が祝福しているのです」


 それなのに……と小さく呟くと、シエナはそれ以上口を開かなかった。龍樹はシエナを見ずに、そっぽを向いて考え込んだ。

 龍樹は、リヴィアに婚約者がいると考えにも及ばなかった。リヴィアは龍樹と共にいるとずっと言ってきていたし、他に将来を約束した相手がいるだなんて微塵も感じさせなかったから。

 でもじゃあ、なぜリヴィアは龍樹と一緒にいたいと言い出したのか。婚約者がいてなぜ……と龍樹が考えを巡らせたところで、リヴィアの意図なんて想像もつかない。ひとりで考えるのはよそうと頭を振って、脳みそをリセットする。

 とそこで、龍樹とシエナの間に気まずい沈黙が流れていることに気づいた。ごそりと龍樹は身動ぎする。頭をぽりぽり掻いて過ごすが、それもすぐ済んでしまう。

 とうとうこの空気に耐えかねたので、次こそは台所へ向かおうと足を出す。

 が、龍樹が歩を進めることはなかった。


「リヴィア様は、タッチャンさんがいないと意味がないのだとおっしゃいました」


 またシエナが唐突に話し出したのだ。シエナの独特なテンポに慣れてきて、龍樹はシエナに背を向けながらやれやれと話を聞く。


「だから私は、タッチャンさんもヴィリニア王国に連れて行こうと提案したのです」


「……は」


 何を言っているのかと、龍樹は半歩前に出していた足を引き戻し、思わずシエナへと振り返った。


「とても名案だと思ったのです。リヴィア様の希望は叶えられますし、ヴィリニア王国としてはリヴィア様がお戻りになって万々歳です」


 俺に人権はなさそうだ。


「でもリヴィア様は私に同意するのではなく、逆に何やら別の決意を固められてしまった様子でして」


 リヴィアがなんの決意を固めたのか、シエナに分からないなら龍樹にも分からないだろう。なぜ、この話をしてきてるのか疑問に思っていると、シエナはずずいと龍樹を指さして言い放った。


「リヴィア様には婚約者様がいらっしゃいます。そのことを、ゆめゆめお忘れなきよう」


 シエナの指摘に、龍樹は声が詰まる。龍樹の気持ちがシエナに見透かされていると感じるほど、シエナの言葉は今の龍樹に刺さった。

 龍樹が俯いてどうしようかと逡巡していると、シエナがぱんと手を叩いた。


「ああ、リヴィア様が起床なされたのでお世話して参ります」


 それだけ言うと、しゅばっという効果音とともに、シエナは残像が見えるくらいに素早くリビングを出て行った。またもやシエナが自ら消えたことにほっと息をついて、胸を撫で下ろす。


「……婚約者、か……」


 龍樹は小さく呟いて、またズキズキと痛みだした頭を抱えながら、やっと台所へと向かった。


――


 シエナとの約束の時間。お昼を食べた2時間後に、龍樹の部屋にて3人が集まっていた。


「お考えはまとまりになられましたか?」


「ええ」


 リヴィアがこちらに残るのか、向こうに帰るのか。龍樹もリヴィアの考えは聞いていない。どうするのかとリヴィアを見ると、リヴィアはとても真っ直ぐな目をしていて、もう迷っていない様子だった。


「わたくしは、向こうの世界に帰りますわ」


「っ、……」


 龍樹は、リヴィアの言葉に動揺した。

 いや、リヴィアがどちらを選んでも自分は納得しようと思っていたのに、リヴィアが向こうへ帰ると本人の口から聞いた瞬間、引き留めようと考えた自分に動揺した。思わずリヴィアの腕を掴もうとしていた手を、ぐっと抑える。

 リヴィアはいつの間にか、来たときと同じ薄手のドレスに着替えていて、いつでも帰れる準備が整っていた。


「タッチャン、3日間という短い間でしたが、お世話になりましたわ。お母様にもよろしくお伝えくださいまし」


 早い。早すぎて、龍樹は心の準備ができていない。

 龍樹とリヴィアを繋ぐこの時空の歪みは、リヴィアならいつでも行き来できるものだとは聞いていて、でもリヴィアはもう戻ってこないのではないかと感じる。行き来できるのだから、一生の別れなわけじゃない。そう頭では分かっているのだが、龍樹の本能が全身で告げていた。

 リヴィアとはもう会えない、と。

 そう。リヴィアは婚約者が向こうにいる。いつかその相手と結婚するだろうし、子供も。そうすればきっと、リヴィアは龍樹のことなど忘れてしまうだろう。

 こんなことなら、早くリビーさんに返事をしていれば良かった。一生一緒にいたいと。いや違う。リビーさんにはそう答える気なんてなかった。自分は意気地無しだから、リビーさんの期待した返事はしてあげられなかった。でも、婚約者がいると分かっていたら……。

 そんな後悔やら自己嫌悪やらが一気に押し寄せ、龍樹の難しいことを考えられない脳を刺激する。ぐるぐると色んな考えが頭をよぎる。龍樹は目眩がして、リヴィアの顔を見られなかった。


「ではわたくしは向こうの世界に戻りますけれど、お元気でタッチャン」


「――っは、い。リビーさんも、お元気で。……さようなら」


 龍樹は最後のお別れの言葉を、苦し紛れに口からひねり出す。

 今ではすっかりリヴィアの顔を見ながら話せるようになったのに、こんな時に下を向いていたら意味がない。そう分かってはいても、リヴィアの顔は見られない。

 引き留めたい。リヴィアの目を見て、あのときの返事だけでもしたい。でもできない。

 人からどう思われているのか、人一倍気にしてしまう龍樹の性格では、リヴィアにさえ遠慮が勝ってしまうのだ。人の気持ちを無駄なくらいに汲み取って、ひとりで傷ついて、自分の殻に閉じこもる。龍樹は今回もまた、人の目を気にして結局その場から動けなくなってしまうのかと、心の中で己に対して嘲笑した。

 リヴィアがいなくなったら何をやろう。まだ療養期間だろうし、資格の勉強でもしてようか。人とコミュニケーションをとるときの心構えなんかも勉強したりしちゃって。

 半ば現実逃避のように、目の前の悩み事から目を逸らした。視界の隅で、リヴィアがベッドの側でしゃがんでいるのをとらえながら。


「あ、そうだわ! タッチャン!」


「はい?」


 リヴィアがベッドの下へ足を突っ込んだ状態のまま、呼び止められる。もうそのまま帰っていくものだと思っていたから、呼ばれるとは思わず素っ頓狂な声が出た。

 龍樹の声に、リヴィアは可笑しそうに口に手を当てて笑う。それから龍樹の方へ向き直ると、胸元でひらりと手を振った。


「ふふっ……。お返事、絶対聞かせてくださいませ。では、"行ってきます"」


 リヴィアの言葉に、龍樹はすとんと心が落ち着いた。

 そうだ。何をそんなに不安がっていたのだ。リヴィアは言っていたではないか。待っていてと。消えないでいて、と。それなのに自分は、リヴィアの言葉を聞かないで、()()このベッドの下から消えていくところだった。

 今までこらえていたもの――涙を、改めてぐっとこらえる。自分のどろどろとした醜い感情を振り払う勢いで、龍樹は頭上に手を振りあげた。


「っ、いってらっしゃい、リビーさん」


 龍樹が今までで一番の声を上げると、リヴィアは今までで一番の笑顔を見せて頷いた。


 ――行ってきますは、"行きますが必ず帰ってきます"の略した言い方、なんです。

反省点は多々ありますが、とりあえず1章は終わりです。お読みいただき、ありがとうございました。

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