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1-2 お話を聞かせて

⚠︎︎この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 少年はベッドの側に駆け寄ると、床に手をつきしゃがみ込む。低いベッドの下、狭く薄暗い隙間に向けて呼びかけた。


「リビー、来たよ」


 少年が楽しそうにベッドの側面をコンコンとノックすると、間もなくして向こう側から声が聞こえてくる。


『待ってましたわタッチャン! そちら側の世界の話、今日も聞かせてくださるかしら?』


 少女の声がベッドの下から響いている。不思議な光景のはずなのに、少年はそれを平然と受け入れていた。少年はうん、と頷いて話し始める。


「今日は学校での話。クラスで飼ってた金魚が死んじゃって、みんなすごく悲しんでた。飼育係のぼくはもっと悲しかったよ。それからね、ぼくが代表で金魚を土に埋めてたら、みんなの声が聞こえてきたんだ。"たっちゃんがしっかり飼育してなかったから死んじゃったんだ。あいつが悪いんだ"って。ちゃんと毎日餌をあげてたし、大事にお世話してたんだけどなー」


 少年はそこまで一気に話し終えると、おもむろに天井を見上げた。少年の話をベッドの向こう側から静かに聞いていた少女は、少年がもう話さないことを悟って閉じていた口を開いた。


『大事に飼っていたペットが亡くなって悲しいのはみんな一緒ですのね。でも、その金魚様は天寿をまっとうされたのですわ。金魚様はタッチャンに大事に飼われて幸せだったはず。その思い出だけはタッチャンと金魚様しか持っていないものなのだから、タッチャンはそれを大切にしていれば良いと思いますわ』


 少女の優しい声に、少年は聞きながら涙をこらえるのに必死だった。上を見上げ、涙がこぼれ落ちないように。


「……うん」


 目尻に溜まった涙をそのままに、少年は小さく頷いた。


「ありがとう、リビー。次はリビーの話を聞かせてほしいな」


 涙声なのを誤魔化すように明るく話す。少年の言葉に少女の嬉しそうな笑い声が響く。


『ええもちろん。今日は何を話そうかしら――』


 少女は悩みながらもその声は楽しそうだ。話し始める少女の声に耳を傾け、少年はとても幸せそうに目を閉じている。時に笑い、時に怒り、時に悲しんだ。様々な表情を見せる少年を、龍樹は不思議そうに眺めていた。


「俺ってあんな顔できるんだ」


 龍樹が呟くと、視界が途端にぼやける。どこか宙に浮いているみたいにふわふわとしていた己の意識が、ガタンッという音に合わせて覚醒した。

 なんの音かと寝ぼけ顔で起き上がると、ぼやける視界の隅でリヴィアが窓を開けている姿を見た。サー、と少し冷たい空気が龍樹の布団の中にまで入り込み、寝起きの身体を冷やす。ぶるっと身体を震わせて、龍樹は完全に目が覚めた頭でリヴィアを見つめた。

 リヴィアはじっと窓の外を見ている。住宅街という珍しい光景に感動しているのか、はたまた故郷に思いを馳せているのかは分からなかったが、リヴィアのブロンズ色の髪が朝日に照らされ輝いていて、龍樹はそのとても美しい光景に思わず見とれてしまった。

 先程までなんの夢を見ていたのか、龍樹はこの頃にはあまり覚えていなかった。


――


 朝、母が用意した朝食をふたりで食べながら今日の予定を考える。リヴィアがこちらに来て2日目。もし一生こちらにいるつもりなら、色々と申請だったりなんだりをしなくてはならない。やらなきゃいけないことをスマホで調べながら、ご飯を口に運ぶ。幸い、ベッドの下はいつでも行き来できるらしく、都合が悪くなったら一時向こうに帰ってもらうのもできることにほっとする。

 外国人が長期滞在する場合には住民登録が必要で、保険とかにも入った方が良くて、というかそもそもリビーさんは外国人枠なのか? とぐるぐる考えを巡らせながらスマホの画面をスクロールする。スマホに釘付けとなってしまった龍樹を、リヴィアはそわそわと落ちつかなげに見つめていた。

 それから10分間くらいその空間が続き、龍樹がある程度疑問を解消してやっとスマホから目を離すと、バチッとリヴィアと目が合った。思わず龍樹は目を逸らすが、リヴィアの何やら言いたげな様子を思い出し、首をかしげる。


「なにか、言いたいことでもありますか?」


 そろっと龍樹が尋ねると、リヴィアはぱぁ、と明らか嬉しそうな顔をして頷いた。


「ええ! わたくし実は、お外に出てみたいのです」


「そ、と……ですか」


「タッチャンが住んできた街、人々、タッチャンのお話でしか感じられなかった風景がいま目の前に広がっているんですもの。ぜひ、この目で全てを見て回りたいですわぁー!」


 興奮したように話すリヴィアは、一気にまくし立てて言い切った。そんなリヴィアを他所に、龍樹はぞくりと背筋を凍らせる。外、人、人の視線、話し声、それらを想像して腹からせり上がってくる何かをぐっと抑えた。龍樹は青い顔をして俯く。

 そんな龍樹の様子に気づいて、リヴィアは慌てて手を振った。


「今すぐに、と言っている訳ではありませんことよ。将来的にという意味で。それよりもわたくしはまず、タッチャンがいつも言っていたあそこに行ってみたいのですわ」


「俺が、いつも言っていた?」


 リヴィアの言葉に落ち着きを取り戻し、ふぅと息をついて椅子に座りなおす。龍樹は、自分がいつも言っていた場所がどこか検討もつかなくて、リヴィアに詳細を促した。


「小さい頃、タッチャンはあの場所がいちばんのお気に入りだと仰っていましたわ。人通りが少なくて静か、緑豊かな場所で木々に囲まれたそこは世界と隔離されているみたいで、とても居心地が良いと。名前はたしか――」


 ここまで聞いたところで龍樹は、あぁと手を叩いた。たしかにあの場所は、小学生の頃からひとりになりたいとき、いつも行っていた所である。名前は、


「「緑ノ水公園(リョクノミズコウエン)」」


 ふたりしてその場所の名前を言う。見事ハモったことに面白おかしくて、思わずクスッと吹き出した。ふたりで同じようにクスクスと笑い合い、一通り笑いを噛み締めたところで、龍樹は箸を置いて頷く。


「うん、今日はそこへ行こう。緑ノ水公園に」


 役所へ行って諸々の申請をしようと考えていたが、それも別に急ぐほどのことでもない。リヴィアが行きたいと言ってくれたし、龍樹も気分転換に良さそうだと考えたため、今日の目的地を緑ノ水公園に変更した。ああでも、昨日ここへ来たドレスの格好のままでは、日本だととても目立ってしまう。母から服を借りようと、龍樹はひとり頷いた。


――


 歩きながらの移動中。龍樹は少し下を向きながらも、龍樹の隣を歩いているリヴィアに、道行く人の視線が集まっていることに気配で気づいていた。居心地悪く、足はやに歩を進める。

 まばらに通り過ぎる人々がリヴィアを見て足を一瞬止めるのも無理はなかった。とんでもない外国人美女が、母親が着るようなお淑やかなワンピースを着ているのだから。

 母が龍樹の参観日やらお祝い事やらの時に着ていた、膝下まで丈がある紺色のワンピース。リヴィアはドレスを着ていたし、ズボンよりスカートの方が良いかとその服を引っ張ってきた。母が着るとどうしても親と子であると認識せざるを得ない格好のはずが、リヴィアが着た瞬間その服はリヴィアのために作られたものなのではないかと錯覚してしまうほど似合っていた。もともとリヴィアは王国の王女だと言っていたし、洋装のワンピースが似合うことは必然なのかもとも思うが。

 良かれと思って持ってきた服が、リヴィアをこんなにも目立たせてしまうとは考えにも及ばなかった。少し前の自分の服選びに後悔した。

 さっさと前を歩く龍樹に、踵のある靴を履いていたリヴィアは必死に後をついていく。でも、だんだんと距離が離されていき、リヴィアはとうとう龍樹へと手を伸ばして呼びかけた。


「タッチャン、少しお早いですわ。ちょっとお待ちにっ――」


 龍樹ははっとしてリヴィアの声に振り向くと、リヴィアはこちらに手を伸ばしながら今にも転びそうだった。龍樹は慌てて、伸ばされたリヴィアの手を掴んで体を支える。危機一髪、リヴィアはすっぽりと龍樹の胸元に収まった。龍樹はリヴィアが転ばなかったことにほっと息をつき、歩くのが早かったことを謝ろうと視線を向ける。一方リヴィアは、目を見開いてじっと龍樹の胸元を見ていた。

 リヴィアとの近距離に気づき、龍樹はリヴィアを掴んでいた手を離して勢いよく目を伏せた。やばい、いま絶対赤くなってる、と龍樹は恥ずかしくて口元を手の甲で隠す。リヴィアは先程まで龍樹と繋がれていた右手を見つめながら軽く握りしめ、龍樹と距離をとって頭を下げた。


「タッチャンごめんなさい。わたくし、淑女としてはしたない真似をしてしまって。お恥ずかしいですわ」


「いや、俺が歩くのが早かったせいです。すみません」


 続けて龍樹も頭を下げる。ふたりして深々と頭を下げている光景は、はたから見たらなかなかに面白いものである。しかし幸いにも平日のこの時間帯――だいたい午前10時前後では人もそんなに居ない。今のこのふたりの掛け合いをみている人はちょうど居なかった。

 気を取り直して龍樹は進行方向へと振り向いた。リヴィアが龍樹の隣にちょこちょこと走り寄ったのを見て、龍樹はふっと目を細める。


「ゆっくり、行きましょうか」


「そうしましょう。……ふふっ、ありがとうございます」


 龍樹はもう、あまり人の目を気にしないことにした。気にしない、というよりリヴィアとの会話に夢中で気にできなかったという方が正しいだろうが。

 ふたりは他愛もない話、たとえば白米が美味しい話、こちら世界の洋服の着心地が良い話、水道や電気などあらゆるものが便利である話などをして時々笑い合った。途中でリヴィアが靴擦れを起こしてしまったので持っていた絆創膏を貼ってあげたり、所々にあるベンチに座って休憩していったりと、時間も気にせずゆっくり歩いていく。

 そんなこんなで緑ノ水公園へとたどり着いたのは、時計の針がちょうど12を差した頃だった。


「リビーさん、ここが緑ノ水公園です。俺の、いちばんのお気に入りの場所」


 龍樹が公園を指し示すと、リヴィアはタタッと駆け出し、公園の真ん中で両手をいっぱいに広げた。木々を見上げ、目を閉じる。それから鼻で一気に空気を吸い込んで笑った。


「タッチャンのお話通りですわね。木々のざわめき、子鳥のさえずり。空気も澄んでいて……とても素敵な場所」


 一足先にリヴィアが公園の空気を感じているのを見つめながら、龍樹はその場所の懐かしさに珍しく心が昂っていた。子供の頃はよく来ていた場所。記憶をたどって子供心を思い出す。昔はよくひとりで、時間も忘れて、この空気に酔いしれていたものだ。

 今はその場所にリヴィアも一緒にいる。自分の好きな場所。自分だけの特別な場所に人と来て、一緒に共有しているだなんて、子供の頃は思いもしなかったろうなと苦笑する。

 そうしてしばらく余韻に浸っていたが、唐突にこの場所に似つかわしくないぐー、という音が響いた。


「あら」


 龍樹が音のした方を見ると、音の元凶はお腹を抑えて照れたように笑っていた。


「タッチャンが感じていた空気を味わえて、嬉しくてついついお腹が緩んでしまいましたわ。今日のわたくしは、はしたないとこばかりですわね」


 リヴィアは自分の頬に手を当てて、ほんのり紅潮している頬を隠す。龍樹はリヴィアのその様子を見て、思わず笑ってしまった。


「お昼、食べますか?」


 くつくつと笑いながら龍樹は、持ってきていた弁当箱を軽く掲げてリヴィアに提案する。リヴィアは待ってましたと言わんばかりに手を広げて、弁当箱に吸い付いた。

 ベンチに腰掛け、ふたり分の弁当箱を広げる。弁当の中身は龍樹が作ったものだ。リヴィアが白米が好きだと行ったので個別でおにぎりと、卵焼きやウィンナー、ミニトマトなど弁当には欠かせないおかずたちが所狭しと詰められている。

 リヴィアは弁当という概念も初めて見たらしい。弁当を見つめる目はきらきらと輝いていた。

 ふたりはいただきますをして食べ始める。リヴィアが美味い美味いと弁当のおかずを食べているのを見て、龍樹はほっと息をついた。



「そういえば、タッチャン」


「ん?」


 弁当のおかずもあと少しで無くなるというところで、リヴィアが話しかけてくる。龍樹はミニトマトを口に運びながらそれに応えた。


「お返事、お聞きしてもよろしくて?」


 返事。なんのことだろうかと龍樹は考えを巡らせる。なにかリヴィアに答えてない質問でもあったか、とそう頭をひねらせる。

 うーんと龍樹が唸ったところで、リヴィアは目を伏せて再度尋ねた。


「わたくしはタッチャンと一生を添い遂げるつもりでいますわ。……タッチャンはわたくしのこと、どう思っておりますの?」


「――、」


 言葉が出なかった。そういえば、リヴィアは龍樹と一生一緒にいるつもりでこちらに来ているのだった。完全にそのことを失念していて、ただリヴィアと一緒に話をするのは楽しくて居心地がいいから、龍樹はすっかり返事をなあなあにしていた。

 本当なら、リヴィアの想いに答えられないなら、今すぐにでも断るべきなのに。それができなかった。少し前までの自分ならできていたかもしれない。もう一生、独り身のままでいいとさえ思っていたのは龍樹自身だ。これからもずっと独りだと思っていたのに。それでいいと思っていたのに。

 リヴィアに返事をするのが、とても怖かった。龍樹はリヴィアと一緒にいるうちに、リヴィアの傍がとても心地よいものだということに気がついた。でも、龍樹のリヴィアに対する想いと、リヴィアが龍樹に抱いている想いは明らかに違っていた。

 今はまだ、リヴィアの想いと一緒ではないから断るべきなのだ。でも断ったらどうなる? リヴィアはあちらの世界、元いた世界に帰ってしまうのではないのか。昨日まではリヴィアが帰るのを望んでいたはずなのに、今ではリヴィアが居なくなることを考えると泣き出してしまいたくなるほど辛かった。引き留めていたい。こちらの世界に。でもリヴィアの想いには答えることはできない? なんて無責任なんだと、自分のことが嫌になる。

 龍樹は自己嫌悪で目を閉じた。本当はもう決まっていた。でもそれを言うのが恐ろしくて、龍樹は緊張で乾いた唇を舐める。震える口を開き、言おうとしていたことを声に発した。


「リビーさん、俺は――」


「リヴィア様」


 次の言葉を言おうとした時、第三者の声が耳に届いて慌てて口を閉じた。それから龍樹とリヴィアの目の前に誰かが立っていることに気がついて、思わず俯いてしまう。


「――シエナ!?」


「こんなところにいらしてたんですね。もうお遊びは終わりです。帰りますよ」


 シエナ。それは、リヴィアのメイドの名前だったはず。この方がそうなのかと、龍樹は視線を下に向けながら思う。リヴィア以外の人間に対峙して龍樹が何も言えないでいると、リヴィアは龍樹を庇うようにして腕を龍樹の前に伸ばし、力強い口調で言った。


「なぜ、こちらの世界に来れていますの?」


「前々からベッドの下になにかあると思っていました。まさか、時空が歪んでいたとは思いもしませんでしたが」


 シエナは、時空の歪みのその先を目指して来たのだと平然と言ってのける。それから、シエナは考え込むように顎に手を当てると、あんな現象は初めて見たと独り言ちる。その独り言を聞いていたリヴィアは、ばっと立ち上がって必死な面持ちで叫んだ。


「わたくしはタッチャンとっ――」


「タッチャン? ああ」


 シエナはリヴィアの言葉を遮って、するりと目を細めると、その目で龍樹を見下ろした。龍樹はシエナの冷たい視線に、思わず背筋が粟立つ。


「私はメイドとして、リヴィア様をお守りする義務があります。リヴィア様を唆した罪、決して取り消せるなどと思わないよう。後日改めてきっちり責任を取ってもらいます」


「唆した、罪……?」


 何を言っているのか分からない。龍樹は眉をひそめてシエナの言葉の意味を考える。その間にシエナはリヴィアへ再び目を戻すと、リヴィアに手を差し伸べた。


「さぁ行きますよ」


「い、嫌ですわ」


 しかしリヴィアは頑なに動こうとしない。シエナの手を取らず、ぷいっとそっぽを向いた。その様子にシエナは、はぁとため息を漏らすと、手を下ろして、代わりに人差し指を立てて子供に諭すように言った。


「……分かりました。では、1日だけ猶予を与えます。リヴィア様が居なくなられてお城中は大騒ぎです。まだ国民には黙っていますが、リヴィア様が消えたと知れたら……」


 それだけ言うと、シエナはリヴィアから背を向けた。龍樹はリヴィアの隣にいて、リヴィアが唾を飲み込む音を確かに聞いた。


「よくお考えになってください」


 シエナは、ではと軽くお辞儀をした後、公園から姿を消した。嵐のような人だったなと、龍樹は張り詰めていた緊張をほぐす。それからリヴィアを横目でちらと見上げる。リヴィアは今までに見たことのないような、あの明るい彼女からは想像もつかないほど暗い表情をしていた。


――


 あのあと、公園でのんびりする気分でも無くなってしまったため、すぐ家路についた。リヴィアは落ち込んだことを隠すように元気に振る舞うが、明らかに表情は硬かった。

 龍樹はリヴィアにかける言葉が見つからず、申し訳なさそうに謝るリヴィアに気にしていない旨を伝える他なかった。 


 リヴィアがシエナの言葉に反応して落ち込んだのは分かったが、何をそんなに怖がっているのか分からない。だが、それをリヴィアに聞くのも忍びない気がして、来た時と同じように他愛もない話をしながら帰った。



「お帰りなさいませ」


「シエナ……」


 玄関を開けた先には、昼間と同じ格好をしたシエナがお行儀の良い姿勢で立っていた。シエナはリヴィアの帰宅を確認し、軽く頭を下げて迎える。


「向こうに帰ったわけじゃないんだ……」


 もうすっかり向こうの世界に帰ったとばかり思っていた龍樹は、シエナを見て顔を引きつらせる。シエナはそんな龍樹の言葉に首を横に振って、びしっと言い放った。


「リヴィア様の身の回りのお世話をするのがメイドの役目。リヴィア様の所在が解った今、わざわざ離れることはいたしません」


 そうすか……と龍樹は頭を搔く。それからシエナを直視しないように玄関をあがり、リヴィアの方を向いて靴を脱がせた。リヴィアの足は絆創膏を貼ってあっても赤く血が滲んでいて、痛々しかった。


「タッチャン、ありがとうございます」


 リヴィアは龍樹の肩に手を置いて、靴を脱ぎながら玄関を上がる。上がった後、リヴィアは力なさげにシエナの横を通り過ぎた。

 シエナはそんなリヴィアの後ろをついて行こうとするが、龍樹はリヴィアの靴を整えながら声で呼び止める。


「……あの、シエナ……サン。とりあえず、靴を脱いで……クダサイ」


「あら」


 シエナは靴を履いたまま廊下に立っていた。このメイドさんにも、こちらの常識を教えなきゃいけないなと龍樹はため息をついた。


 今日、母は仕事で帰ってこない。もうひとり女性が増えたことを知られなくて良かったとほっとする。母のあの性格だ。きっと、龍樹をいじり倒して困らせてくるに決まってる。

 自分の運の良さに感謝した。のもつかの間、龍樹は急いで3人分の晩御飯を用意しなければと台所へ向かった。


「ふむ、手馴れたものですね。シェフか何かですか?」


「……チガイマス」


 シエナは料理している龍樹の手元を覗き込みながら、感心したようにふむふむと頷いている。龍樹は顔を背けながら、シエナの度重なる質問にカタコトで答えていく。


「先程、リヴィア様が食べられていた白くて丸い塊はなんですか?」


「オニギリデス。ハクマイで作られてマス」


「ふむ。では今作っていらっしゃるのは?」


「オミソシルデス。ミソを溶かして、トウフとかダイコンとか入れてマス」


「なるほど。失礼ながら家主がいない間、少し家の中を見て周りました」


 空き巣の下見かな。


「その際、あれはお風呂場でしょうか。ちょうど良い温度の湯がでてくるなんとも素晴らしい物に出会いました。あれの名前は?」


「……たぶん、シャワー、かなデス」


「シャワー。ふむ。ぜひとも城のお風呂場に取り付けたい1品です」


 それは勝手にしてほしいけど、できればこの家のシャワーヘッドを持っていくようなことはしないでほしい。シャワーヘッドだけ持ってってもどうにもならないけど。

 龍樹が料理をしながら心の中でもんもんと騒いでいると、シエナは龍樹の頭を見上げて、すっと手を伸ばしてきた。


「あら、御髪が……」


「……っ」


 バシッ、と乾いた音が鳴る。こちらに伸ばしてくるシエナの手を、龍樹が払い除けた音だった。触られそうになったことに鳥肌が立ち、思ったより強めに叩いてしまった。女性の手をつい叩いてしまったことに、龍樹はやってしまったと顔を青くする。しかし、謝罪の言葉は喉がなにかにつっかえていて、出てこなかった。

 龍樹は料理をしていた手を止めて、シエナをちらと見る。シエナは気にしていない様子で手を後ろに収め、平然とした顔をしていた。


「急に触ろうとして申し訳ございません。あなたの前髪が濡れていらしたので拭き取ろうとしただけです。よろしければこのハンカチを使ってください」


 そう言って差し出されたのは、隅のほうに小さく四葉のクローバーの刺繍がされた、白いハンカチだった。そのハンカチは龍樹の傍のシンクに置かれる。


「では、もう十分こちらの世界のことは把握したのでリヴィア様の所へ参ります。配膳は手伝いますのでお呼びください」


 龍樹がハンカチのお礼を言う前に、シエナはさっさと2階へと上がっていった。シエナのずっと変わらない態度に、龍樹は少し安心した。

 シエナが居なくなって、やっと料理の集中ができる。リヴィアの元気が出るような料理をたくさん作ろうと、龍樹は気合を入れてエプロンの紐を縛りなおした。


――


 リヴィアは電気もつけないで、暗い龍樹の部屋の中にいる。ベッドに座り、ひとり物思いにふけっていた。やがてそろそろと目を閉じ、考える。


 ――リヴィア様が居なくなられてお城中は大騒ぎです。まだ国民には黙っていますが、リヴィア様が消えたと知れたら……。


「私が消えたと知ったら……」


 シエナの言葉を反芻し、その先の情景を思い浮かべる。まぶたの裏には、国民の顔が無数に映っている。笑顔で幸せそうに笑っている。リヴィアを見上げ、尊敬の眼差しで見てきている。

 そんな国民の顔は、リヴィアにとって何よりも宝物だった。その宝物を、その輝きをまたしても曇らせてしまうのか。自分のせいで、国民にまた悲しい顔をさせてしまうのだろうか。

 そんなのは嫌だ。でも、タッチャンと離れるのはもっと嫌だ。揺れ動く心に、目に涙を滲ませる。

 このようなときは、あの時のあの言葉を思い出す。


 ――リビーは、流れ星みたいだね。


「あの日、ああ言ってくれたタッチャンなら、分かるのかしら」


 己のことを流れ星だと言って笑ってくれた。タッチャンの世界の常識の中で、好きなうちのひとつとなったそれは、リヴィアの心が沈むたびに元気づけてくれた。

 こちらの世界の常識は、リヴィアの性に合っていると感じる。食事の前に感謝の意を込めて頂きますとご馳走様を言う。行ってきますにはいってらっしゃいを返す。そんな当たり前のことが、リヴィアには全て新鮮だった。向こうの世界には無かった挨拶の文化。


「シエナにお帰りなさいと言われて何も返せなかったわ。ああいう時はなんて返すのかしら」


 こっちの世界の言葉を文化をもっと知りたい。学んでいくのはとても楽しい。


「またタッチャンのお話を聞かせてほしい」


 リヴィアが心から願ったことだった。タッチャンと離れるのは嫌だ。あっちの世界に帰って、またタッチャンが消えてしまうのは嫌だ。タッチャンとずっと一緒にいたい。

 ぼすっとベッドに倒れ込む。溜まった涙が頬を伝って枕へと染みた。ズズっと鼻水を吸い込み、目を擦る。

 ひとしきり涙を流したあと、コンコンとドアがノックされた。


「リヴィア様、シエナです」


「お入りになって」


 リヴィアの返事にシエナが音を立てずに入ってくる。シエナは人差し指でボウッと炎を灯し、部屋を照らした。

 突然の明かりにリヴィアが眩しさに顔をしかめる。シエナは寝転がっているリヴィアの顔をちらっと見つめ、泣き跡を見つけると、さっと視線を逸らした。


「リヴィア様。そんなに、この場所が離れ難いですか?」


 シエナの問いかけは、リヴィアにとって愚問だった。


「当たり前ですわ」


 リヴィアが頬を膨らまして、拗ねたように答える。するとシエナは、理解を示したように頷いた。


「こちらが快適だから帰りたくない気持ちは分かります。私も痛感いたしました。ですのでヴィリニア王国に帰られたら、シェフにオニギリとオミソシルを作らせ、建築士にお風呂場のシャワーなるものを作らせましょう。いかがですか?」


 まったく分かっていなかったシエナの言葉に、リヴィアは耐えかねて叫ぶ。


「タッチャンが居ないと意味がありませんの!」


 ついに言ってやったとリヴィアは鼻を鳴らす。シエナの顔を寝転がったまま見上げると、シエナは無表情でなるほどと呟いた。


「ああ、ではタッチャンさんを連れていきましょう。強制連行です。拒否するならば眠らせてでも」


 シエナはさらりと言ってのける。リヴィアは、何を恐ろしいことを言っているのだと目を見張る。しかし、シエナは言っている意味を理解してるのかしてないのか、まったくの無感情で言葉を続けた。


「タッチャンさんを異世界のサンプルとして連れていくのもありなのではと私も考えていたところです。帰って実験対象にするか、お料理が得意そうなのでシェフとして雇いながらでもいいですね」


「……シエナ、あなた……」


 リヴィアは絶句してシエナを見る。シエナは、はてと首をかしげて笑っていた。

 タッチャンを実験対象にするためにこちらとあちらを繋げたのではない。でも、結果的にそうなってしまいそうな事実に、リヴィアは恐怖した。このシエナの様子を見るに、本当に実行してしまいそうだ。


「猶予まであと半日……」


 シエナが猶予を与えたこの1日。絶対に無駄にするわけにいかない。どうにか、タッチャンの身の安全を保証しなければ。

 リヴィアは決意を固めて、拳を握りしめた。

お読みいただき、ありがとうございました。

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