1-1 ハサミを落として
生まれた頃から慣れ親しんできた場所。戸建ての2階、角部屋。18年間お世話になった自分の部屋は、7年前東京の方の大学へ進学を機に実家を出た当時のまま。母は部屋をいじってなかったらしく、7年経った今でも内装は変わっていない。窓から差し込む光によって本棚や勉強机の上に被った埃が目に付いたが、それも微々たるもので、この部屋を掃除してくれた母に感謝を告げる。
荷物の入ったダンボールが次々に玄関先へと運び込まれ、ガムテープで頑丈に固定されたダンボールたちは上へと積み重なっていく。その光景を、佐藤 龍樹は階段上から眺めていた。
長時間の移動に多少疲れがでていたこともあり、今からあの大荷物を、2階の角部屋である自分の部屋へと運び入れることを考えると辟易する。
龍樹は一旦休憩しようと、階段の1番上の段へと腰掛ける。それから手に持っていた天然水の入ったペットボトルのキャップを捻ると、一口だけ口に含んだ。疲れと諸々の心労から乾ききった喉が気持ちいいくらいに潤い、やっと一息つけた気がした。
「帰ってきちゃったなー」
たはー、と頭を搔く。龍樹はへらりと笑みを浮かべるも、その笑顔は少し硬い。やがて、ぽりぽりと頭を搔いていた手を止めると、はぁー、と大きなため息をついた。
「けっきょく俺って、こうなっちゃうんだよな」
肘を膝に乗せ、頭を足と足の間に沈ませて項垂れる。龍樹は、どこか諦めたように目を伏せた。
龍樹は1週間前、仕事を辞めた。
大学を卒業後、2年間必死に仕事に務めたが、如何せん社会はそんなに甘くなかった。上司や同僚、取引先の人らのおかげで立派な人間不信に陥った。対人恐怖症患者の出来上がりである。
人と関わるのがすっかり怖くなり、あらゆる仕事にも支障をきたしたため、辞表を提出した。代行で。
東京に一人暮らししていたが、これを機に部屋を解約。実家に舞い戻る形となった。
就職から2年で後先も考えず退職した事実に、自分でも情けないとは思っていて、だからこそ実家から再スタートしようと考えている。考えてはいる、が。
「ニンゲン、コワイ……」
人と会話する状況を思い浮かべ、そのあまりにも恐ろしい光景に恐怖した。哀れにも人間界に迷い込んだ怪物かのような発言をしながら自分を抱きしめ、縮こまった。
想像でさえこんなことになってしまう。かなり重症であるからして、実家での療養が必要だ。龍樹は今すぐに新しい仕事を見つけたい気持ちもあったが、大事をとって実家でのんびり過ごして欲しいというのが母の意見である。母の気持ちを無下にする訳にもいかないので、とりあえず様子見で仕事を探すなんてこともせず、療養期間としてくつろいでいることにした。
「……よし、いったんあのダンボールの山をなんとかしなきゃな」
ある程度休憩も取れたので、ばちんと太ももを叩いて立ち上がった。現在、家には龍樹ひとり。父と母はそれぞれ仕事に行っている。そのため、荷物はすべてひとりで運び込まなければならない。
今は昼過ぎ。多分、あれらをすべて運び終え、荷解きしている最中にはすっかり夕方になっているだろうが、ゆっくりやっていこうと思う。
――
なんとか玄関先に置いてあったダンボールはすべて、部屋に運び入れることができた。玄関先の次に自分の部屋がダンボールまみれになっているのを部屋の入口から眺め、苦笑する。
再度、気合いを入れ直し荷解きを開始した。まず、自分のいちばん大切な荷物やらが入っているダンボールに手をかけ、ガムテープを剥がしていく。しかし、なかなか頑丈に固定してあってか、ガムテープは剥がれない。手は無茶があったか、と仕方ないから、ハサミで切ることにする。
ハサミは確か勉強机のどこかに置いてあったはず。立ち上がり、ハサミを探す。自分の記憶を頼りに机を漁ると、すぐに見つけることができた。
先程開こうとしたダンボールに手をかけ、蓋を固定していたガムテープにハサミを突き立てる。再挑戦とばかりに気合いを入れ、まあ多少強引になってしまったが、ビリビリと音を立ててガムテープを切っていく。
そして、端まで切り終えたあと。力を入れすぎたのか、勢い余ってハサミがすぽーんっ、と手から抜けてった。
「あっ、ぶね!」
宙に放り出されたハサミは、そのまま窓際に置いてあったベッドの下へと滑り落ちた。
「あちゃー、やったわ」
頭を搔いてのんきに呟く。それから緩慢な動きでベッドの下を覗き込んだ。ベッドの下は暗く、狭いこともありよく見えないが、目星をつけた所にハサミは落ちていなかった。
仕方なしに龍樹は左腕を伸ばして、手当り次第にベッド下をまさぐる。記憶にある限り、ベッドの下には何も置いてないはず。あるとしたら埃の塊くらいだろう。あとで着替えればいいやと、左肩までベッドの下へとお構い無しに突っ込む。
しかし幾分か手を動かしても一向にハサミに当たる気配はない。焦れったくなり、反対側を向いていた顔をベッド下へと動かす。暗闇をじっと見つめ、ハサミの行方を探すこと数秒。
『……タッチャン?』
「たっちゃん???」
およそ聞こえるはずのない女性の声が耳に届き、龍樹は思わず聞こえた言葉をオウム返しした。そんな龍樹の返しに間髪入れず、またどこからか嬉しそうな声が上がる。
『やっぱり、タッチャンですわね!?』
「だれ? どこ?? なに???」
自分の部屋に誰かが侵入していたことに混乱し、思わず5W1Hのうち、Who, Where, Whatの3つが口から飛び出た。それから上体を起こしてきょろきょろと当たりを見渡し、侵入者を警戒する。しかし、周りに誰かいる気配はない。気配はないが声だけ聞こえる事実に困惑したのもつかの間、はたと気づいたことがある。
「たっちゃんって、これまた懐かしーあだ名……」
小さい頃、幼稚園から小学生時代にかけて周りから呼ばれていたあだ名。あの頃の記憶は朧気で、何となくしか覚えていないが、「たっちゃん」というなんとも懐かしい響きにいつの間にか、侵入者に対する警戒が解けていた。
それもそのはず、龍樹が叫んだ後すっかり女性の声は聞こえなくなっていたのだ。何だったのかと首を捻るも、あまり難しいことは考えたくないので気のせいだったことにした。
それよりもハサミだ。本来の目的を思い出し、再度ベッドの下を覗き込んだ。
『お久しぶりですわ。タッチャン』
「まー気のせいじゃないよなーー」
やはり女性の声は気のせいなんかではなかった。想像通りのことに、龍樹は若干気の抜けた声を出しながら苦笑する。そして、多分自分の予想が正しければと、龍樹は女性に問いかけてみることにした。
「さっきからベッドの下から話しかけてきてる?」
『ええ。こちらもベッドの下から』
なるほど、つまりベッドの下が声の主のベッドの下と糸電話のように繋がっていると。……いやなるほどじゃないがと、セルフツッコミを心の中で入れた後、このおかしな状況に妙に冷静な自分がいることに、龍樹は驚いた。そして、誰と話すにも緊張し恐怖していた自分はどこへ行ったのか、普通に話しかけることもできていたことに感動もしていた。しかしそんな龍樹の状態は露知らず、ベッドの下の声はなおも話しかけてくる。
『タッチャンの声、ものすごく低くなりましたわね。魔法……いいえ、あの頃から15年も経っているのですもの。成長致しましたのね』
「あの頃から15年? 俺とあんた、話したことありましたっけ?」
『まぁー! タッチャンってば薄情ですこと!』
薄情だと言われても、覚えてないのだから仕方ない。ベッドの向こう側から、悲しいだなんだと嘆き声が聞こえてくるが、とりあえず聞き流すことにする。
小さい頃に話したことがあるのは確かだろう。なんせ、昔馴染みしか知らないあだ名「たっちゃん」で呼ばれているのだから。少しカタコトなのが気になるが、声の女性が昔馴染みなのだと信じる他ないだろう。覚えてはないが、口ぶりからして15年以上前に知り合った仲だということを。
『まあいいですわ。わたくし、決めましたので』
一通り嘆き終わったみたいだ。どこか決意を込めた声色の女性は、龍樹が何を? と疑問を口にする前に言葉を続けた。
『今、そちらに会いにゆきますわタッチャン。覚悟してくださいまし』
「なに言って……」
こちらに会いに来るらしい。言葉の意味を理解するのに時間は要さなかったが、どうやって来るのかを問いかけたくて疑問符を頭に浮かべる。そもそも、声の女性が何者で、どこにいて、どうしてこうやって話すことができているのかも分からない。完全に謎の存在であるはずのこの声の女性が、今から来る? 物理的に無理だろう。そう思いかけた時期が、龍樹にもあった。ベッドの下から這い出てくる手を見るまでは。
「うっ、おぁ!!?」
変な叫び声が龍樹の口から飛び出す。無理もない。ベッドの下から突如這い出てきた両手が、龍樹の左手首をがっしり掴んできたからだ。
『おーほほほっ! 時空を移動するくらい、わたくしには朝飯前なのですわぁー!』
そう聞こえてきたかと思うと、ぐいっと左手首を引っ張られる。龍樹は引き摺られまいと、右手でベッドに掴みなんとか踏ん張る。
最初は驚いたが、掴まれた手を離そうとはしなかった。なんとなく、この手はあの声の女性の手だと思ったからだ。
龍樹を掴んでいる相手を逆に引っ張り出す勢いで、力を込める。立ち上がりベッドに片足をつけ、右手でも掴んでやる。それから、大きなカブを抜く要領で引っ張った。
「……っ! どぉっこいしょー!!」
掛け声に合わせて力を振りしぼる。どっこいしょーの伸ばし棒の部分で、重心がいきなり後ろに寄ったため、手首を掴み掴まれたまま、龍樹は後ろに倒れ込んだ。ガンッ! と大きな音を響かせたのは、龍樹の頭である。
「っ、いっでぇ……」
「……ふふっ。ほら言いましたでしょ、会いにゆくって」
痛みに顔を歪ませる龍樹の頬に何かが触れる。じんわりと温かいそれは、人の手だと気づいた。それから龍樹は、頭をぶつけた衝撃からふらふらと合わなかった目の焦点をゆっくりと合わせていき、やがて目の前の顔をとらえた。
白く小さな顔、血色の良い唇とよく通った鼻筋、そして青色の瞳へと下から上に目を滑らせていく。目と目が合った瞬間、ふんわりと微笑みかけられた。
「タッチャン。やっと会えた」
どこか夢見心地のままでいた龍樹だったが、目の前の女性から「たっちゃん」と発せられたことで、この女性こそがあの声の主だったのだと頭が判断した。そして途端に恐ろしくなった。目の前の人間に。
「ずっと待っていましたのよ? ……って、あら? タッチャン、お顔が赤いですわ。熱かしら」
龍樹に馬乗りになっている状態で目の前の女性は、不安そうに龍樹の顔を覗き込み、頬を撫でていた手をおでこへと動かし触れる。その手は、ひどく優しかった。
龍樹は自分の顔が赤くなっていることに気づいているし、これは熱なんかではないとも知っている。これは龍樹が小さい頃からなってしまうもの。人に見られる、特に異性に視線を向けられると、どうしても赤面してしまい変な汗が吹き出てくるのだ。そしてそれを人に指摘されると、恥ずかしさも相まってさらに顔に熱がこもってしまう。
今、この状態はかなり不味い。ずっと己のことを見てくる視線。触れている手、体。自分は今絶対に変な顔をしている。しかもふたりの間に流れているこの独特の空気感と生ぬるい沈黙に、だんだんといたたまれなくなってくる。そして遂に龍樹は、恥ずかしさに両腕で顔を隠した。
「ごめん……とりあえず、俺から離れてほしい……」
なぜここに来れたのか、この急展開はなんなのかと怒りたくなる気持ちもあったが、それ以上にはやく部屋から出て行ってほしくて仕方がなかった。龍樹が声を絞り出してお願いすると、女性ははっとしたように龍樹から手を離した。
「っ、ごめんなさい! わたくしばかり浮かれてしまいましたわ。お顔が赤いですし、震えも……体調が優れないのに会いに来てしまって……」
目の前の女性は目を伏せて、再度申し訳なさそうに謝ると、龍樹の上から退いた。とりあえず離れたことにほっと息をつき、呼吸を整える。
龍樹が寝っ転がったまま動悸を落ち着かせている間、女性はきょろきょろと辺りを見渡していた。少し落ち着いてきたところで龍樹はやっと上半身を起こす。そして落ちつかなげにしている女性の方をちらと見て、先程の自分の態度に申し訳なくなった。仕方がないとは言え、やはり社会人なのに目も合わせられないことにひどく落ち込んだ。謝ったほうが良いだろうがしかし、声をかけようとすると緊張で声が出ないしと、女性を見ながら逡巡する。
その視線に気づいたのか女性はすっ、と龍樹の方へ向き直る。それから着ていた薄手のドレスの裾を上げると、恭しくお辞儀をした。ブロンズ色の綺麗な長髪が肩からたらりと垂れ、その所作はなんとも美しいものだった。
「ご挨拶が遅れましたわ。改めましてわたくし、ヴィリニア王国の王女、リヴィアと申します。国では願いの姫とも呼ばれておりますの」
「……リビア……さん」
「昔のように、リヴィと呼んでくださいまし」
「……はぁ」
Vの発音が良すぎて呆気にとられていた龍樹だったが、どうにも耳馴染みのない国名に、頭にはてなが浮かぶ。というかそもそも今もなお王室を維持している国は限られていて、だから分かるがヴィリニア王国なんて国は存在していない。
だからつまりだ。この魔法のような現実味のない体験の数々と、初めて聞く王国の名前から察するに、このリヴィアと名乗った女性は地球人ではないのではなかろうか。地球に限りなく似た別の惑星か、もしくは別の世界から来ているのではないか。つまるところ、リビーさんは宇宙人か異世界人か――と、ここまで推測したところで、龍樹の頭は今完全に宇宙猫状態。考えることを放棄した。目の前に起きていることこそ現実なのだから、それ以外を考えていても仕方のないこと。詳しいことはまた後日と洒落込もう。難しいことは考えられない性分の龍樹は自分の中でそう完結させて、よいしょと立ち上がった。
今なおズキズキと痛む後頭部を撫でながら、リヴィアの目は見れないので下を向いて話しかける。
「……リビー、さん」
「何かしら、タッチャン」
リヴィアは下を向いた龍樹の顔を覗き込むことはせず、一定の距離を保って返事をする。龍樹はリヴィアのその態度にほっと胸を撫で下ろし、しかし少し緊張した面持ちで自分の上着であるチャック付きパーカーを脱いでいく。それから脱いだパーカーの埃をパンパンと気持ち程度に払うと、リヴィアに差し出した。
「寒そうなので、いったんこれ、よかったら、着てクダサイ……」
龍樹はカタコトになりながらも言いたかった言葉を言えたことに内心大喜びする。龍樹はそっぽを向いていて、リヴィアにはその龍樹の喜び様は見えなかったが。
「あぇっ、た、助かりますわ! ありがとうございます。そういえば少し肌寒いですわね」
リヴィアは思い出したかのように身を凍えさせ、龍樹の手からパーカーを受け取った。
現在4月中旬。春の陽の光でぽかぽかと暖かくなってはきたものの、夕方から夜にかけてはまだまだ肌寒い。リヴィアの少し透けたような薄手のドレスでは、これからの時間耐えられなさそうだった。あと単純に目のやり場に困っていたのもある。胸元がかなり強調されているドレスのデザインに、龍樹は先程から目を泳がせる一方であった。
先程まで龍樹の体を温めていたパーカーは、まだ龍樹の体温が残っていて温かいだろう。リヴィアがパーカーをドレスの上から羽織ったのを見て、龍樹は頬を緩ませた。良かったこれで罪悪感が減ると、龍樹はひとり達成感に酔っていた。ことで、玄関のドアが開かれた音に一切気づかなかった。
ダンダン、バンッ! と乱暴に部屋のドアが開いた。
「たっだいま〜! ひさしぶりーたつ、き……?」
「か、母さん……」
「タッチャンのお母様!?」
ま、ずい。ダンボールまみれの中、薄手の男とドレスにパーカーというミスマッチな女とオカンというなんともカオスな状況に陥ってしまった。
3人の間にしばし沈黙が流れたあと、一番に口を開いたのは母だった。
「え、なに、彼女?」
「ちがう」
あまりにも見当外れなことを言うもんだから、速攻否定した。まあそう見えてもおかしくはないのだが、ここは強めに否定しておかないといけない気がする。なんと言っても、この空間はなかなかに龍樹の負担が大きいのだ。
「かのじょ? ええ、タッチャンはわたくしの運命の人ですわぁー!」
ほら。
「!? うう、運命の人ぉ!?」
楽しそうにするな。
「誤解を生むような発言すぎる……」
龍樹は頭を抱えて、どこから説明しようかと脳をフル回転させた。
――
午後7時過ぎ、1階のリビングにて食卓に並べられた夕飯を取り囲むように、龍樹たちは椅子に座った。龍樹とリヴィアは隣同士に、龍樹の向かい側に母が座っている形だ。
夕飯を作りながらリヴィアのことを説明していたため、今は母の興奮もある程度落ち着いている。そわそわしているのは変わらないが。
「まっさかこんな美人な方が15年前に龍樹と遊んでくれてたなんてね〜。母さん知らなかったんだけどー」
「まー言ってなかったから」
というか全く覚えてない、という事実はなんとなくリヴィアには黙っていようと思う。ベッドの下で遊んでいた? 事実も母には内緒で、昔からの友達ということにしておいた。
「リビアさん、だっけ。息子と仲良くしてくれてありがとう。龍樹、こんなんだから大変だと思うんだけど、これからもよろしくしてあげてください」
母はリヴィアに軽く頭を下げた。リヴィアは一瞬ぽかんと口を開けて呆然としていたが、母が頭を上げるとはっと意識を取り戻して勢いよく立ち上がった。
「こちらこそですわ、タッチャンのお母様! タッチャンはわたくしの運命の相手。わたくしはもう金輪際タッチャンを離すことはありませんわ!」
ドンッと胸を叩くリヴィア。それを見て今度は、龍樹と母がぽかんとする番だった。リヴィアは何かものすごく気恥しいことを口走った気がするが、本人はまったく気にしていない。どころか、やっと決意を口に出せたことで満足している様子だ。
龍樹はリヴィアの横顔を見上げながら目を丸くしていたが、リヴィアのまるでプロポーズのようなセリフにまたもや赤面する羽目となってしまった。
「リビー、さん……言っている意味、わかって、る?」
下を向きながらリヴィアに問いかけると、リヴィアは大きく頷いて龍樹を見た。
「わたくし、本気の本気ですわ。だって15年前急にタッチャンが消えてしまってわたくし、ホントのホントに悲しかったんですもの。次に出会えたときは、もう絶対離さないって決めてましたの。一生着いて回りますわよ」
「そ、そそ、そんなにー……?」
龍樹は思わず気の抜けた表情で頭を搔いた。
何でそんなに自分のことを好いていてくれているのか、検討もつかない龍樹である。昔のリヴィアとのことを覚えていないことが悔やまれた。自分はそんなに価値ある人間ではないと否定したくなったが、リヴィアの決意は固そうだしなにより、昔のことを覚えていない自分にリヴィアの言葉を否定する権利はないと思った。しかしそれでも理解はし難かった。
リヴィアの視線がなんとも気恥ずかしく、龍樹は俯きながら手の甲で口を隠した。リヴィアはそんな様子の龍樹に何を思ったか、慌てて椅子へ座り直していた。そしてこれら一連の流れを呆然と見ていた母は、ふたりの間に流れる絶妙な空気に思わず吹き出した。
「ぷっ、あっはは! リビアさん男前すぎ、おっもしろー! あはは!!」
突然の母の大爆笑に、龍樹とリヴィアは本日2度目のぽかん顔。きっとこのときのふたりは似たような表情をしていたに違いない。そして母はひとしきり笑ったあと、姿勢を正して龍樹へと向き直った。
「はぁー笑った。龍樹、リビアさんを大切にしてやんな。こんないい子他にいないよ」
「……はぁ」
とは言われても会ったばかりの女性であるから、そんな簡単に決められることでもない。でもこの空気の中そういうことを言うのもはばかられたので、だらしのない返事をする他なかった。
「ん、よし! とりあえず爆笑してお腹も空いたし、ご飯食べよ〜」
母は言うやいなや、いただきますと手を合わせた。もう箸を持っておかずを口に運んでいる。母のなんとも切り替えの速さに龍樹は苦笑し、続いて手を合わせた。
「いただきます」
龍樹が挨拶をすると、リヴィアは不思議そうにそれを見つめてきた。この日本式挨拶が珍しいのかもしれない。もしかしたら箸を使ったこともないかもしれない。そう察した龍樹は、どくどくする心臓を抑えながら緊張した面持ちでリヴィアの手元を見た。
「いただきます、はご飯を食べる前にする挨拶。箸の持ち方は……教えましょう、か……?」
「……! はい! ぜひ、お願い致しますわ!」
リヴィアのなんともまあキラキラとした表情に、龍樹は若干気圧されながらも一息ついて、箸の持ち方を教える。リヴィアは教わりながら、龍樹の顔をちらちらと見てくる。そのことには気づいていたが、目を合わせると途端に声が出なくなるので視線を返すことはできなかった。
だが、リヴィアの寛容な性格と龍樹に対する包容感のある表情に、龍樹は絆されていると感じていた。リヴィアとなら、いつか普通に話すこともできるかもしれない。そう思いながら、なんとか食事を開始した。
母は、龍樹が落ち着いて人と話している姿を久しぶりに見た。目の前で繰り広げられる龍樹とリヴィアの初々しいカップルのような光景に、思わず顔を弛めずにはいられない。母は食事を中断すると、和やかな顔でしばらくふたりを眺めていた。
ことを、龍樹はリヴィアの相手に必死で気づかなかった。
――
夜の11時頃、ガチャリと龍樹の部屋のドアが開いた。ダンボールから荷物を取り出していた龍樹は、何事かとそちらをふり向く。ドアが開かれたすぐ廊下にはパジャマ姿のリヴィアが立っていた。そのパジャマには見覚えがあって、たしか母のものだ。借りたのだろうことは分かったが、なぜ部屋のドアを開けてきたのかは分からなかった。母の話によれば、来客用の部屋が用意されているはず。きっとリヴィアはその部屋に行くのだとばかり思っていたが。
「お邪魔致しますわ」
当然のようにリヴィアはずかずかと部屋に入ってくる。床に散乱している龍樹の荷物を飛び越え、ベッドに座った。龍樹はリヴィアがベッドに座ったのを見て察した。
「ここで寝るつもり、ですか!?」
「ここがタッチャンの部屋ですもの。離れる気はないと、先程たしかに宣言致しましたわ。当たり前のことを聞かないでくださいまし!」
リヴィアは頬を膨らませ、お怒りの様子だ。なぜこちらが責められているのか全くもって分からないのだが、龍樹が何を言ってもテコでも動かなそうである。
仕方ないのでここに客用の布団を持ってくることにする。荷物を端に退けて布団が敷けるスペースを空けたあと、龍樹は部屋を出た。布団のついでにタオルも持ってこようと1階へと下りる。
それから客室の布団を持ち、タオルを持ち、再び階段をかけ上る。布団のせいで前がよく見えないまま部屋に戻ると、リヴィアが驚いたように声を上げた。
「し、白い化け物……ですわ?」
「俺です」
リヴィアには布団しか見えなかったのか、化け物に見えたらしい。しかし龍樹の声を聞きつけ、なんだーとほっとしたような声が聞こえた。
龍樹は空いたスペースに布団を広げたあと、タオルだけ持ってベッドに座っているリヴィアに近づいた。
「あっち、向いていてください。髪拭くんで」
リヴィアの濡れたブロンズヘアを見つめて言う。腰まである長い髪は、自然乾燥なんてわけにもいかないだろう。なおもぽたぽたと滴っている髪は、このまま放置していたらベッドがべしょべしょに濡れてしまいそうだ。
龍樹の意図を汲み取ったリヴィアは、ベッドに足を乗せ大人しく後ろを向く。龍樹はそろそろとリヴィアの髪に手を伸ばし、タオルで丁寧に拭いていった。
「なんだかタッチャン、わたくしのメイドみたいですわ。メイドはシエナと言うのですけれど、シエナはいつもわたくしの髪をこのように拭いてくれていたの」
リヴィアはふふっと笑い、頭を揺らす。リヴィアの話を聞き、龍樹はそういえばと口を開いた。
「あー、……シエナさんって方と仲良かったんですね。リビーさんが居なくなって心配してるんじゃないですか。……ほんとにずっとここに居るつもりですか」
この問いの答えは、これまでの言動を聞く限りあまり期待していない。ただ、思えばリヴィアにも向こうでの生活があったはずだ。もし、少しでも後悔していることがあるのなら、龍樹の問いかけで考えを改めるかもしれない。どのような返事がくるか、龍樹はリヴィアの毛先を手ぐしで整えながら待つ。
リヴィアは体育座りをしていた手に少し力を込めて、まっすぐとした声で答えた。
「シエナと会えなくなるのは少し寂しいけれど、タッチャンと離れる気はありませんので。仕方のないことですわ」
「……そうすか。はい、終わりましたよ」
思ったよりも割り切っていたリヴィアの言葉に、龍樹はこれ以上の詮索は不要だと判断し、早々に切り上げた。髪の水気がある程度なくなったところで、龍樹はリヴィアから離れる。
「ありがとうございます」
「もう、寝ましょうか。ベッドはリビーさんが使ってください。俺はこっちで」
龍樹は言いながら布団へと潜り込む。するとリヴィアは勢いよく振り返って龍樹を見る。そして龍樹が床に寝転がっていることに対して、大きく首を横に振った。
「あら、床なんかで寝てはダメですわ。絨毯が敷いてあるわけでもありませんのに。タッチャンもこちらにいらして?」
「それはほんとに遠慮させて」
リヴィアから目を背け、反対側を向く。龍樹のつれない態度に、リヴィアから不満気な声が漏れる。しかしこれだけは譲るわけにはいかない。大の大人ふたりが同じベッドで、しかも異性となんて、付き合ってもないのに絶対にしてはいけないことだ。これまでリヴィアの強引な行動に、なんとなく流されてしまっていたが、今回ばかりは流されてはならないのだと龍樹は固い意思で布団を握りしめた。
龍樹の頑なな姿勢にリヴィアは諦めて、ベッドにひとりで横になる。しばらくふたりの間に沈黙が流れたのち、リヴィアは楽しそうに笑った。
「今日は初めてのことが多くて、とても楽しかったですわ。ドレスの上に初めて見る服を羽織ったり、お食事の前の挨拶をしたり、お箸を持ったり……ああ、ひとりでお風呂に入るのも悪くはなかったですわね」
独り言かもしれないが、龍樹は背を向けながらリヴィアの話に耳を傾ける。
「でもなにより、タッチャンにお会いできたことがいちばん嬉しいですのよ?」
背中越しにリヴィアがこちらを向いたことが分かった。リヴィアの素直な言葉に、龍樹はなんとも言えない気持ちになる。龍樹が少し身動ぎしたことで、リヴィアはやわらかな声色で寝る前の挨拶をした。
「おやすみなさいませ、タッチャン」
「……おやすみ」
思い返せば思い返すほど、今日の出来事は非現実的だ。突然現れた見知らぬ女性。いつもの自分なら失神してしまうほどの状況であるのにそんなこともなく。人間に対して恐怖を感じているはずなのに、リヴィアにはなぜか普通に接することができていた。しかも最初こそ緊張はしていたが、たったの数時間で一緒の空間で眠ることまでできてしまっている。
多分これは、自分の対人恐怖症が治ったわけではない。リヴィアだから、なのかもしれない。リヴィアはなんでも口に出して言ってくれる。裏表なく、思ったことはすべて。それが心地よいのだと。
しかしそれはそれとして、明日からもこの調子なのかと少しげんなりする。だがリヴィアは今のところ龍樹から離れる気は毛頭なさそうなので、覚悟を決めようと思う。人と話すだけなのに覚悟を決めるとは、我ながら変だとは思ったが、眠気に耐えられなかったのでまあいいかと目を閉じた。明日はまたどうなってしまうのかと、不安を抱えながら。
お読みいただき、ありがとうございました。