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短編

ハガイタイ!

作者: われさら

 唐突で申し訳ないが聞いてくれ。俺は自分の歯には自信を持っている。虫歯というものにかかったことなどないし、歯周病にも当然無縁。別に他人より歯磨きを丁寧にしているつもりはなかったが、至って健康。歯医者にかかってこなかったこれまでを内心自慢に思っていた。そうあの夜までは……。


***


 「えーっ!先輩、歯医者全然行ってないんすか」


 職場で休憩中、親知らずを抜いたという後輩の話から俺の歯の武勇伝になり、後輩は驚いたように聞き返してきた。


「行ってないっていうか、行く必要が無いんだよ。まあ俺が覚えていないだけで、小さい頃親に連れられて行ったことくらいはあるかもしれないけど。でも少なくとも、中学生くらいからは虫歯とかかかったことないし歯も歯茎も全然健康なんだ」


「冷たいものが染みるとかもないんですか」


「ないね」


 ほーっと息を吐き「いいなぁ………」と独り言のように呟くと、後輩は親知らずを抜いた側の頬をそっと労るようにさすった。


「じゃあ、親知らずも?」


「多分生えてこないんじゃないかな。実は、去年くらいに奥の方で違和感みたいなのがあるにはあったんだけどさ、全然痛くもないし歯医者に行くのもなぁ……って考えてる内に何日か経ったら、もう何も感じなくなってた」


 ニカッと歯を見せて笑う俺を、後輩は眩しそうに眺めていた。


 その日から数日経った金曜日のこと。昼飯を食べている時、俺は以前感じたような違和感を歯の右奥の方で感じた。ちょっと変な感じがしたものの、いつも通り少し残業をして家路へとつき、近所のスーパーで値引きされた弁当を選ぶとアパートの部屋に戻った。


 シャワーを浴び、さて適当な動画配信でも眺めながらレンジで温めた弁当でもつつくかと準備をした時だった。感じていた違和感は猛烈な痛みとなって、口内右奥、下側の歯が急に叫びだした。いや急にじゃない。会社から出て帰る時、弁当を選んでいる時、シャワーを浴びている時、わんわんとサイレンの音を増し救急車が近づいてくるように、口内の違和感がだんだんと痛みに変わっていることに俺は気がついていた。気がついていたが、気がつかないふりをしていた。救急車のサイレンがドップラー効果を引きずり去っていくように、痛みはただの違和感へと落ち着くと信じていた。……そんなことは、なかった。


「ったーーー!!」


 俺の、長い金曜日の夜はこうして始まったのだった。


 自分の痛みを他人に伝えるのはとても面倒だ。俺がいくら「痛い」と訴えても、感覚を共有できない他人にはなかなか伝わらないだろう。歯の痛みを経験したことのない人なら尚更で、なかなか理解できないものだろう。それにたとえ俺と同じような歯の痛みを感じたことがある人でも、「わかる~」となるか、「何を大げさな……」となるかはその人による。痛みとはそういうものだ。だから、もしかしたら、これからつらつらと書き連ねる俺のこの時の痛みは誰にも伝わらないのかもしれない。それでも、これだけはわかってほしい。とても痛かった。


 猛烈な痛みにより、さっきまであった俺の食欲は一気に消え失せた。段々と冷めていく弁当が俺自身の食欲と連動しているようだ。酒を飲む気にもなれない。台所の蛇口から水をコップに注ぎ、流し込む。痛みは収まらないし、少し染みた。


 TVを眺めてもスマホの動画サイトを開いても、この歯の痛さの前ではちっとも集中できない。画面の向こうで話していることが全然頭の中に入ってこないのだ。ずきずきとするこの痛みをなんとか和らげられないかと、「ほ、お、お、お」と、熱いものを口にする時のように呼吸するが、まったくだめ。次は歯を食いしばるようにして、歯の隙間から息をすぅと吸い込んでみた。でもこれもだめ。当たり前だ!歯が痛いんだから、呼吸の仕方どうこうで歯の痛みが収まるわけがない。俺は自身の頭の悪さに切なくなって鼻をかんだ。


 今夜は早く寝て、明日朝イチで歯医者に予約を入れよう。俺はそう決めると部屋の電気を消し、ベッドに横になった。だが、いつもならまだまだ起きている時間帯である。当然全然眠くなどないわけで、俺は暗闇の中で襲い来る痛みに耐えることになった。


 しん、とした真っ暗な部屋の中で、俺の口内では工事現場でかんかんと金属を叩くような、そんな痛みが鳴り響いていた。よく虫歯の表現で菌を悪魔のように見立て三叉槍で歯をつつかせているイメージがあるが、この時の俺の痛みはそんな、「ちくちく」という言葉で表現できるような、優しいものじゃなかった。痛みのあまり発狂はしないが、眠ることができない程度には痛みを定間隔で与え続てくる悪魔。俺の口の中にいるそいつは、きっと楽しく歯を叩いているに違いない。ちくしょうめ。満面の笑みを浮かべた悪魔が、手に持ったハンマーで歯を叩いているのをイメージしながら、俺は目を開け天井を睨んだ。痛みが収まる気配が全くない。


 そういえば、何かの話で水滴を一滴一滴、一定間隔で落とし続ける拷問があると聞いた覚えがあるな、と痛みでうめきながら、俺はとりとめもなく考える。世界中の拷問者たちよ。歯の痛みほどどうしようもないものはないぞ。手足の傷なら、痛みは取れなくても手でさすってあげることができる。目視して現状をきちんと見ることができる。歯の場合、歯を抜いたり削ったりしない限り痛みはどうしようもないのだ。きっとそうだ。歯を手でさすろうにも手を口の中に突っ込まないといけないし、舌で舐めるのはまたちょっと違う。いたわる感じが全くしない。直接患部を見ようにも、鏡などで口の中を覗くのはいささか抵抗がある。というか正直に言うと、俺は自分の歯の現状を見るのが怖い。そうだ。普段きちんと見ていなかった物事を、問題が起きてから正面に構えて見ることほど恐ろしいものはない。こんなことになるなら放置しているんじゃなかった、と嘆いても後の祭り。今までのつけ(・・)を俺は今、味わわされているんだ……。



 俺の口内工事現場はいよいよ激しさを増してきていて、痛みは悪魔が鐘をつくような、一撃一撃の痛みが重さを伴ったものになっていた。ごん、ごん、と痛む歯。痛みに重みなんてあるはずがない、という人、汝は幸せ者である。そのまま精進せよ。俺はといえば、最早、まともに眠れそうにない。時計は遅々として進まず、それなのに痛みはどんどんどんどん酷くなる。ちょっと泣きそうだ。これが除夜の鐘のように、ごぅんと余韻がある、どこか清々しいような痛みならいいのだが、清々しい痛み、なんて俺は聞いたことも見たことも味わったこともない。ただただ、重くて鈍い、ごん、ごん、という痛みが止まらない。


 全然眠気がやってこない俺は、嫌な方、嫌な方へと考えが流され続けていた。


 え、これ俺死ぬんじゃないのか?死ぬっていうか歯に殺される?いや待て、歯だけじゃないぞ……なんだか、顎の方も痛みを持ってきてるし……それに、熱っぽい気がする。あ……く、口を開けようとしても痛みがする……まじかまじかなんで。明日、絶対、歯医者へ行く。絶対……あれ、そういえば、明日土曜……土曜って普通、歯医者やってるのか……?今まで縁がなかったから意識したことなかった……はーーーー!?!?ちょっとまて、ちょっと待て!!


 俺は慌てて起き上がると、ベッドの脇に置いていたスマホを慌てて手に取り、通勤時の通り道でよく看板を見ていた歯医者のホームページを検索して開いた。


「嘘、だろ……」


 その医院のホームページにははっきりと「土日祝 休診」と書いてあった。ドサっとベッドに倒れ込んだ俺は、へへっと笑うしかなかった。絶望的だ。正直に言おう。この時、休日が明ける月曜日までこのまま生きていられる自信がなかった。これは誇張表現じゃない。本当に、歯の痛みで死ぬと思った。


 どれくらい、「痛い、痛い」とうめきながらぼんやりとしていただろうか。月曜日までこの痛みに蝕まれることになるのかと絶望している俺の姿を喜ぶかのように、口内の悪魔は鐘をつくというより、どっしりと腰を構えて和太鼓を殴打する達人の域に達していた。このビートはもしかしたら俺の心臓に合わせているのかもしれない。どん、どん、と歯が顎が痛むたび、確実に寿命が縮んでいる。絶対。ヤツは俺を殺す気なのだ。


 余韻がある清々しい痛みの方が……と先程思ったが訂正せねばなるまい。余韻があっても全然辛い。むしろもっと辛い。歯が、爆発しそうだ。いやむしろ爆発して一思いにラクにしてくれ。とにかく、脂汗がにじみ出るほど痛いし痛みが酷いし痛くて眠れないし痛い痛い。俺の眠気よ、どこへ行った。


 暇に任せてインターネットで歯のことについて何か知見を得られないかと調べるが、目につくのが、「虫歯や親知らずを放置していると死亡のリスク有り!?」のような刺激的なタイトルで、思わず俺はうめいてしまった。歯が猛烈に痛い時に見るべきじゃなかった。「そうだそうだ。死ぬぞ、死ぬぞ」と、言わんばかりに、口内悪魔は歯を叩く。もうやめてくれ!


 もうすぐ夜明け前だろうかとスマホを確認すると、時計は深夜2時半過ぎを示していた。まだ2時半!寝よう、寝ようと思うが、歯や顎を内側からどつき回される痛みがなかなか寝かせてくれない。「あー」とか、「うー」とか、うめいたところで時間が早く過ぎ去ってくれるわけでもない。狭いベッドの上で何度も何度も呻いては寝返りをうつ。右を見ても左を見てもうつ伏せでも仰向けでも歯は痛い。誰か歯が楽になる姿勢を教えてください。本気でそう願った。


 仕方がないので俺は、スマホのメモ帳アプリに今の痛みをメモすることにした。さすがに深夜のSNSに自分の情けない現状をたれ流す勇気はなかった。現状を文字化して少しでも客観的に自分の痛みと向き合えば痛みが和らぐ、そんな気がした。痛みに向き合うというよりは痛みを愚痴るような感じになりつつも、しばらく無我夢中でメモを俺は書き続けた。そして、くだらない川柳もいくつかできた。


  激痛の 歯と共にあり 午前二時


  滅ぶべし 土日休診 滅ぶべし


  俺の歯が 俺の許可なく 痛んでる


 そんな感じで、適当にスマホに現状の恨みつらみを込めつつメモを書いていると、ようやく眠くなってきた。もしこのまま死んだらこのメモが遺書代わりになるのかなあ、などと馬鹿な考えしか浮かばない頭でうつらつらとしながら確認すると、時間はもう早朝の4時をまわりかけていた。なんだかようやく眠れそうな気がする。まだ痛みはあったが、スマホから手を離し目をつぶる。すと、と俺は眠りに落ちた。


 夢の中で俺は高校時代を過ごした校舎にいた。でもそこは誰もいない校舎。俺は無人の廊下を端から端まで全力で走っているのだ。あっちの壁からこっちの壁まで、全力疾走で何度も往復。段々と疲れてきた夢の中の俺は速度を落とし歩き出した。何故俺は走っていたんだろう?そんなことを思いながら。すると突然、廊下の脇の全ての教室のドアが音を立て一斉に開いた。そのドアから何かが出てくるわけでも、中に誰かがいるわけでもなかったが、俺は恐怖を覚え、廊下の窓から身を乗り出し、壁を伝わるパイプに手足を掛けて下へと降りようとして──。


 勢いよく俺は目を覚ました。時計を見ると7時ちょっと前。全然寝れていない。寝足りない。しかし昨夜の痛みはだいぶマシになっていた。鏡で確かめるまでもなく右頬が腫れているのがわかった。おそるおそる舌でその辺りを触ると内側から腫れているようで、ぶよぶよとしているのがわかる。


 俺は昨夜と比べ自分が大分冷静になっているのを感じた。そうだ、休日に診療をしている歯医者もあるはずだ、と間抜けな俺は今更気がついた。近場の歯医者をネットで検索してみると、はたして、休日でも受診可能な医院が見つかった。近所ではないので通院となると面倒だが背に腹は代えられない。受付が始まる9時になるとすかさず俺は医院に連絡し、名前を告げ予約を申し込んだ。


「歯がもう眠れないほど痛くて、できるだけ早くに診てほしいんですけど……」


 流石に今日というわけにはいかなかったが、俺の切羽詰まった気配を感じたのかもともと空いていたのか、応対した女性は翌日の日曜、それも朝イチに予約を入れてくれた。


 何もすることがないので、土曜日はずっと家でごろごろとして過ごすことにした。心なしか気分は軽い。痛みは俺が慣れたのか何なのか昨夜がピークだったようで、飯を買いに行くくらいの元気が出てきた。まだあまり食べられなかったけれど。それに、夜はなかなか眠れなかった。痛みもさることながら、大人になって初めて歯医者に行くという事実に、少し緊張していたこともあるのかもしれない。


 そして迎えた日曜日。相変わらずまだ少し痛む歯と頬の腫れを引き連れて、俺は予約を入れていた医院へと向かい、初診のための問診票を記入して、待合室の席に腰をおろした。ようやくだ、と思ったその時だった。


「あれーっ先輩じゃないですか」


 げぇ、と俺は思う。職場の後輩だ。玄関を入ってきたところで、彼は俺に気がついて声をかけたきたのだ。後輩が通っていた歯医者もここだったのか。後輩は受付を済ますと俺の隣の席に腰をおろした。先日歯の自慢をした手前、最高に居心地が悪い。


「腫れてますね」


「……ああ」


「痛かったでしょう」


「……ああ」


 彼も先日俺が誇らしげに歯の自慢をしたことを思い出しているのだろう。後輩は少しだけ弾んだ声だった。お前、覚えていろよ。そんな俺の恨みのこもった声に気がついたのかどうか、後輩はすぐに声のトーンを抑えてこう言った。


「……ここ、きちんと治療の説明してくれますし良心的なとこですよ。あ、いや色々通っているわけじゃないので、他とは比べられませんけど。でもネットの評判も悪くないんですよ」


 あるいは、俺があまりにも落ち込んでいるを見てからかうのも悪いと思ってくれたのだろうか。後輩は俺を励ますようにそう言ってくれた。一方俺は、ネットの評判なんか見る余裕すらなかった自分に呆れた。まあ後輩がそう言うなら良い歯医者なのだろう。


「……ありがとう」


 その後は、職場の愚痴とかドラマとか、そういう当たり障りの無い話題で俺たちは数分程度だったが時間を潰した。


 名を呼ばれた俺が診療室に入ると、そこには初老少し手前くらいの、俺よりは年齢が上の歯医者が俺を待っていた。他人に口内をまじまじと見られるのは慣れていないが、仕方ない。少しどきどきしながら口を開け、診てもらう。


「親知らずが虫歯になってますね。大分進行しています。それが痛みの根本的な原因でしょう」


 器具を使いながら直接診てもらい、ついでに簡易なレントゲンも撮ってもらった結果、医者はそう診断した。ただ診てもらっただけで、まだ治療も何も始まっていないのに、俺はもうすべての問題が解決した気になり、肩の力が抜けた。思えば、原因が自分ではわからなかったのが一番の恐怖だったかもしれない。


「親知らずだったんですか……」


「そう。少し変に生えてきているので、歯を磨く時に上手くブラシが届いていなかったんでしょうね。それが虫歯になって、噛み合いの関係で歯茎を痛めることにもなって炎症も引き起こして。抜けば大丈夫ですよ。今日はとりあえずお薬をお出ししますから。次回、問題の親知らずを抜くようにしましょう」


「ありがとうございます」


 俺は深々と医者に頭を下げた。正直、怒られるんじゃないかと思ってたから、淡々とわかりやすく説明してくれた医者が神様に思えた。


 歯医者からの帰り道、俺の足取りは軽かった。抗生剤と鎮痛剤を処方してもらったし、いざまた痛みが襲ってきても今度は大丈夫だ。まだ少し痛みはあるが今夜はまともに眠れる。そんな予感と共に俺はアパートの部屋のドアを景気よく開け、帰宅した。そうだ。夜中に書いたあのメモを清書して、戯れに小説投稿サイトに投げてみるか、などと考えながら。


 当然、その小説のタイトルは──

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