第六章 15
「・・・・そんな風に言ってくれたのは、お前だけだ。やっぱり俺、お前を好きになれてよかったよ」
大嫌いな名前を良く言われて、思わず少女を強く抱きしめてしまう。
少し苦しいが、少女はそれだけ想われて抱かれることが嬉しかった。
「それで、お前の名前なんだけどな・・・・」
「ごめんなさい、急には思いつかないかしら?」
「いや、むしろそれしか思い浮かばないんだが・・・・それだと安直すぎるし・・・・・」
「シンプルなのはいいことよ?」
どんな名前でも嬉しいから。そう、少女の微笑みは男に伝えていた。
「・・・言語を変えた言葉で悪いが・・・」
また耳へと顔を寄せて囁く。今度は彼女のための名前を伝えた。
「・・・どうだ? 嫌なら今すぐにでも違うのを考える」
「・・・いいの? わたしがこんな名前をもらって? だって、わたしは貴方をこれから殺すのに・・・なのに、こんな名前を貰ってもいいの?」
「思ったんだが・・・お前は俺を殺さないよな?」
「えっ?」
「・・・俺を救うだけだ。殺すわけじゃない。そうだろ?」
どこまでも穏やかに、どこかに辿り着いた存在のような悟った表情だった。
「!?」
「だから・・・って、泣かないでくれ。せめて、俺がこうしてやれる間に泣き止んでくれ」
「違うの・・・貴方がそう言ってくれたことが、どうしようもなくうれしくて・・・・それで・・・・・」
それは、かつて少女が求めていた言葉だった。
昔の少女は、自分の行為は人間を肉体の苦しみから解放するためにしているのだと思っていた。やがて朽ち果てる肉体ではなく、永遠に生きられる世界へと案内することが仕事だと思っていた。人間も楽園や永遠を望んでいるのだから、きっと喜んでくれると思っていた。でも、違っていた。人間はあれほど死後の楽園や永遠を望んでいながら、いざその時が来ると現世での生を終えるのが惜しいのだった。何かとつけて否定し、嫌がり、罵倒してきた。
それでも、最後に報われて、救われるのならそれでいいと思っていた。例え忌み嫌われ、酷い言葉を言われ、突き放され、傷つけられても良かった。自分が否定されることで、彼らが救われるのならそれでよかった。だけど・・・当たり前だけど、現実はそんなに綺麗なものではなかった。
少女の信じていた世界など、初めから存在しなかった。
「でも、わたし達は・・・貴方たちを家畜のように扱っているのよ? それなのに・・・・どうして? どうしてそんな風にいってくれるの?」
「俺たちだってこの世でそうしているからな。だったら、お前たちと一緒だろ? それを非難する気は俺にはない。それに、俺はもう生きることを諦めた人間だ・・・・・そんな人間にしたら、お前は『今の』この世から救ってくれる・・・・天使以外の何者でもないさ」
微笑みを携えながら、男は少女を撫でていく。泣き止むように、抱え続けてきた苦しみが少しでも楽になるようにと祈りながら、その心まで慰めていく。
「・・・ありがとう。本当にありがとう・・・・その言葉をくれたのは・・・貴方だけよ・・・・」
泣けるだけ泣いたと思ったのに、男の心に触れられて、また涙が流れてくる。それはとても暖かくて、胸の中から溢れてくるようだった。
自分の言葉に反応した涙を見せられて、男は少女を労わらずにはいられなかった。
「・・・今までよく頑張ったな。ずっと、独りで苦しかっただろ?」
「・・・っ!」
こうやって褒めてもらいたかった。慰めて欲しかった。
頑張ってきて、結局はダメだったけど、それでもその頑張りを認めてもらいたかった。・・・・傷ついた心を慰めてもらいたかっただけの・・・・ただの甘えたがり屋だったのだ。
「う・・・ああっ・・・・わぁああああああああんんっっっ!!!」
悲しみでも、喜びでもなく、最後に残されていた、苦しみから解放された涙を流す。
あれほど男を信じていると言ってそう思い込んでいたのに、これまでの経験から最後になると、やっぱり拒絶されるのではないかという考えが、ほんの微かに浮かんでいた。そんな馬鹿で愚かで恥知らずな考えを、男はことごとく否定してくれた。初めから終わりまで、一貫して少女を受け入れ続けた。裏切り続けられた少女に、ただ一人裏切ることなく最後まで寄り添った。
人間に傷つけられてきた心を、同じ人間である男だけが慰め、癒してくれた。
「ごめんな。最後の最後まで泣かせて・・・本当はもっと早く言ってやりたかった・・・・」
「ぐすっ・・・いい・・・のっ! だって・・・・さいごじゃないと・・・・・ばかな・・・わたしは・・・・しんじられないから・・・・・っ! ほんとに・・・・ほんとに・・・・っ! わたしを・・・・・うけいれてくれたって・・・そう・・・・おもえるのは・・・・・・さいごのとき・・・・・だけだもの・・・・っ!」
「・・・打算的な人間で悪い」
謝るような口調に、首を振って否定される。そこからはもう何も言わず、ただ少女を抱きしめ、胸の中で泣かせていく。これで全ての涙を流し尽くして欲しいと、そう祈りながら少女を慰めていく。
もう少しだけ時間はあった。だから、その時間の限りは泣いて欲しかった。少女の涙を受け入れる存在として、最後はそう在りたかった。それが、人生から落第した自分が選んだ、最後の選択だった。




