第一章 3
「な、なにを言って―――」
心がざわつく隙間に、よく分からない言葉をかけられて混乱する。だから、それを否定しようと男に視線を戻して「そんなことはない」と言おうとするが・・・
「あ・・・あう・・・・っ」
男の穏やかで、愛おしそうなものを見る表情に言葉が詰まる。
思考はがんじがらめとなり、胸が動悸を起こしていて苦しかった。得たいの知れない感情だけが胸から湧き上がってくる。だけど、それはどこか心地よくもあって・・・・どう扱ったらいいのか分からず、遂には何も言えずに顔をまたそらして逃げてしまった。それでも、消え去るような声で最後に一言だけは絞り出す。
「ばかぁ・・・っ」
「ああ、知ってる」
それきり会話は途絶える。
少女は居心地が悪そうであっても、時が来るまで男の側からは離れようとはしなかった。
一方、男は黙って優しく少女を見守るのであった。
そんな何とも言えない、かけがえのない時間を二人は過ごしていった。
出勤の時間が来ると二人はすぐに動いた。
「やれやれ、今日も資本主義の奴隷として生きてくるか・・・」
「まって、ネクタイが曲がってるわ。なおすからじっとして・・・んっ・・と・・・・よし。あと、鞄を持っていかずにどうするつもりなの? それと携帯電話は持ったの? また前みたいに忘れていない?」
先ほどまでの戸惑いが嘘のように、少女が甲斐甲斐しく男の世話を焼く。
「大丈夫だ・・・・なんというか、毎度ベタベタなシチュエーションだな」
「そんなことはどうでもいいの。ほら、マフラーもして、身体をなるべく冷やさないようにしないと・・・今年は寒いのよ?」
背伸びをして男の首にマフラーをかけて巻いていく。すると男の手が素肌であることに気付く。
「ああ、もうっ! 手袋までしていないじゃない! ちょっと待ってなさい。今持ってくるから!」
「・・・なんというか、できの悪い子に手をやく母親みたいだな」
少女の背を見ながら、ふと漏らした言葉に一人苦笑する。
「こういうのも、いいもんだな・・・・昔も―――」
色あせた思い出に耽そうになったところで少女が戻ってくる。
「はい、ちゃんと着けなさいよ?」
「おう、ありがとうな」
「・・・なにをそんなに笑っているの?」
「時間が迫っている時のお前って、普段と違って声に張りがでるよな? そういうお前もいいなって思ってるだけだよ」
「・・・馬鹿なこといってないで、早くいかないと遅刻するわよ?」
「あ、ホントだ。また走って飛ばすか。んじゃまあ、行ってくる」
「・・・いってらっしゃい」
男を見送った後は朝の片づけや、洗濯物、掃除などをこなしていく。その作業を黙々とこなしながらも、少女の頭は雑念にとらわれていた。
(今日で彼と同棲して七日目・・・)
洗濯機を回して、コーヒーの残りかすを生ごみの消臭用(男が教えてくれた)に分けて、濾したフィルターはごみへと捨てる。
(いたって平穏・・・)
その後は食器を洗っていく。二人分のモノだけなのですぐに終わる。
(彼は変な人だけど、一緒にいるとなんだか・・・・そう、とても暖かい)
コタツの上にあるものを一度どかし、その後全体を拭いていく。
(それに、凄くいい人・・・おかしなわたしへ普通に接するだけでなく、優しくしてくれる。それだけでなく、わたしのしていたことを理解してくれた。わたしを・・・理解しようとしてくれる・・・・・)
変化の乏しい表情とは裏腹に―――少女自身は気づいていないが―――その内は人知れず綻んでいた。
(・・・・こういうの、なんていうんだっけ・・・?)
ふと自分の感情を思い出そうとして、拭いていた手が止まる。そこから数分してようやっと思い浮かぶ言葉があった。
「うれ・・・し・・い・・・・?」
呪いの言葉のように、恐る恐る口にする。
声にして、耳で聞いて、頭で考えて分からない。分からなくて首をかしげる。
(・・・・やっぱりわからない)
分からないのなら誰かに聞けばいい。そうなるとおのずと浮かぶ人物は一人しかいなかった。
(・・・彼に聞いたら―――何を甘えているのわたしは? そんなことを尋ねる資格、わたしにはないわ・・・・だから、わかる必要なんてないのよ・・・温もりだって・・・・本当は・・・・・)
芽吹こうとしていた懐かしい感情を潰す。その瞬間、溶けかけていた少女の内はまた凍りつくのであった。