君の隣を歩きたい、ただそれだけ。
「おはよう」から「おやすみ」までずっと一緒だった幼なじみが大人になって私の前に現れた。
五歳年上の彼は私にとってはお兄ちゃん的存在だった。子どものころは。
どんどん成長してかっこよくなっていく彼に早く追いつきたくて必死になっていた。走っても走っても彼の隣を歩くことはできなくて。
どうしても縮まらないこの距離がもどかしくてたまらなかった。
彼と同じ大学に行こうと決意した春。
彼が私の高校に新任教師としてやってきた。
「優華」
聞き慣れた低音が私の名前を呼んだ。
振り返ると新しいスーツに身を包んだ幼なじみがいた。
「涼くん」
出会いと始まりの季節に輝いて見える彼に反して、私は二年間着古された制服だ。この差が少し恥ずかしかった。
「教師になるって言ってたけど、まさか私の学校とは」
「俺も驚いた。制服似合ってるね」
「ありがとう。涼くんこそ、スーツ、かっこいいよ」
「ここでは先生」
「加賀谷先生」
「なんか、照れるな」
「自分から言ったのに」
スーツを着て教師をしている彼はとても新鮮だった。
私にとっては幼なじみなのに、ここでは一人の教師。
近いようで、遠かった。
教師と生徒。
隣を歩いているのに、彼は一歩先を行く。
隣にいるのに、手を繋ぐことはできない。
手を伸ばせば、届く距離なのに。伸ばすことができない。
彼は新任教師の中でも生徒に人気だった。身長が高く、見た目もいい。おまけに教え方は上手。
人気にならないはずがない。
生徒から質問攻めにされる彼のことは私が一番知っているのに。
人に教えることが上手なことは私がよく知っている。昔はよく勉強を見てもらっていた。
「涼くん。教えるの上手いから、先生になったら」
そう言ったのは私だった。
私の一言がなければ、きっと彼は教師になっていない。
ただのきっかけの一つに過ぎなくても、私の言葉が彼にとって重要だと思いたかった。
私が彼を教師へと導いた。
彼の周囲にいる女子に対して、そう言ってやりたかった。
あなたたちが彼と会えたのは、私のおかげ、だと。
でも、本当に言いたいのは。
放課後、女子生徒から解放されて一人廊下を歩く彼を見つけた。
そっと追いかける。
一瞬見えたその顔は少し疲れているように見えた。
彼の手を掴むとその表情は嘘のようになくなって、いつも見せる笑顔になった。
「涼くん」と言いかけて「先生」と言いなおした。
彼は笑って「ムリしなくていいよ」と言った。
私は掴んだ手を離したが、すぐ彼に捕まえられた。
周りには誰もいなくて、吹奏楽の演奏が響いていた。
彼に連れられて、階段を昇っていく。
「ねえ、どこいくの」
本当は繋いだ手のことを聞きたかった。
学校だけど大丈夫なのか、と。けれど、そう言ったら手を離されそうで言葉にはしなかった。
「秘密」
彼はそう答えたけれど、答えは分かっていた。
この階段を昇っていくとたどり着く先は、屋上だった。
彼よりも私の方がこの学校には詳しい。だから、屋上に入れないことは知っていた。名ばかりの屋上。鍵がしまっていて、生徒は立ち入りできない。そう、生徒は。
彼はジャケットから鍵を取り出し、扉を開けた。ごく自然に。
手は繋がれたまま私たちは外に出た。
春の風が頬を撫でた。
「初めて屋上来た」
「いいでしょ、教師の特権」
そう言って、鍵をクルクルと回した。
彼はリングでまとめられた鍵を一つ外して私に差し出した。
「はい、これは優華に」
「いいの? 」
新任教師がこんなことをして大丈夫なのだろうか。
疑問に思いながら鍵を受け取った。
「優華は人にやさしいくせに自分には厳しいから、いろいろ我慢してることあると思って。息抜きしたくなったら、来たらいいよ。ここなら誰もいないし」
「こんなことして涼くん、退職させられない」
「そういうとこだよ。人に気を使いすぎるとこ。今日だって、話しかけてくれなかったよね」
「涼くん、囲まれてたし」
「待ってたんだけどな」
「私がいかなくても、他にたくさん涼くんのこと知りたい人いたよ」
「俺は優華に知ってほしい」
「たくさん知ってるよ」
「ここ数年はあまり会えなかったし、優華が知らないことたくさんあると思うよ」
彼が大学生のころはあまり会えなかったのは事実。私が知らないことがあるのも事実。けれど、知りたくはなかった。
私が知らない彼があることを。
どこか遠くの人になったように感じる。
私が知らない時を過ごしたのだというのは少しさみしかった。
やはり、彼は大人で私はまだ子どもなのだと実感させられた。
「たくさん」
「知りたい? 」
知りたいけど、知りたくない。
知りたくないけど、知りたい。
この矛盾した思いを彼は感じたのか、「話長くなるし、また今度ね」と言った。
彼は私のことをやさしいと言った。
けれど、やさしいのは彼の方だ。
彼の隣を歩きたくて背伸びをする私に歩幅を合わせてくれる。
自分の力で彼の隣を歩きたい。
彼のそばにいたい。
もっと、彼に近づきたい。
ずっと、ずっと想っていた。
ポケットに忍ばせた屋上の鍵が私に勇気をくれる。
「何もなくても、いつでも俺を呼んでくれていいよ」
彼はそう言っていた。
何かあればではなく、何もなくても。
何もなくても、と言ってくれたのは彼のやさしさだ。きっと、私が気を使わないように。
けれど、学校で彼を呼び出すことはなかった。
仕事で忙しそうな彼に、何かあっても呼び出すことはできなかった。
廊下ですれ違ったときに目を合わせてくれるだけでよかった。
大勢の生徒の一人として、彼に勉強を教えてもらうだけでよかった。
彼の負担にはなりたくない。
そう思って鍵を使ったのは一回だけだった。
あまり話したことがないクラスメイトと一緒に初めて授業をさぼった。細川玲弥くんとは関わりがなかったのに、その日をきっかけにたまに話すようになった。
彼のことが気になったのはきっと、同じ想いを抱いているから。
届かぬ想いに身を焦がしているから。
一緒にいると心が救われる気がしていた。
片想い同盟。
そう勝手に思っていた夏の終わり。
「高橋さんは何学部目指してるの? 」
模試の結果が返ってきて、教室の空気がずっと重くなる。夏休みの成果を発揮する最初の模試だった。みんな結果がよくなかったのだろう。
私もため息をつきたくなるような結果だった。
休み時間になると逃げ出すように細川君と廊下に出た。窓際に並んで、外に目を向ける。
彼は模試のことには触れずに話を振ってきた。
「教育学部かな」
「教師になるんだ。中学? 高校? 」
「高校かな」
「すごいな、ちゃんと将来のこと考えているんだ」
「細川君は」
「俺は、特になにも。夢とかないし」
「でも、大学には行くんでしょ」
「一応ね、俺のことより高橋さんの話聞きたいな」
細川君はそう言って目を合わせた。
「え、私? 」
「そう」
何となしに外を見ていると渡り廊下を歩いていく涼くんの姿が見えた。
「涼くん」
細川君といることを忘れて声に出してしまう。
「涼くん? 」
「ううん、何でもない」
慌てて首を振った。
下の涼くんがこちらに気が付いたようで、足を止めて視線をこっちに向けている。その姿に細川君も気が付いたようだ。
「あれ、加賀谷先生だよね」
「そうだね」
まだ彼は「涼くん」が「加賀谷先生」だと気が付いていないことを祈り、そっけない返事をした。
「加賀谷先生の下の名前って」
「……」
「高橋さんの好きな人って、先生? 」
「秘密だよ」
手で口を覆って、息を吐いた。
下を見るともう涼くんはいなかった。
「先生とは知り合いなの? 」
「幼なじみで。もう、いいかな」
好きな人を知られたことが恥ずかしくて、この話題から抜け出したかった。
「俺も好きな人のこと話したんだから、お相子」
そう言って笑った彼にほだされた。
細川くんと話している間は、嫌なことも忘れられた。けれど、家に帰って一人になると現実がつきつけられる。
机の上に広げた模試の結果を再度見る。E判定の文字が連なる。
机に突っ伏すと同時にドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
気分が沈んだときの低めの声が出た。
「優華」
その声は。
「涼くん」
聞こえるはずのない声の主に驚いて、体を起こす。
「模試の結果悪かったの? 」
「なんで、涼くんが」
「ん、家庭訪問」
涼くんはスーツではなく、私服だった。どう見ても家庭訪問の姿ではない。
「うそだ」
「うん、うそ。優華が落ち込んでると思って、特別。幼なじみ訪問」
忙しい時間を縫って、彼が来てくれたことがうれしくて。
特別と言ってくれたことがうれしくて。
けれど、幼なじみという言葉に敏感に反応してしまう自分もいた。
「彼は気が付いていないみたいだったけど、俺は気づいたよ」
「彼」とは細川くんのことだろう。
「細川くんは私を気遣って、教室から連れ出してくれたんだよ」
「細川くんって言うんだね、彼」
「うん」
「いつの間に仲良くなったの? 」
だんだんと彼の声が険しくなる。
「こないだ。涼くん、なんか機嫌悪い? 」
「優華と仲いい異性は俺だけだと思ってたから。妬ける」
「妬けるって。どうしたの」
「ごめん。今のなし」
彼はそう言ってごまかした。
涼くんは私のことを幼なじみだとしか思っていない。これが事実なのに、彼の言葉に浮かれてしまう私がいた。
卒業式のあと、一人屋上に向かった。ポケットには一回しか使わなかったここの鍵が入っている。
涼くんに鍵を返して、すべて終わりにしようと思っていた。
彼に想いを伝えたら、フラれて終わり。
そう思っていたのに。
フラれる覚悟はできていたのに。
彼から紡がれた言葉は予想外のもので。
この未来は想像できていなかった。
冬の寒さが残る季節に。
学校の屋上で。
幼なじみの新任教師は。
「結婚しよう」
よく通る声で言った。
その言葉に即座に反応できなかった。
「優華、俺と結婚してくれませんか」
再び放たれた彼の言葉に我に返る。
「はい」
「よかった」
涼くんは息を吐いて、空を仰いだ。
「なんで。涼くん。私のこと」
頬に雫が流れた。涙が止まらなかった。
「好きだよ」
涼くんが言った。
その声はとても優しくて、とても愛おしかった。
「順番逆だよ。私も涼くんのことずっとずっと好きだよ」
高校とは今日でさよならだけど、涼くんとはさよならではないことがなんだか変な感じがした。同時にうれしくて、信じられなかった。
人はうれしいときにも涙が出るのだと初めて知った。