やさしい君に恋をする。
想いをつたえることなく僕の恋は終わりを告げた。高校三年生の夏の終わり。
エアコンという文明の機器はついていない。カタカタと音を立てる扇風機が首を振っている。窓を全開にしていても入ってくるのはグラウンドで体育の授業をしている声だけだ。
チャイムが緊張感の漂う授業の終わりを告げた。教科書をカバンに片付ける音と椅子を引く音、少しの話し声が交わる。多くの生徒が昼食をとりはじめるなか、別の教材を開き勉強を続ける生徒がいる。国公立進学クラスのなかで特に意識が高い人たちだ。彼らの存在がこの教室に休息を与えてくれない。
昼食を返上してまで勉強する気になれない玲弥は無造作に教科書をカバンにしまった。代わりに弁当箱を机に出す。
「細川君」
玲弥が弁当を広げようとしたときだった。響きのよい透きとおった声が聞こえた。顔を上げるとそこには両手で数十冊のノートを抱えた高橋優華が立っていた。
おそらくクラス全員分のノートだろう。華奢な彼女には不釣り合いな荷物だ。
「ノート、出してくれる」
さっきの授業で教師が夏休み課題のノートをあとで回収するように言っていたことを思い出した。
ノートを机の引き出しから取り出す。高橋が持つノートの束の上に重ね、そのままノートの束を持ち上げた。
彼女は首をかしげて玲弥を見た。
「お昼食べたいだろ」
高橋は渋ったが、最後はお礼を言って席に戻っていった。
中身の詰まったお弁当箱を机に残し職員室に向かった。教室も廊下も対して暑さは変わらなかった。ノートの束を担当教師に提出する。
「高橋はどうしたんだ」
高橋ではなく玲弥がノートを持ってきたのを見て教師が言った。
「俺が代わりに持ってきました」
「そうか、ご苦労さま」
失礼しますと頭を下げて職員室を出た。
このまま息が詰まるような教室に戻りたくはない。そう思って、中庭の方に目を向けたのが運の尽きだったのかもしれない。いずれ知ることになるのだから、いつ知っても変わりはなかったのに。
ふと、目をやった先には見慣れた後ろ姿があった。たとえ、後ろ姿であっても彼女を見間違うはずがない。好きな人のことを。
三年生になってクラスが離れたせいかなんだか懐かしくさえ思えてくる。
「志紀」と、思わず声をかけそうになった。志紀の他にもう一人いることに気づいた。彼女の幼馴染、山中絢斗だった。
志紀と山中とは一年生のときに出会った。去年まではよく三人で一緒にいたのに、クラスが離れてからはあまり三人一緒にいることは少なくなった。クラスが離れたからというのは言い訳だろうか。志紀が山中のことを好きだと知ったのも今年の春だったというのは偶然だろうか。
志紀に想いを伝えることなく、彼女の相談に乗りつづけた自分のせいだろうか。
二人が一緒にいるところを見たくなかった。今すぐにこの場を去ってしまいたかった。空気の重い教室でもここよりはずっと楽だろう。けれど、足が動かなかった。二人から、志紀から目が離せなかった。
何を話しているのか。蝉の声で聞こえない。
志紀の後ろ姿と山中の表情。
山中は何か話して、志紀に顔を近づけた。志紀の顔は見えない。けれど、山中が志紀にキスしたことは分かった。
二人はつき合ったのだと。志紀の想いはかなったのだと。
その事実だけがそこにあった。
蝉の鳴き声が止んだ。
志紀の話し声が遠くから聞こえるが、頭が真っ白でなにもわからない。ただ、志紀が恥じらいながらも嬉しそうな様子が伝わってくる。
音を立てないように足を動かす。さっきまで、動かなかった足は嘘のように軽かった。
歩いていたのが早歩きになりスピードを上げ、走っていた。教室には戻りたくなかった。階段を駆け上がり行けるところまで上った。屋上へ続く扉の前で足を止めた。ドアノブを回しても扉は開かない。そのまま階段に座った。
窓なんてなく空気がよどんでいる。額に汗が伝うのがわかった。早く教室に戻らないと昼食をとる時間が無くなってしまう。そんなことはわかっていた。ずっと好きだった人のキスシーンを見たあとに勉強に励むことなんてことできそうにない。
志紀と山中がつき合っているなんて知らなかった。いつの間に。いつの間に。何も言ってくれなかった。異性のなかでは一番仲が良かったと感じていたのは僕だけだったのか。
「あーあ」
好きだったのになあ。
ふっとこぼれた本音は誰もいない踊り場に反響した。
性別の壁なんて関係ない友達はいなかった。友情はいつしか片想いへと姿を変えた。友達として好きな人と接するうちにその想いはひっそりと姿を隠した。心の奥にしまい込まれる。想いが伝わらなくてもこのままの関係でいられたらそれで十分だと思っていた。志紀に彼氏がいるとわかるまで。
失恋の引き金が引かれた。今更告白しても意味がないのに今になって実感する。志紀のことが好きだったと。とても好きだったと。俺の恋は静かに終わりを告げた。
チャイムが聞こえた。昼休みが終わり五時間目の授業が始まる五分前を知らせる音色だ。
もう教室に戻らないと次の授業に遅れてしまう。立ち上がる気にはなれない。動きたくなかった。けれど、暑さの限界でもあった。
教室に戻ろうかと思ったときに階段を上る足音が聞こえた。
なんとなく身構える。
足音が近くなる。
現れたのは高橋さんだった。
「細川君。見つけた」
高橋は玲弥を探している様子だった。
探される覚えのない玲弥は首をかしげる。
「高橋さんこそどうして」
「それはこっちの台詞だよ。全然戻ってこないから探してたんだよ」
高橋は少し怒りを含んだ声で言った。けれど、その表情に怒りは見えない。
「探したって、なんで」
「ノート代わってもらったんだから。戻って来なかったら気になるでしょ」
当たり前のように言った高橋の言葉に玲弥の心が揺れた。
「気にしなくてよかったのに」
「ありがとうって言いたくて」と彼女は笑った。
お礼ならさっき聞いたのに。
「なんでここがわかったの」
ここなら誰も来ないと思ったのに。
「屋上にいるかと思って」
細川君、苦しそうな顔してるから。こんなときって屋上に行くんでしょ、普通。と、言った彼女がなんだか可笑しくて声が漏れた。高橋もつられて笑った。
彼女の笑っている顔を見たらさっきまでの憂鬱な気持ちが晴れるようだった。
「そういえば、なんでこんなところにいたの」
高橋の言葉を無視して「早く戻らないと授業始まるよ」と返す。
「それは君もでしょ」といたずらっ子のように笑った。
「俺はいいの」
「何言ってるの。受験生なのに」
「一時間くらいさぼっても平気だよ」
「じゃあ、私も」
立っていた高橋さんは隣に座った。約三十cmの距離を空けて。
「高橋さんは戻りなよ」
「なんで」
彼女は首をかしげて聞いた。
「なんでって」
受験生だから、さぼったらダメだろ。なんて言葉は言えなかった。
高橋さんはくすっと笑って「一時間くらいさぼっても平気だよ」と言った。その顔はとても可愛かった。気を緩めると「可愛い」と声に出してしまうくらいに彼女に癒された。
そうだな、と頷く。
二度目のチャイムが鳴った。下から聞こえてくる喧騒が収まった。授業中の静けさと夏の音だけが聞こえる。
高橋さんが手でパタパタと顔を仰いだ。彼女の額に汗の粒が見えた。
「暑いな。場所移動しようか」
玲弥の言葉に反応したように彼女はスカートのポケットに手を突っ込み、中から何かを出した。その何かは鍵だった。彼女はそれを玲弥に見せて言った。
「屋上、行ってみない」
彼女が持つ鍵は屋上の入り口の鍵のようだった。なぜそんなものを持っているのかと聞くと彼女は人差し指を口に当てて「秘密」と笑った。
彼女は扉の鍵を開け、重そうにしながら扉を押し開けた。柵に近づいてグラウンドを見下ろす。グラウンドでは体育の授業が行われていた。規則正しくそれでいて、少し崩れた人の集まり。風が吹いた。
「細川君。気持ちいいね」
高橋さんの髪が揺れた。彼女は手で髪を押さえた。
「話、聞くよ」
彼女は全て知っているかのような口ぶりだった。
「俺さ、失恋したんだ」
何の前置きもなく話し始めた。
「だから、暗い顔してたんだね」
「さっき、キスしてるとこ見て。彼氏がいること、初めて知ったんだ」
「うん」
彼女の声が隣から聞こえる。柵の向こうに広がる住宅と緑のその奥を見る。遠く。ずっと遠く。
「好きだったんだ」
「うん」
「すごく。隣にいられたらそれでよかったはずなのに……今はあいつの彼氏になりたい」
玲弥と彼女は恋愛相談をするような仲ではなかった。もっとも一緒に授業をさぼる仲でもない。ただのクラスメイトだった。それが今日、少し変わった。二人の距離が少しだけ。いや、三十cm近づいた。
それ以降、教室が少し和らいだ気がしたのはなぜだろうか。
失恋の痛みは高橋さんを見ると少しずつなくなっていった。
「おはよう、細川君」
彼女の声が妙に心地よかった。
「おはよう」
「元気そうでよかった」
「ああ、昨日はごめんね」
同じクラスになって半年が経つというのに、彼女と正面から話したのは昨日が初めてだった。そんな人の失恋話を聞かせてしまった。
「ううん。私でよければ、話いつでも聞くから」
「高橋さんは優しいね」
「私も細川君の気持ち、わかるから」
その声は少し辛そうで、彼女にも思いを寄せる人がいるのかと思うと何とも言えない気持ちになった。
高橋さんが好きだと気づくのにそう時間はかからなかった。志紀への恋に敗れた傷は彼女といることで癒されていった。
好き。
そう伝えることはいつでもできたはずだ。志紀のときと同じ後悔はしたくない。そう思っていたのに。
受験生だから。彼女の負担になりたくない。
などと言い訳をして、この気持ちを伝えることなく時が過ぎていった。
時間は容赦なく流れていき、冬が来て春が来た。
高校の卒業式。
これが最後だと。彼女に想いを伝える最後のチャンスだと。
心には決めていた。
けれど、その決意は簡単になくなってしまう。
嬉しそうに涙を流す彼女を見たから。
彼女の目線の先には彼女の好きな人がいた。
髙橋さんのことずっと見ていたから、彼女が誰を好きだとか分かっているはずだった。
彼女が好きな人は僕じゃないことは初めから分かっていた。
僕と彼女の関係は片想い同盟だったから。
彼女は僕がまだ志紀のことを想っていると勘違いしている。そして、彼女は別に好きな人がいる。お互いの恋の相談をする関係。ただ、それだけ。
それだけだった。
けれど、とめどなくとめどなく流れるこの涙は。
彼女の恋が実ったとしても。
まだ、僕は彼女のことが、高橋さんのことが好きだという事実がそこにあるから。
この気持ちを知られないように彼女の前から姿を消した。