日の花には羽がつく
百合です。
「ヒサ、見てごらん」
狭い木板の上をコトコトと歩いていたら、そう言って立ち止まり、彼女は空を見上げた。
黒いキャップのつばで隠れていた優美な顔がよく見える。
うだるような暑さのためか、頬に一滴汗がついていた。少し茶色いセミロングの髪は、水色のシュシュで纏められ左肩から垂らされていたが、鬱陶しくなったのか後ろへと追いやられた。その拍子に頬の雫は顎から首筋へとつたっていき、鎖骨の間を抜け、胸元へと垂れていった。
慌てて視線を戻し、そのどこか扇情的な横顔を見ながら『ああ、彼女でも汗をかくのか』と、なんとも的はずれなこと考え、ぼんやりとその美しい顔に見惚れる。
私が画家なら、今この瞬間の彼女を、白いキャンバスに閉じ込めたいと思うだろう。ひまわり畑を背にした彼女の真っ白なワンピース姿は、さぞ画欲がそそられるはずだ。
ただし頭の上はストローハットではなく、ただのキャップだが。
彼女は私の視線に気づかないのか、目を細めて空を見ている。
ややあって、私が空を見ていないことに気づき、彼女の茶色い瞳が私を映した。
「私を見るのではなくて、空を見なよ。見られるのは、今のうちだからね。見るときは、太陽から少し目を逸らすんだよ」
「あ、うん。ごめん」
言われて私は空を見上げる。
眩しい。
うっすらと霧のような雲に覆われているとはいえ、真夏の太陽の光はどこか攻撃的に感じる。そんな太陽を囲むようにして円い虹が出来ていた。
「ハロだよ」
彼女は再び目を空に向け、そう言葉を発した。私の目はその声につられ、彼女の横顔へと引き戻されてしまう。
「ハロ?」
「そう。日暈とも言うね。こういう薄い雲がかかっている時、光の屈折で偶に見えるのさ」
彼女は博識だ。
私が知らないことをよく知っているし、私が知っていることも当然のように知っている。偶に、彼女はこの世の全てのことを知っているのではないかと錯覚してしまう。
「太陽の傘ってこと?」
私が自分に不釣り合いな、白い“日傘”を太陽に少し掲げると、彼女も日傘へと視線を移した。
「違う違う。暈というのは、ぼんやりしているという意味さ。眩暈とかの字に使われるね」
『めまい』と言われても、私には字が思い浮かばない。
「まあいいさ。ほら、綺麗だろ?」
彼女は私が理解できないことを察したのだろうが、『めまい』の字まで説明する気はないらしい。再びその双眸を空へと移した。
私も仕方なくそちらを見遣る。
確かに綺麗だ。
よくテレビで太陽が映ると、こう、菱形みたいな点と輪っかみたいな光が出るけれど、ああいうのとは全然違う。虹色の輪が綺麗に太陽を囲んでいるこの光景は、どこか非現実的で幻想的だ。
「ヒサと一緒に見られるとは、私は運がいい」
「?」
「お日様の周りを虹が囲んでいるから、大きな花が咲いているように見えないかい?」
「花?」
「そう、日が咲いている、と言えばわかるかな?」
「……」
「あいたっ」
私は恥ずかしくなって、彼女のむき出しになっている二の腕を軽くはたいた。
彼女はリアリストのくせに、どこかロマンチストだ。
ちょっと周りの目が気になって辺りを見渡す。他に来ている見物客たちは思い思いに写真を撮っている。私達は眼中にないようだ。
私も写真の一枚でも撮ろうかと肩から下げているトートバッグに手を入れたが、彼女との約束を思い出し思い留まる。スマホを掴むはずの手は所在無げとなり、代わりに色気のないベージュ色のタオルハンカチを取り出した。
さて、どうしようか。
取り出してしまったからには使ってやらなければ可哀想だ。私の汗を拭いてもいいが、どうせなら彼女の汗を拭いてあげよう。私なんかより彼女のために使われたほうが、このハンカチも本望だろう。
ハンカチを彼女の顔に持っていくと、彼女は私が汗を拭いてあげようとしていることに気が付いたのか、目を閉じた。
その長い睫毛を見ると、今さらながら自分がやろうとしていることが恥ずかしくなってきた。汗を拭いてあげるだけのはずなのに、どこかイケないことをしている気持ちになってくる。
ただ、既に彼女の顔に持ってきている手前辞めることはできないので、額、頬、首筋と軽く押しあてるように拭いてあげると「ありがとう」とお礼を言ってくれた。なんとも自然な微笑みを向けられ、ただでさえ火照っている体は更に熱くなった気がした。
「自分に使わなくてよかったの?」
「うん、大丈夫」
「そう。じゃあ、ヒサの汗は私が拭いてあげよう」
そう言うと、彼女は持っていたお洒落なポーチから真っ白なハンカチを取り出し、私の顔へと持ってくる。
「あっ、ダメ、汚れちゃうから……」
私の制止も虚しく、彼女の綺麗な白色のハンカチは私の汗を吸い込んでしまった。
布越しとはいえ、彼女に肌を触られているのがなんとも恥ずかしい。
「ご、ごめん……」
「そこは『ありがとう』だろ? まあ、そういうところがヒサらしくて、私は好きだけどね」
「ぅ――」
「ははっ。そうやってすぐに照れるところも、大好きだよ」
彼女はカラカラと笑い「これでおあいこだ」と言って、灰色の染みが出来たハンカチをなんてことなかったかのようにポーチに仕舞う。何か言い返したい気もするが、私は彼女の前では頭も回らなければ口も回らない。
少しして、太陽の周りにあった虹は消えていった。見物客も観賞対象をひまわり畑へと戻し、スマホだったり大きなカメラだったりで写真を撮っている。私たちのすぐ側のカップルは、自撮り棒を使って写真を撮っている。なんとも羨ましい。
私も出来れば彼女と写真を取りたいとは思うのだが、そうすると彼女はもう私とは会ってくれない。写真は厳禁というルールが課せられているからだ。
どうも彼女は刹那主義らしく、この一瞬一瞬を楽しむのが好きらしい。彼女は過去も未来も、さして興味がないようだ。凡人の私にはいまいち分からない。
ひとしきり見て回り、ひまわり畑から無機質なアスファルトのほうへと足を向ける。
木道は狭く、すれ違うのが大変なので歩くときは自然と一列になる。私は彼女の白い背中を眺めながら視線を下へと向ける。ワンピースの裾は膝上のため、綺麗な膕からほっそりとした脹脛、キュっと締まった足首までよく見える。実にきれいな曲線美だ。そのまま足に目を向けると、彼女が履いている白いミュールには土が付いていた。なぜかその土が憎たらしく感じる。
「段差があるよ。気をつけて」
先に道路へと出た彼女は、そう言って手を差し伸べてくれた。
どこぞのお嬢様というような風体の彼女に手を差し伸べられるとは、正直立場が逆だろうと思う。
ただ、さっさと木道から出てやらなければ後ろが閊えるかもしれないので、仕方なく彼女の手をとり、私もアスファルトの上へと移動する。
ん? 手が離れない。
いや、私は手を離したと思ったのだが、彼女はそのまま私の手を握っている。
「アスファルトの上は、ひまわり畑の中より暑く感じるね。私も日傘に入れて貰えるかな」
と、手はそのままに、肩を密着させるようにくっついてきた。
しっとりとした手のひらと、少し汗ばんだ腕が密着し、なんとも恥ずかしい。
日傘うんぬんより、くっついている方がよっぽど暑いと思うのだが、それを指摘できるほど私の頭は働いていない。
まさか雨でもないのに相合い傘をするはめになるとは思わなかった。しかも傘を持っている手は彼女とは反対の手なのだから、なんとも不格好になってしまう。
顔から火が出そうな私は、せめて周りからの視線を隠そうと、日傘をやや前よりに傾け、なけなしの抵抗を試みる。
手がこそばゆい。
彼女は私の指の間に、自分の指を入れようとしている。
この状態でそこまでやるのか。
さては私を殺す気だな? 私の体はすでにオーバーヒート寸前だぞ。これ以上は命の危険がある。
頭ではそんなことを考えているが、私の手は自分から指を少し開き、彼女の指を受け入れた。お互いの指が交互に絡まり、恋人繋ぎの完成だ。
おかしい。私の手のはずなのに、私の言うことが聞けないとは。どうやらすでに私の頭はこの暑さでやられてしまったらしい。
彼女の体温が直に伝わり、汗と化粧の匂いが入り混じってなんとも言えない気分になる。
「どうしたんだい? 顔が真っ赤だよ? 汗も凄いね。また私が拭いてあげようか?」
彼女はそう言って上目に私を見てくる。
頭も体も限界に近い私と違って、随分余裕そうに微笑む彼女が実に恨めしい。
「……大丈夫。早く休憩所に行こう」
「ふふっ。ではそうしようか」
早く休憩所に付いて欲しいような、ずっとこのままでいたいような、なんともふわふわとした気持ちになる。
結局、休憩所に着く直前まで、私達は密着したままだった。
「あー。涼しい……」
外との気温差が凄まじい。冷房がよく効いていて天国のようだ。
とりあえず空いている席に座る。小さいテーブルを挟んで椅子が二つ。よくある二人席だ。
腕をだらんと垂らし、足もぐてっと伸ばして虚空を見つめていると、彼女が飲み物を買って来てくれた。
「ははっ。軟体生物にでもなったのかい?」
「気分はそんな感じ……。あ、ごめん、ありがとう」
彼女からスポーツドリンクを受け取り、一緒に飲み始める。
私はゴクゴクと、彼女はコクコクと。
飲み方一つとっても実に綺麗だ。羨ましい。
彼女は帽子を脱ぐと、私に渡してきた。
私に“返した”といったほうが正確か。どうやら今日はここまでらしい。
私は椅子の横に掛けていた日傘を彼女へ渡す。
彼女は何故かいつも持ち物を交換したがる。
理由は分からない。それも彼女なりのルールらしい。
私はボディシートを取り出し、自分の腕や首まわりを拭いていく。拭いたあとに冷房の風があたって心地いい。彼女にもシートパックを渡すと「ありがとう」と言って一枚取り出し、同じように拭いていった。
スマホを取り出し、時間を見る。バスの時間まであと三十分といったところか。
手持ち無沙汰となり、ぼんやりと窓の外を眺める。
ん?
「ねぇ、またハロが出てるよ」
「そう何度も出るものじゃないよ。……おや?」
彼女も窓から空を見上げる。輪っかではないが、虹色の光が太陽の横についている。
「珍しいこともあるものだ。あれは彩雲だね」
「彩雲?」
「ああ。これも光の屈折で偶に見ることができる。一日にどちらも見れるとは、今日は本当に運がいい」
そんなに珍しいのか、彼女は上機嫌だ。
彩雲は太陽の左右にあって、なんとなく羽のように見える。
「ねえ、彩雲っていうの太陽の左右にあって羽に見えない?」
「羽?」
「うん。お日様の羽」
「……」
「いてっ」
頭を叩かれた。先に言ったのはそっちなのに。
まぁ私も彼女を叩いたか。偶にはこうして意趣返ししても許されるはずだ。
いつも澄ましている彼女の耳が赤くなっていて実に愉快だ。可愛い。小柄なこともあって抱きしめたくなる。
この彩雲というのは大層珍しいのだろうが、目の前の彼女が照れている仕草は、それより珍しいだろう。今なら写真も許されるだろうか。
……いや、そんなことはないか。
写真を取らなくても、私の目に、脳に、彼女を焼き付ければいい。私だって今を生きている存在だ。彼女と何一つ変わらない。
「ヒサ、明日は温泉に行こう」
「温泉?」
いつもの冷静な彼女に戻ったと思ったら、突然そんなことを言い出した。
「そう。温泉だ。暑いとサッパリしたくなるだろ?」
「まあ、確かに」
「決まりだ。行く場所は今日の夜に連絡する」
「分かった」
どこかに行くときは必ず彼女が決めるし、連絡も彼女からだ。
彼女は自分ルールを作るが、それは彼女なりに今を大切にしているということだ。
私は、そうして彼女が作ってくれた今を大切にしていく。
明日になれば、明日の今を。
明後日になれば、明後日の今を。
私達は、そうやってお互いの今を生きていくのだ。