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まだ薄暗いがいつもの習慣で直樹は六時前に目が覚めた。が、すぐに起き出さず岡山でのことも思い返していた。
オペラの会場で一人でいた緋紗は最初から直樹の視界になんとなく印象を残していた。若い女の子なのに『おひとり様』かと思った程度だったが、適当に入ったバーで隣に座られた時は少し驚いた。朧げな回想に思わずまた目を閉じてしまうところだった。素早く起きだして作業服に着替え階段を降りる。
「おはよう」
母の慶子はもう台所で朝食の用意をしていた。
「あら今日はちょっと寝坊?休みボケかしら?」
「かな」
林業は肉体労働だ。もう就いて五年目だがつらい時はつらい。こうやって毎日、森へ向かえるのは母のサポートのおかげも大いにあるだろう。
直樹は大学を卒業後、県内の大手建築会社の営業職に就いた。特にそれがやりたかったわけではないが周囲の勧めと負担の少なさがなんとなく直樹を向かわせた。働いている間、他に何かやりたいことを考えていたわけではないが、気が付けば林業に関心を寄せていた。そして二十八歳で林業組合に転職した。年収は下がり、付き合っていた彼女には振られたが、直樹にしてみればやっと生きている実感が湧いたのだった。
「ごちそうさま」
食器をさげて身支度に向かった。今の作業場は車で十五分程度で七時に出ても間に合う。しかし直樹は森に呼ばれるように支度が出来次第向かった。
「お弁当とお茶できてるわよ」
「母さん、ありがと。いってきます」
弁当と水筒を持ち車に乗り込んだ。持ち物は食事くらいで食べることができればそれでよかった。舗装された山道を少し上って現場に着く。いつも早めに来ているのだが絶対に一番は最年長の望月だ。
「おはようございます」
「おう。早いな」
望月は定年で一度離職したのだが山から離れることができず、再就職した。定年後の再雇用ということで収入は大幅に減るし、しかも林業は体力もさることながら危険度も非常に高い職であるため望月の家族は大反対だったらしい。しかし山でほとんどの時間を過ごしてきた望月から山を取り上げることはできなかった。またこの仕事に戻ってきた時に、
「これで思い残すことはない。いつでも死んでいい」
などと言い組合員みんなから、「頼りにしてるんだからまだまだ死なないでくれ」と、大歓迎された。
直樹にとって母が生活の面で支えなら仕事の面での支えはこの望月だ。彼が再就職してくれて心からよかったと思う。初めてこの世界に飛び込んだ時から可愛がられた。また山に対する畏怖などの精神性も教えられた。直樹にとっての『師』は望月だった。今日も引き続き間伐だ。毎日同じ作業であっても同じ状況とは言えない。山は刻一刻と変わる。どんなに人が技術を高め精度の高い方法で臨んでも、その日の山の機嫌でそれらが幼子のようなものになってしまうこともあるのだ。
「山は征服するもんじゃないよ」
登山家に反するような望月の口癖だ。最初、直樹にはよくわからなかったが今なら言わんとすることがなんとなくわかる。木を一本切り倒して上を見上げると青い空が見え光が地面を刺した。集中して作業をしているとあっという間に夕方だ。
「講習行っただけあって今日はうまいじゃないか」
望月のほめ言葉に嬉しく思う。
「また来月末、広島にいって勉強してきます」
「そうか。勉強はできるときにした方がいいな」
望月は機嫌よく頷いた。
夕焼けが今日も素晴らしい。――赤い。緋だすきみたいだな。
緋紗のことを思い出しながら家路についた。
明日は大友との約束の日だ。緋紗にとってここ一ヶ月、短いような長いようなよくわからない期間だった。ここの所の仕事は窯出しと作品の仕上げだったので、大友のことをぼんやり考えていても、なんとかこなせた。ただ、もうそんな仕事の仕方はよくない。
明日の準備をしてすぐに家を飛び出せるようにしておく。帆布のトートバッグとグレーのハイネックのカットソーと黒のミモレ丈のフレアスカートを出しておいた。
ファッションにあまり関心がない緋紗は無彩色の服が多い。仕事柄、粘土と灰にまみれていると余計に無頓着になってくる。更にいまはまだ、大友に自分をよく見せたいという気持ちが薄いからなのだろう。とりあえずのTPOを考えるのみだった。興奮するが悩むことのない緋紗はすぐに寝息を立てた。




