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夏の繁忙期も終わり、少し秋風を感じるようになってスカーレットオークがほんのり紅葉し始めた頃、小夜子が倒れた。
「あら。来てくれたの」
少し痩せた小夜子が見舞いに来た直樹に笑いかけた。身体を起こそうとする小夜子を直樹は支えた。(軽い)
倒れたときにはもう手遅れで癌はまだ若い小夜子の身体をあっという間に蝕んだ。延命治療は拒み、最後の時間は自宅で過ごしたいという強い希望で退院してきたのだ。
ペンションはしばらく休業する。小夜子は反対したが和夫は仕事をする気分にはなれなかったし、笑顔で接客することなど到底無理だった。今は緋紗の陶芸教室だけ機能している状況だ。緋紗も陶芸教室を休もうかと提案したが、子供の明るい声や賑やかさがペンションを明るくするし、幼い和奏への暗い不安な気持ちを感じさせたくないという希望から休むことなく続けられている。
「和夫はああ見えてデリケートな人でね」
相変わらず女王様として凛とした態度を崩さず、小夜子は微笑みながら言った。
「男はみんなデリケートですよ」
「そうね」
小夜子は和夫との出会いを思い出していた。
――これからという時にピアニストの小夜子は手を痛め、演奏家としての道が閉ざされた。些細な怪我かもしれないがピアニストとしては致命的だった。ピアノへの執着と絶望感とプライドを保つため、慈善事業のつもりで福祉施設で演奏活動を始める。福祉施設には様々な年代の様々な症状を抱えた人がいた。最初は全くやる気が出なかった。――クラシックのクの字も知らないような人が私のピアノを聴いてどうするのか。
そんな現状を知らないかつての仲間は褒め称えるが、小夜子にとってステージ上から下を見るような憐れみの賞賛にしか感じられなかった。
ある時慰問した福祉施設で設置してあるピアノを見て愕然とする。調律はおろか手入れも掃除もろくになされていなかった。(これピアノなの?)
古びた黒い木の箱にしか見えなかった。壊すくらいの勢いで弾いた。(どうせ誰も聴いていない)
今までの鬱憤を晴らすようにピアノに当たり散らした。何を弾いたのかさえ覚えていないくらいに。自分の指にさえ注意を払わなかった。体力の限界を感じて演奏を終えたとき大きな歓声に包まれる。(え?)
今までで一番大きな拍手をもらった気がした。観客を見るとベッドに横たわっているまま恍惚としている人、ぼんやりと空を見るような目で涙を流している人もいた。目を閉じることを忘れていたかのように目を充血させながらずっと小夜子を見つめている人もいた。
自分で身体を抱きしめて震わせながらむせび泣いている人もいた。
一部の心も身体も知性も奪われていて到底まともに評価などできないだろうと思っていた小夜子には、初めて人には魂があるのだと感じる。気が付くと小夜子のプライドも憤りも虚しさも何もかも昇華されていた。流す涙が自分のすべてを浄化するように。
その自分の魂の歓びに打ち震えている静止した時間の中、すうっと引き込まれるように男がやってきた。自分より年配でしっかりとしたスーツを着こなしながらも人生に疲弊を感じているような男だった。男が告げる。
「あなたは美しい」
そのあとのことはあまり覚えていない。覚える必要がなかったのかもしれない。気が付くとその男『和夫』の腕に抱かれていた。
「あの時が人生の絶頂だったわね」
死を目の前にして、生命の輝いた瞬間を話す小夜子の美しさは圧巻だった。青白い小夜子の頬が薔薇色に染まる。
「私は一人でも生きていけたけど和夫のおかげでいつ死んでもいいと思えたわ」
心からそう思っているのだろう。強がりでも誤魔化しでも美化でもなく率直な感想のようだ。
「きっと和奏は和夫のためね」
笑って小夜子は言う。
「愛の証じゃないの」
「ロマンチストねえ」
直樹の言いように小夜子は優しく微笑む。
「直君。子供なんて気にしなくていいわよ。あなたは目の前の緋紗ちゃんを大事にね」
「ん」
「和奏には可哀想だけど彼女は彼女の人生がきっと拓けると思うから。悪いけどたまにピアノ弾いてやってくれないかな」
小夜子にとって幼い娘の和奏でさえ魂を持った一人の人間なのだ。
「モーツアルトお願い……」
「女王様。承知いたしました」
うとうとし始めたので直樹は静かに部屋を出た。
緋紗は静かにベッドで佇んでいる直樹を黙って見つめた。きっと小夜子に会って色々考えているのだろう。緋紗は直樹が言葉を発するのをじっと待った。直樹はそばに居る緋紗の手をそっと引っ張って、自分の胸に抱き寄せ黙ったまま口づけをする。緋紗も黙って応じる。しばらく口づけを交わした後、直樹が静かに言った。
「小夜子さんは最初から最後まで女王様なんだな」
毅然としていた小夜子を目に浮かべる。まだ薬が効くのかもしれないが相当な痛みがあるはずだ。緋紗は自分の伯母をも苦しめた症状を思い出して震えた。
「伯母と同じ……」
緋紗の伯母は夫を震災で亡くしそして本人も十年後に癌で亡くなっていた。大好きな伯母を思い出し、これから別れる小夜子のことを想って緋紗は震えた。悲しいとか辛いとかそういう感情以上の恐怖に襲われる。直樹は緋紗の身体を温めるようにさすりながら抱きしめた。
「子供がいたほうがいいのかな……」
思わず緋紗はそう呟いていた。それを聞いて直樹は大きくため息をつく。
「代替を考えないでくれ。どっちにしろ喪失感は免れないんだから。俺には慰めにはならないよ。気が少しそっちに向くだけだ」
緋紗は直樹の静かな怒りを感じて押し黙った。直樹自身も自分の怒りの感情にハッとしながらこぶしを握り締めて黙り込み、やがて緋紗の震える肩を抱く。
「小夜子さんは死にたくないとは言わなかった。いつ死んでもいいぐらい後悔のない人生をおくって来たって言ってたよ」
緋紗は震える声で「伯母さんもです」 と言った。
大事な人をなくす恐怖に緋紗はすっかり恐れおののいていた。直樹は自分の父親を亡くした日のことを思い返してみたが、緋紗ほどのダメージは受けなかったと思う。母のダメージは計り知れないが。ただ小夜子を失う和夫のダメージを想像して辛くなった。そして緋紗を失うことを考えたとき、自分の心の大半も失くすのだろうと想像した。
しばらくの沈黙ののち直樹が和歌を口にする。
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」
「百人一首?」
「うん。君のために長生きしたいって歌」
少し落ち着いた直樹は続けて話した。
「緋紗は俺がいなくても子供がいたらなんとかやっていけそう? 一人で大変なら再婚してもいいか。逆に緋紗がいなくなって俺が再婚することもあるかもしれないね」
全く想像もしなかったことを直樹に言われて緋紗は動揺する。
「再婚……?」
「現実感のある話だろ?」
緋紗は冷たい顔で眼鏡を直しながら言う直樹に抗議した。
「そんな……。ひどいことを言わないでください」
「他の女を抱きたいと思わないし緋紗が他の男に触れられるなんて想像もしたくない。だから安心のために保険を掛けるようなことは考えないで欲しい」
「ごめんなさい」
緋紗は将来への不安のせいで目の前の愛を見失いそうになった自分を取り戻す。
緊張を解いた直樹は自分の好きな歌を一首口ずさんだ。
「山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり」
「どういう内容ですか?」
「俺の腕の中で喘いでいる緋紗って言う歌だよ」
「なんですか。それ」
目を丸くした緋紗にまた口づけをする。緋紗は深い森に抱かれるような気持ちになって安心して直樹の香りを吸い込んだ。




