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スカーレットオーク  作者: はぎわら 歓
第二部

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34/47

 梅雨が明け爽やかな初夏がやってきた。今日は緋紗の誕生日だ。(緋紗もとうとう三十歳か)直樹はそう思うとなんとなく緋紗がより成熟した女性に思えてきた。褪せることなく輝きを増していく緋紗に傅くナイトのような気分になってくる。段々逆転してくるような関係に面白くなった。(それも悪くないな)そして今夜のディナーの用意を始める。


「ただいま」

「おかえり」

「あ、直樹さん。夕飯作ってくれたんですか? うわ。すごいごちそう」

「やっぱり忘れてたのか。お誕生日おめでとう」

「ああ。ありがとうございます」


 嬉しそうな顔で緋紗は直樹に抱きついてキスをした。


「もうできるから荷物置いておいで」

「はいっ」


 軽く冷やしておいたワインを出して栓を抜いておいた。緋紗は部屋着のシャツワンピースに着替えてテーブルに着いた。


「きれいなロゼのお肉ですねえ」


 ローストビーフを切り分けると緋紗は感心して声を上げた。直樹は微笑んでワインをついだ。


「おめでとう」

「ありがとうございます」


 二人は乾杯してワインを飲んだ。


「すごく美味しい」

「そう。よかった。これ誕生日プレゼント」


 直樹がそっと硬そうな紙の封筒を差し出した。


「え。なんだろう」


 嬉しそうに中身を取り出した。オペラ『カルメン』のチケットだ。


「わあ。すごい。しかもs席だ。いいんですか?」

「うん。小夜子さんのツテもあってね。いい席が取れたんだ。明日だよ」

「嬉しいです。明日が楽しみ」


 (喜んでもらえてよかった)もう二人とも欲しい『モノ』は特になかった。それよりも一緒に感じて過ごすことに重点を置いていた。カルメンは二人が初めて出会ったときに上演されていたオペラだ。隣同士の席だったが、その時はまだ見知らぬ他人だった。


 ピアニストの小夜子にもし『カルメン』の公演がきたらチケットを取ってほしいと去年から頼んであったのが、ちょうど緋紗の誕生日に合わさるようにやってきたのだった。


「あのドレスを着ればいいよ」


 緋紗は小夜子からもらった赤いドレスを思った。


「そうですね。あれならぴったりですね」


 赤いワインを飲んでいる二人の頭には『ハバネラ』が流れている。


「支度はどう?」


 直樹もスーツを着てネクタイを締め、緋紗が選んだ香水をつけると、ふわっとサンダルウッドの香りが漂う。帰宅したころにはもっと濃厚な香りになっているだろう。


「できました」


 緋紗は出会ったころのすっぴんと違い綺麗に化粧をしてすっかり大人の女性になっている。赤いドレスにルビーのペンダントを身に着け、まるでカルメンのようだ。


「綺麗だ」

「香りが素敵」

「行こうか」


 と緋紗の腕をとった。


 早めに会場に着いたが着飾った人がすでに大勢いて賑やかだった。直樹にエスコートされ緋紗はスムーズに席に着く。


「一緒に観られるなんて、すごく嬉しい」

「いつか一緒に観たいと思ってたんだ」


 優しく言う直樹に見惚れながらキスしたくなる衝動を抑え舞台のほうに目をやった。

 会場が段々と暗くなりはじめ前奏曲が流れてくる。二人は情熱的な舞台に参加しているように一体化していった。



 少し木々が伐採され明るい陽射しがさす森の中で先輩の望月と弁当を広げる。緋紗の焼いた荒っぽくて塩辛い卵焼きを微笑みながら見ていると

「直樹。ちょっと元気出てきたみたいだな」

 と望月が話しかけてきた。


「ええ。まあ」


 答えた後で卵焼きを口に放り込んだ。


「お前は素直だから何かあったらすぐわかるな」


 笑って言う望月に直樹は今まで『何を考えているのかわかりにくい』という真逆の感想の方が多かったので『わかる』という言葉に改めて驚く。


「実は……」


 直樹は自分が『男性不妊症』であることを告げると望月はうんうん頷きながら聞き、そして話し出した。


「俺んとこも結婚して三年くらい子供ができなくてなあ」


 遠い昔を懐かしむように望月は言う。当時は今のように原因がはっきりつかめず、望月の妻が周囲からの憐憫、同情、家族からは蔑みの目などを受け非常に辛い思いをしたらしい。


「俺は子供はどっちでも良かったんだ。嫁っこと仲良く出来りゃあな。でもあいつは子供が欲しかったみたいだし。周りもつらく当たってなあ。結局子供ができたから嫁っこも周りもほっとしたけどな。あんときは辛かったな。何が辛いって嫁っこが悪いって言われるんだよ。今じゃ何が原因かわからずじまいだがな。俺のせいかもしれないのに」


 思い出して少し怒り出したので直樹はなだめた。大人しく神妙な顔をして聞いている直樹に望月は続ける。


「欲しけりゃがんばれよ。でも今はいようがいまいが別れちまう奴はすぐ別れちまうしな。嫁っこを大事にするのが一番だな」

「そうですね。僕もそう思います」


 直樹は望月の言葉を噛みしめた。


 昼食を終え、緋紗と和夫、小夜子はゆっくりお茶を飲む。一日の中で一番ゆっくり休憩ができる時間だ。和奏は和夫に抱かれ夢の中にいる。


「ねえ。緋紗ちゃん。直君とは落ち着いた?」

「え。ええ。よくわかりましたね」

「ふふ。この前のゴールデンウィーク手伝ってもらったじゃない。ピアノも。直君の演奏、やけに揺れててね。あのこ結構、正確に弾くほうだけどちょっと変だったのよね」

「へー。そんなところで……。さすがですね。直樹さんには言わないでほしいんですが……」


 緋紗は直樹が検査の結果で落ち込んでいたことを話した。


「ああ。そうだったの……」


 和夫がため息交じりに「そりゃ――。ショックだろうなあ。」 直樹のことを想って言葉を発した。


「緋紗ちゃんは欲しいの?」


 小夜子は素朴な疑問を投げつけるように聞いてきた。


「いえ。そう思ったことはないんです。私、母性にかけてますかね……」

「母性ってどこで発揮されるかわからないけど。今は直君に全部発揮されてるのかもね。まあ欲しくなったらその時はその時でね。出来ないわけじゃないんだし」

「うんうん。今は直樹を頼むな。あいつ緋紗ちゃんがいないとダメな奴だからなあ」

「あ。はい」


 顔を少し赤らめて緋紗は直樹のことを想った。(直樹さんだけいれば私は満ち足りている)

そんな緋紗を見て小夜子はニヤニヤしながら斜め上を見て言う。


「そういえば緋紗ちゃんがここに初めて来たときのあと、やっぱりゴールデンウィークだったかな。和奏を妊娠してるときね。直君がここ手伝ってくれてピアノ弾いてくれたんだけど。その時も揺れてたわよねえ。しかもあのこがモーツアルトなんか弾いてたわ。きっと緋紗ちゃんのこと想ってたのね。ふふふ。ピンクのモーツアルト」

「ああ。あんときのあいつ珍しく機嫌よく弾いてたよなあ」


 和夫も相槌を打つ。


「あ、そうですか」


 人から聞くと恥ずかしいなと思いながらお茶の残りを飲み干して緋紗は片付けてアトリエに向かった。


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