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目覚まし時計のアラームで緋紗は目を覚ますとちょうど直樹も起きたようだ。
「おはよう」
少しだけ抱き合ってから起き出す。直樹が支度を始めている間に緋紗もさっと着替えて朝ごはんと直樹の弁当を作った。こんなふうに主婦業をするとは思ったことがなかったが幸せだった。森林組合員の直樹は支度が出来次第、出かける。好きな仕事をしてイキイキしている直樹のそばに居ると緋紗は益々幸せだと思う。
「なんだか降りだしそう。富士山傘雲かぶってる。直樹さん気をつけてね」
「うん。雨がひどいときは作業しないから大丈夫だよ。じゃ行ってきます」
直樹が緋紗にキスをして出て行くと緋紗も洗濯と掃除を済ませ、軽トラックに乗り込み仕事場のペンションへ向かった。
気持ちの良い森の中のペンション『セレナーデ』を優しい風と爽やかな朝の陽射しが包み込んでいる。
「おはようございます」
「緋紗ちゃん、おはよう」
オーナーの吉田和夫がちょうど最後の泊り客を見送ったところのようだ。
「食堂から片付けますね」
「おう。頼む」
緋紗は午前中はペンションを手伝い午後は陶芸教室を開催している。食堂の片づけをしていると和夫の妻、小夜子が二歳の娘の和奏をつれやってきた。
「緋紗ちゃん、おはよ」
「おはようございます。和奏ちゃんもおはよ」
ますます華やかさが増している小夜子にまぶしく感じながら緋紗は挨拶をした。生まれたときから知っている和奏は緋紗によくなつき、まとわりつく。
「だめよ。和奏。今、緋紗ちゃんお仕事してるからね」
「やだー」
「いやいや期真っ盛りでほんと困るわ」
さすがの小夜子も手を焼くらしい。
「でも可愛いですねえ。少しお話もでき始めたし」
「和夫なんかメロメロよ」
小夜子は肩をすくめた。
「ちょっと散歩させて来るわね」
「ええ。いってらっしゃい」
和奏は小夜子に手を引かれしっかりした足取りで歩いて行った。和奏は小夜子似で二歳児であるが独特のオーラというものを感じさせる。
(どこも娘にメロメロかあ)
直樹との間に娘が生まれ、直樹が娘にメロメロになったところを想像する。(んー。なんかやだな……)
自分の子供でもあるのだろうからきっと気にはならないのかもしれないが今の緋紗にはまだ受け入れがたかった。深刻になる前に想像をやめて仕事に専念することにした。
仕事帰り直樹は実家に雨具を取りに寄った。
「ただいま」
「あら、直樹」
慶子が慌ただしそうにうろうろしている。
「レインコート取りに来たけど、どうかしたの?」
「聖乃がおたふく風邪なのよ。今熱出して寝てるの」
「ああそうなのか。大変だね」
直樹は少しだけ聖乃の様子を覗きに行った。頬が腫れて赤くなっているが大人しく眠っている。そばに居た颯介が直樹に気づく。
「あ、直樹来てたのか」
「うん。ちょっと物取りに」
「子供の病気ってかわいそうだよなあ」
「自分が病気する方が随分ましだね」
颯介は静かにふすまを閉める。
「そういや。お前のおたふくひどかったよな。高校だっけあれ」
「ああ。入院したのって後にも先にもあれだけだったよなあ」
ちょうど早苗がやってきて口を挟む。
「今の話ほんと? 高校生にもなっておたふくやったの?」
「ああ、義姉さん。うん。そうだよ。忘れてたけどなんか重くて入院までさせられた」
「あのね。男の人が大人になっておたふくやると不妊症になるかもしれないのよ。直君、結構重症だったみたいじゃない。一回検査したほうがいいわよ」
「平気だろ。大げさだなあ」
暢気そうに言うが颯介に早苗はより真面目な顔をする。
「今、若くてもなんだか不妊症が増えててね。男女問わず。これから子供を持つこと考えるなら早いうちにしたほうがいいと思うのよね。検査なんてすぐ済むし」
「そんなもんか。時代かね」
「うん。同僚がまだ三十歳前なのに不妊治療してるよ。もう三年も」
直樹は聞きながらぼんやり検査のことを考えた。
「近所のクリニックでもやってるからさくっとやっときなさいよ」
「そうだね。今度行ってくるよ」
なんとなく好奇心もあったので気軽な気持ちで直樹は行ってみるかと思った。早苗が立ち去ったのを見計らって颯介がこっそり耳打ちする。
「なんかさ。検査室って特別なDVDとか本とかあるらしいぞ」
「そんなの都市伝説だって」
「行ったら教えろよ」
「わかったわかった。じゃ帰るよ。お大事に」
直樹は実家を後にした。
ベッドで直樹は聖乃のおたふく風邪の話をした。そして早苗に検査を勧められた話もした。
「一回くらい検査してみようかと思うんだけど」
「いいと思うます。私も最近、市の健診で婦人科受診してきましたよ」
「ああ。そうだったの」
「特に何も問題がありませんでしたけど」
「そう。よかった」
直樹は安心して緋紗の肩を抱いた。しかし緋紗は神妙な顔で話す。
「不妊って人ごとじゃないですよね。亡くなった伯母の話をしたことがあると思いますけど。伯母が不妊症だったんです。子供を望んでいたので治療を頑張っていた時期もありましたけど」
言葉が途切れる。(震災か……)直樹は察して話を急かさなかったが、言葉が見つからなくなってしまったようで緋紗はは押し黙ってしまった。直樹が緋紗の肩をもっと強く抱いてキスをすると、彼女は甘えて身体を摺り寄せてくる。
「そうだ。一つ問題があるんだ」
「え?」
「検査しようと思ったら五日くらい禁欲しないといけないみたい。平気?」
「やだ。それくらい我慢できます」
頬を赤く染めて笑った。