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春の植え付け時期がやってきた。直樹は一本一本、杉の苗木を大事に扱い一定の間隔でしっかり植えていった。若い杉の香りはまだまだ淡いが、すががすがしくて春を感じさせた。直樹の植え付けも、こなれてきておりずいぶんと多くの本数を綺麗に早く植えられるようになった。
先輩の望月が、「そろそろ一人前だな。」と、ほめてくれた。またこの春から直樹は現場管理責任者となり収入があがった。――次は統括現場管理責任者かな。
直樹にしては能動的な役職へのアプローチをしている。気ままな仕事からより大きな責任ある仕事としてとらえ始めた証拠でもあった。
一度離れようと決心をしたからこそ、今は自分の仕事がとても尊いものと思える。森から離れることは自分を捨てるようなものだった。それを緋紗は気づかせてくれた。もう二度と同じ過ちは繰り返すまい。
秋から春にかけ、たんなる趣味のような講座の受講もやめ、自分の持っている資格などちゃんと生かせるようにした。そして休日はこれからの生活の基盤作りに励んだ。
梅雨が明け爽やかな初夏がやってきた。
「宮下先生。さようならー」
「ありがとうございました」
子供たちが陶芸教室から帰っていく。
「さよならー。お気をつけて」
迎えに来た母親たちにも頭を下げる。
緋紗は少しずつ地元の人たちを触れあって、ゆっくりだが信頼関係も築けてきたようだ。――さて。片付けるか。
ペンションの仕事は午前中と夕方にやってしまえるので、午後からほとんど自由な時間だった。週に半分は陶芸教室を行い半分は自分の作品を作ったりしていた。薪の窯も和夫と一緒に小さいものをペンションの裏側に作る予定だ。作ったものはペンションのショップに並べている。これも少しずつ宿泊客に売れていた。サインは『セレナーデ』としてある。和夫が自分のサインをすればいいよと言ってくれたが、緋紗にはあまりこだわりがなかったし、粉引きだったのでペンションの作品としていた。――今日もよく頑張った。
少し休憩したら厨房を手伝おうとエプロンを脱いでアトリエの椅子に腰かけた。そこへ和夫がやってきた。
「お疲れさん。お客さんだよ」
「お客さんですか?」
「うん。外で待ってるから行っておいで」
「はーい」
――誰かのお母さんかな。
緋紗はアトリエの外に出て見回すと直樹が木にもたれて立っていた。
「あっ」
思わず息をのんだ。グレーのスーツ姿で少し痩せて髪が伸びていた。横顔がシャープで精悍さを増している。久しぶりに見る直樹は周りの景色とマッチして一枚の絵のようだ。とても恰好いいので緋紗はぼんやり立って見ていた。
パキっと緋紗が踏んだ小枝の音が鳴って、直樹がこっちをゆっくり振り向いた。そして歩いてくる。夢の中のようなふわふわとして時間が止まったような感覚だった。後五、六歩ほどで手を伸ばせば直樹が触れる位置に来る。夢ならこの辺で目が覚めている。緋紗は目を閉じた。
「久しぶり」
目を開けると目の前に直樹がいる。
「お久しぶりです」
緋紗はやっと言葉を発した。
「元気そうだね。髪を伸ばしたのか」
緋紗は頷いた。
緋紗はベリーショートからショートボブになっていて、少しだけ化粧もし落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「綺麗になって」
直樹がじっと見つめる。緋紗は見つめられるままぼーっとしていた。
「心配しなくても僕は籠の鳥にはなっていないし、緋紗にもそうさせる気はない」
そして、「ついて来てほしい。和夫さんには許可もらってるから」と緋紗の手を取った。久しぶりの直樹の大きな手だ。
駐車場に綺麗に磨かれたフォレスターがとまっていた。
「乗って」
助手席のドアを開ける。ゆっくりと発進し、直樹は黙って車を走らせる。緋紗も黙っていた。久しぶりの二人の狭い空間に緋紗は緊張したが愛しい男のそばに居ることがゆっくり気分を高揚させていった。
車が止まり夏に来た直樹の家に着いた。しかし前の古屋はなく真新しい木造で三角屋根の家がこじんまりと建っていた。
車から降りて緋紗は家を見上げた。――かわいい家。
まるで『大草原の小さな家』にでも出てきそうな素朴だが暖かそうな家だった。
「こっちだよ」
直樹が玄関のドアを開け入るように促した。
「失礼します」
新しい木の香りがする。見回すと高い天井で広々としたリビングルームに暖炉があった。キョロキョロして緋紗はどこかに迷い込んだ動物のような気分になった。
「他の場所はまたあとで見せてあげるからとりあえずこっちに来てくれるかな」
ぼんやりしている緋紗を直樹は誘導した。無垢の木の扉を開けると六畳ほどの部屋にキングサイズのベッドがどんと置かれていた。
「すごい。大きいベッド」
さっきから緋紗は驚かされっぱなしで頭の整理が全くつかなかった。直樹は緋紗をお姫様抱っこしてゆっくりベッドに降ろした。緋紗の横に座っる。
「突然でごめん」
謝って説明を始めた。今でも林業の仕事を続けていること、家は森林組合から木材を購入し和夫がペンション『セレナーデ』を建てたとき同様、セルフビルドで自分も建築に関わったこと。
「よかった。直樹さんが森から離れていなくて」
「前の仕事に戻っていたら緋紗は僕を見向きもしてくれないだろ」
直樹は笑った。
緋紗は安堵の表情を浮かべた。少し落ち着くと話す余裕ができてきた。
「このベッドすごいですね。剥き出しの木の色が赤みがあって艶があって素敵」
すべすべした頑丈そうな宮棚を撫でる。
「スカーレットオークなんだ。さすがにオデッセイウスのようにはいかなかったけど、動かせないベッドだよ。僕が作ったんだ」
「えっ」
緋紗は驚いて直樹の顔をみた。直樹は鳥かごではなく巣箱を用意していた。二人が共に羽を休める寝床だ。
「この木だけ輸入なんだけど、どうしてもこの木を使いたくてね。育ててると二、三十年かかってしまうし。そこまで待ってもらえないだろ」
直樹は一呼吸おく。息を静かに吸った。
「緋紗。僕と結婚してくれないか?」
緋紗は胸がいっぱいで言葉が出なかった。
「贅沢はさせてあげられないだろうけど苦労はさせないつもりだから」
「直樹さんと一緒なら苦労したっていい。直樹さんのそばに居られることが私にとって一番贅沢なことだよ」
小さな声で振り絞るように言った。
「緋紗。愛してる」
直樹は緋紗を強く抱きしめる。
「そのペンダントつけていてくれてよかった」
直樹の香りを緋紗は吸い込んだ。
「直樹さんもつけててくれたんですね。私の作った香水」
「うん。大事に使っていたんだけど、もうこれで最後なんだ」
「また作ります」
二人は口づけした。すごく長い間この時を待っていた気がする。――ペネロペはオデュッセイウスと再会したときどんな気持ちだったろう。
「抱き合う時以外もここで過ごしたい。一日の最後はここで二人で居たい」
抱きしめられながら緋紗は目を閉じて直樹のすべてを堪能した。
「そろそろ我慢の限界かな。こんなに可愛い緋紗を目の前にして」
直樹が熱っぽく見つめる。
「私も限界」
「頭の中では何度も抱いたよ」
緋紗の髪を耳にかけながら言った。
「私だって」
「そうだ。プロポーズは受けてくれるのかな? オーケーなら『ダーリン』って呼んで」
笑顔を見せる直樹を緋紗は力いっぱい抱きしめる。
「ダーリン、愛してる」
――ああ。今日は私の誕生日。直樹さんが最高のプレゼント……。
スカーレットオークのベッドはこれから二人の愛し合う時間を木肌に刻みもっと赤みと艶を増していくだろう。
第一部 終