16
少しは慣れた朝の支度を一生懸命手伝っているうちに緋紗の気持ちも晴れてきた。搾りたての牛乳を飲んだころには、もう、くよくよしてはいなかった。朝食の用意もでき、いつでもスタンバイオーケーだ。客が食堂に集まり始めた。直樹が同級生のところへ運んでいく。また何か話している。緋紗も食事を運びながら気になって横目で見てしまう。折角忘れていたのにまた気分が沈んできてしまい客たちがひけるまで鍋をピカピカに磨いてみた。食堂も厨房もすっかり片付くと和夫と小夜子がやってきて緋紗にテーブルに着くように言った。小夜子がエプロンのポケットから緑の和紙の綺麗な封筒を取り出しテーブルの上に置く。
「これ少ないけどお給料です」
「え」
緋紗は少しびっくりして首を振った。
「え、って緋紗ちゃんバイトに来たんでしょう?」
「は、はあ」
――そうだった。一応バイトだった。
一瞬何をしに来たのか忘れていた。
「緋紗ちゃん、受け取ってくれよ?でないと次呼べないじゃないか」
和夫も笑う。
「ありがとうございます」
緋紗はありがたく頂戴した。
「これボーナス」
小夜子が紙袋から赤いベロアのキャミドレスを出してきた。
「うわあ」
とても上質でしかもセクシーなドレスだ。
「緋紗ちゃんの名前にぴったりでしょう? これステージ衣装だったんだけど、もうおなかも出てきたし入らないのよねえ。良かったら着て頂戴よ。さっそく今夜にでも」
緋紗は綺麗なドレスに目を奪われたが、手と顔を左右に振る。
「私になんてもったいないです。似合わないと思いますし……」
「あらー。遠慮っぽいのねえ。着たら似合うわよ」
「服なんて着たら似合ってくるもんだよ」
和夫にも勧められた。
「嬉しいです。ありがとうございます」
似合うかどうかは別にして、こんなドレスを着られる機会などそうそうなかった。
「じゃああとは適当にしてゆっくり温泉にでも入るといいわよ」
「はい。客室をお掃除したらそうします」
「じゃあね」
「緋紗ちゃんありがとう。後はぼつぼつでいいからな」
そう言って厨房へ入っていった。――ありがとうございます。
二人に心から感謝した。
ペンションに休日がやってきた。直樹は高く積み上げた薪を猫車に乗せ、薪置き場に運んだ。これだけあればこの冬くらい困らないだろう。今は和夫と小夜子でなんとか切り盛りしているペンションだが遅くとも秋には和夫一人でやっていかなければならないはずだ。――早く誰か雇えばいいのにな。
最初の二年は苦しい経営状況だったようだが、ここのところ新規もリピーターも安定して増えている。知名度と口コミで人気が出てきているのだ。直樹はこのペンションを手伝うことが好きだが年に一度くらいでちょうどよい。――小うるさい兄貴から解放されるし。
年末年始の家族からの逃避でもあった。しかも今年は緋紗も一緒だったのでより楽しく過ごせた。これからの事をなんとなく考えないでもないがぼんやりとし過ぎた見通しで今は何とも思えない。細かい木切れを片付けながら遠くの薄青い空をみた。
みんなで昼食を済ませ食堂でのんびり過ごす。和夫と小夜子はベビー用のカタログを楽しそうに見ている。直樹はコーヒーを啜って窓の外を眺めていた。緋紗は楽しみにしていた温泉に入ることにした。今なら露天でも寒くないだろう。
「あの、私温泉入らせていただきます」
「じゃ僕も行くよ」
緋紗に続き、直樹も立ち上がった。――え。一緒に入るの?
和夫と小夜子にどう思われるか少し心配になったが「どうぞー。ごゆっくり」と、何でもないように言われた。
「いってきます」
緋紗は少しギクシャクしてその場を去った。
「ちゃんと入れそうか見ておくから準備しておいで。たまに落ち葉やらゴミやらで汚れているときがあるんだ」
「すみません。ありがとうございます。」
緋紗は直樹に礼を言って部屋へ戻り準備をしてきた。簡易な脱衣所は一応男女別になっていた。注意書きに『タオルをお湯につけないでください。』と書いてある。眼鏡をはずしてかごに脱いだ服を棚に置き、タオルを身体に巻く。扉をぎっと開けると意外に湯気がもくもくしていた。――これは良く見えないなあ。
足元は少しごつごつした岩でできていて所々すのこが敷いてある。どうやら岩風呂の露天風呂らしい。恐る恐る歩いていると、「ちょうどいいよ。手桶が右にあるよ」と湯の中から直樹の声が聞こえてきた。――え。入ってるの?
「いるんですか?」
思わず両手でタオルをきつく握った。
「僕も行くって言ったでしょ」
緋紗は横向きになり大きな岩の上にタオルを置いた。かけ湯をして慎重に湯を探る。
「そこのでっぱり危ないから気を付けて」
顔をしかめてる緋紗に直樹は続ける。
「ああ、目が悪いのか。そんなに視力悪いの?」
「いえ。そこまでじゃないですけど。ちょっとこの湯気だと見えにくいですね」
直樹はこの湯に浸かりなれているのだろう。細かいところまで注意が行き届く。
「直樹さんは慣れたものですね」
「そうでもないよ。年に一回か二回入るくらい」
「直樹さんも目が悪いのによく平気だなあと思って」
緋紗はやっと湯船につかった。湯に浸かったので手足を伸ばして伸びをする。
「ああ。言わなかったっけ。あの眼鏡は伊達だよ。一応紫外線除けにはなってるけど」
「ええ?」
「僕は視力はいい方で一、五はあるんだ。仕事で木片やら砂やら飛んできてさ、結構目が危ないんだけど、ゴーグルはちょっとうざいし。眼鏡は便利だね。もうずっと掛けっぱなしになったよ。」
緋紗は直樹の話を半分以上聞いていなかった。――見えてないと思ってた……。
恥ずかしさと驚きでしばらく口がきけなくなった。
「どうかした?」
「そうでしたか……」
「この温泉はあんまり効能がないらしくてね。ただのお湯らしい。何かに効けば温泉地で有名になったかもしれないね。そろそろ日が陰ってきたかな。そそろ上がろう。じゃまたあとでね」
「はい」
火照った緋紗は冷えないうちに素早く身体を拭き着替えた。
「よく見えるんだ……」
そっと呟いた。
温泉からでて直樹は今夜のディナーの用意を始めた。と言っても今日は調理はしない。今、注文しておいた寿司を取りに和夫が町まで行っているのでグラスやら小皿やらを出すくらいだ。――なんか酒があったかな。
探るとワインと日本酒があった。それぞれ小夜子と和夫のだ。――これでいいか。
ここにいる間アルコールを口にするのは今日くらいだ。去年は仕事が終われば飲んでいたが緋紗がいたので飲まずに過ごしていた。健康的だったなと少し笑いながら今日までの事を思い返した。ワインクーラーに氷を入れワインを用意した。適当に並べていると小夜子がやってきた。
「直君、今日もタキシード着てきてね。パーティなんだから」
「えー。別にラフな格好でよくないですか?」
「やーね。緋紗ちゃんだって綺麗にしてくるんだからね」
ふふんと小夜子は鼻を鳴らした。
「緋紗こそ何も持ってないと思いますけどね」
「ドレスあげたのよ。きっと素敵だと思うわよ」
「へー」
「小夜子さんみたいにばっちりじゃないからなあ」
笑う直樹にそう言われると、小夜子もそんな気がした。
「まあとにかくタキシード着てきてね。和夫だってドレスアップするんだから」
それだけ言うとバタバタと小夜子は去って行った。――言うこと聞かないとうるさいからな。
しょうがなく着替えに部屋に戻った。
緋紗はまたペンションの周りを散歩していた。スカーレットオークの幹を撫でて葉っぱを一枚拾った。――記念にしようか。
軸をもってクルクル葉っぱを回していると小夜子がやってきた。
「緋紗ちゃん。そろそろ着替えてほしいんだけど。あなた、お化粧品とか持ってるの?」
「あ。持ってません」
「はあ。そうなのねえ。ドレスもって私の部屋に来てくれる?」
「はい。伺います」
小夜子は戻っていった。――女失格って思われちゃったかなあ……。
緋紗も急いで部屋に戻った。
部屋からドレスを持って小夜子のもとへ行った。茶色いドアのそばのインターホンを押す。
「どうぞー」
「失礼します」
ドアを開けるとニ畳くらいのスペースがあり、童話の魔法の部屋のようにピンク、水色、黄緑と色の違う三枚のドアがある。和夫と小夜子の住まいは三部屋あって、それぞれの部屋が最初の茶色の扉を開けた左右にあり、真ん中が寝室になっているらしかった。ピンクのドアから小夜子が出てきた。
「こっちへどうぞ」
小夜子の私室に通される。六畳くらいのスペースでピンクのベロア生地が張られた猫足の寝椅子と、同じような雰囲気の木製ドレッサーがあり、ここだけ高級感が漂っていた。緋紗が天井のアールヌーボー調のシャンデリアを眺めているとガウンを羽織った小夜子が、「ここに座って」と、すべすべした木でできた可愛らしい猫足のスツールを指さした。言われるままに座ると小夜子は緋紗の眼鏡を取って顔に、ローションをコットンにしみ込ませて叩くように塗り、そしてパウダーをはたきだした。緋紗は黙ってされるがままになっている。
「さすが。普段お化粧してないだけあって全然荒れてないわね」
引っ張られた瞼に筆でラインを引かれ目の周りは加工され重くなった。最後に口紅を塗り終了したらしい。
「ふぅ。できた」
短時間だったが緋紗のするメイクがいかに雑かよくわかった。
「これぐらいはしなきゃだめよ?」
小夜子が鏡を見るように指示した。――うわ。なんか別人。
顔立ちが変わったわけではないが大きくて丸い目がインパクトのある華やかなものになっている。年相応の大人の女性といった雰囲気だ。
「すごいですね。私、化粧する習慣がないのでイマイチやり方がわからなくて……」
「習慣がないってすごいわよ」
「うーん。周りに女性がほとんどいなくて。居ても私と似たようなものです」
恥ずかしそうな緋紗に小夜子は肩をすくめる。
「まあそのままでも全然かわいいけどね。でもたまには直君にこれくらいのを見せておかないとね。きっとドキッとするわよ」
女性らしくなった顔を見て緋紗は少し希望を持った。
「あとは足元だけど……。まあそのルームシューズでいいか。じゃあ、食事に向かいましょう」
ガウンを取った小夜子はピンクベージュのドレスを着ていた。上質な光沢がとても似合っているし可愛らしくしかもセクシーだ。
緋紗はため息をついた。
「ふふ。さあさ。行きましょ」
小夜子は嫣然と笑って緋紗の手を取った。
食堂に着くと一番大きなテーブルに寿司やらピザやらから揚げやらいつものペンションのメニューとは全然違う雰囲気のものが並べられていた。和夫も光沢のあるスタンドカラーのシャツとレザーのパンツできめていた。――ワイルドだなあー。
いかつい和夫によく似合っていて男臭さが魅力を増している。
「おう。きたか。ほー。緋紗ちゃん見違えたよ」
「でしょう。私の手にかかればこんなものよ」
和夫にふふんと小夜子は自慢げに言った。グラスを持ってきた直樹が緋紗をみたが無言で席に着く。――あ、タキシードだ。
緋紗が黙って見惚れていると小夜子が直樹にコメントを求める。
「ちょっとお。なんか言うことないの?」
「ん。きれいですよ」
「ほらね」
和夫がグラスにワインをつぎ始める。小夜子だけペリエだ。
「じゃあ乾杯しようか。お疲れ様でした。乾杯!」
「乾杯」
「緋紗ちゃんどんどん食べて飲んでね。いつもバタバタ食べてたもんね」
「はい。ありがとうございます」
久しぶりに飲むワインはとても美味しかった。
「なんかここでお寿司って不思議ですね」
「本当はここ山奥でもないし海は近いから魚のほうが普通なんだけどな」
「そうそう実は新鮮な魚が食べられていいのよね。マグロもよく食べるわよ」
「へー。ここにいるとすごく山の奥深くにいる気がしますね」
「そうだろ。食べ物をそういうふうに演出してると特にそう思われるんだな、これが」
色々な演出がなされていることに改めて緋紗は感心した。横の直樹を見るともう結構な量のワインを飲んでいて一本瓶が開いていた。
「それいいワインだから大事に飲んで」
「小夜子さんの分も飲んであげてます。ほら。緋紗も飲みなよ」
「まったく。ああ言えばこう言うんだから。さてっ。折角だから何か弾こうかな」
小夜子は立ち上がり、ピアノに向かった。美しい『ラ・カンパネルラ』が流れ始める。聴き比べたことがないので緋紗には評論家のような評価はできないが、小夜子のテクニックもさることながら演奏スタイルが情熱的で力強く美しかった。弾く人が違うと同じ曲でも全く印象が違うものなんだろうなあと緋紗は聴き入っていた。
「ほんとはこんな山小屋で弾くようなやつじゃないんだがなあ……」
「そうですね。でもとても幸せそうですよ」
目を細めて小夜子を見つめる和夫に直樹は相槌を打つ。――なんだか訳ありなのかなあ。
気にはなったが二人がしんみりしているので緋紗は黙って聞いていた。
「それにしても化粧ってすごいですね。全然顔が変わる」
――え。そんなに変わったかなあ。
緋紗は直樹を怪訝そうにみる。
「いや。緋紗じゃないよ。昨日の同級生。誰かわからなかったよ。春に同窓会があるらしいんだけど誰が誰だか分からないかも」
「まあ化けるよなあ。でも小夜子はすっぴんでも美人だぞ。見せる商売だからいつもしっかり化粧してるけどな」
「子供、小夜子さんに似るといいですね」
「おお~? うん。まあそうだな」
直樹の軽口に和夫は機嫌よく納得していた。直樹の同窓会の話が気になったが、緋紗は和夫が小夜子を心から愛していることを感じて自分も幸せな気持ちになった。――家庭か。
きっと生まれてくる子供は和夫と小夜子をより幸福にするだろう。まだ見ぬ赤ん坊と和夫と小夜子が幸せそうに寄り添っているのを想像した。自分自身にはあまり結婚も家庭も現実感がなくピンと来ないがそういう時が訪れるなら、この二人のようだといいなあと緋紗は思った。『ハバネラ』が流れ始める。――情熱的だなあ。
まるで直樹と一緒に観劇しているように緋紗がうっとりしていると、「胎教に悪くないのか?これ」と、和夫が心配し始める。
「さあ。もう親ばかですか?」
何曲か弾いて小夜子が戻ってきた。
「素敵でした」
心から緋紗は称賛する。
「ありがとう」
小夜子は満足そうに笑顔で答えた。しばらくみんなで楽しんで飲んでいたが小夜子が、寝ると言い始め和夫も片付けようと立ち上がった。
「俺がやっておきますよ。少しなので」
「そうか。頼むかな。適当でいいよ」
眠そうな小夜子を見ながら片手を立ててお願いする仕草をした。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「別にまだまだゆっくり飲んでてくれてもいいからな」
「楽しかったわね。おやすみ」
寄り添って二人は去って行った。
こうして冬休みはあっという間に終わった。




