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紅蓮の炎が渦巻いた窯の蓋が閉じられる。千度を超える炎を焚き続けて十日間。備前焼の窯焚きを終えて緋紗が見上げた秋の空は紺碧だった。
最後の追い込みで炎の色は鮮やかな紅色から黄金色に変わり、最後はまぶしい白光を放つ。炎と対照的なコントラストの岡山の空を見ると彼女は興奮が鎮火していくのを感じ、背伸びをしながらこれからの予定を考えた。
陶芸家の一大イベントである窯焚きが終了すると一サイクルが完結する。久しぶりの長めの休日。長めとは言え三日だが陶芸家の弟子をしていて、週にかろうじて一日休みの緋紗にとっては十分に長い休みになる。
普段の休日は部屋の掃除をして図書館に行きインターネットを少し眺めてゲームをするようなインドアな過ごし方だ。窯元に勤める友人もなんとなく似たような過ごし方をしているらしい。
しかし今回の休みは少し特別で緋紗が師事している陶芸家の松尾からオペラのチケットをもらっている。チケットは一枚のみで、松尾は一人で鑑賞するほど関心があるわけでもなく彼の妻、美紀子もその日は都合が悪かった。そこで緋紗に回ってきたのだった。開演には時間があるのでワンピースとパンプスとバッグを床に並べて確認してみる。ワンピースはAラインの黒のベロア素材でパフスリーブ。パンプスはかろうじてヒールがあるような三センチ程度のシンプルなラウンドトウの黒の革。バッグもパンプスと同じような素材のクラッチバッグ。黒尽くめにため息が混じるが弟子の身の緋紗にとって、これ以上ファッションに費やせる労力はなかった。深く考えないようにしてシャワーを浴びることにした。
熱めのお湯を頭からかぶりながら手をごしごしこすった。ここ十日間の窯焚きの証が指先に残ってる。薄黄色い松の脂が指先に浸み込んだようにこびりついているのだ。会場は暗いし手を見られることはないだろうからと少し摩擦で赤くなった指先を洗いおえた。
『岡山駅~』とのアナウンスにはっとして電車を降りた。にぎやかな地下街を歩いて間もなくさらに賑やかで鮮やかなドレスの色が飛び交う華やかな会場に到着した。
チケットを渡し受付嬢からプログラムを受け取る。華やかな受付嬢に緋紗は緊張し行儀よく頭を下げた。自分の席を見つけて座った時には、やっとほっとした。ドレスコードに自信がないので会場の雰囲気や周囲の人々に目を向けずプログラムを眺めた。オペラは好きだが詳しくはないので出演者を見てもどれだけ有名なのかわからない。ただ会場の熱気からすると人気の歌劇団なのだろう。――ファムファタルか。
緋紗は陶芸が人生の中心であるため恋愛内容には関心がもてない。ホセのカルメンに対する濃厚な気持ちには理解ができなかった。ただしカルメンの好きなことをやり続けるスタイルには多少、共感した。
「まあカルメンみたいに男うけすることはないけどね」
一言呟いたとき、「すみません」と、落ち着いた声と深い森林の香りがした。隣の席に座りたいのだろう。男が緋紗の組んだ足を下げてほしいようだ。
「あっ。スミマセン」
慌てて組んだ足をおろす。座った安堵ですっかり周りが見えなくなっていたみたいだ。
「いえ」
しっとりした柔らかい声に緋紗の安堵感が少し戻った。気を取り直してプログラムに目を通し始めると、会場にアナウンスが響き照明が落されてくる。幕が開け前奏が流れてきた。
余韻が残ったままうっとりとして緋紗は席を立った。ふわふわと気分よく化粧室に立ち寄り、やはり周囲に気を配らずにホールを後にした。そこから歩いて十分くらいの小さなビルの二階に岡山市まで来ると必ず寄るショットバー『コリンズ』がある。
少し重ためのドアを引くとカラカランと乾いたようなベルの音する。
「いらっしゃい」
短い髪をジェルで固めたオールバックのマスターが明るい声をかけてくれる。
「こんばんはー」
緋紗も明るくあいさつをする。
「やあ。久しぶりー。女のお弟子さん」
一番最初に立ち寄った時に自分が陶芸家の弟子をしている話をした。それからマスターは緋紗を『女のお弟子さん』と呼ぶ。今時でも陶芸家の弟子をするのは男が圧倒的に多かった。マスターはそんな緋紗を面白がっているのか、珍しがっているのか、長ったらしくそう呼ぶのだった。いつも座るカウンターにするっと滑り込むと隣に男が座っていた。バーは淡いブルーとグリーンのライトでカウンター内の酒類が照らされていて薄暗く、ボックス席二つとカウンター席六つのみで、こじんまりとしているが、せまっ苦しい感じはない。
隣の男はグレーっぽいスーツで静かに飲んでいたので不注意な緋紗は座って初めてその存在に気付いたのだった。今のところ客は緋紗とその男だけで席は空いているにもかかわらず不用意に並んで座ってしまった。心の中で(しまった)と思ったがそこで立ち上がって席を移動するのも気まずく、「こんばんは」 と、声をかけて気にしないふりをした。隣の男は少し身体を緋紗のほうに動かして落ち着いた声で、「こんばんは」と返した。
声と動いた時の香りにはっとする。――あれ?どこかでおんなじことがあったような気がする……。
そう思ったが男の顔をみないままマスターに、「マティーニお願いします」と注文した。
「今日はどこか行った帰り?」
「オペラでカルメン観てきたんです。生の歌声ってめっちゃ感動しましたよー」
「ああ、それで正装してるんだね。一瞬、誰かわからなかったよ」
「あはは。こんな恰好結婚式以外しないよね」
マスターが笑いながら、どっしりとしたビーカーに氷とベルモットとジンを注いでマドラーをくるくる回している。その手つきを眺めている緋紗に隣の男が声をかけてくる。
「さっきも隣の席でしたよね」
「え」
そう言われて思い出した。――私の足が邪魔になった人?
ここで初めて緋紗は男の顔を見た。右手の甲に顎を乗せ左手で銀のフレームの眼鏡をかけ直している。涼しそうな目元。――ここらへんの人ではないよね。
マスターの丸くて人懐っこい目と比較して見た。
「ホセって熱いですよね」
緋紗は思ったことをぼんやりと返す。
随分使っていないコンタクトレンズを横目にセルフレームの眼鏡をかけベリーショートの髪に少しジェルをつけて整えた。出かける時間がやってきたので鏡を見て、もう一度リップを塗り直し火の元を確認してパンプスを履いた。アパートの鍵を閉め、ドアノブを回して確認する。
夕方の伊部駅は高校生で賑わっていた。みんな岡山駅から上ってきているので下りは空いている。下校してきた高校生が引けると下り列車がやってきた。オレンジとグリーンのツートンカラーで蜜柑のような色合いの電車はやはり空いているので楽々乗り込めた。岡山駅まで四十分くらいの間、緋紗は一本、二本とレンガでできた薪窯の煙突を数えた。
緋紗は備前市の陶芸センターを修了した後、何年か他の窯業地をふらふらし再度魅せられた備前焼を改めて勉強すべく備前焼作家に師事した。弟子になって五年。陶芸への道に進んでから修行のみのストイックな生活を送ってきたわけでもない。二人の男と恋愛も経験した。しかしいずれも緋紗の意志とぶつかり別れに至った。彼女は一流の陶芸家になりたいとか売れっ子になりたいとかなどの野心はないが、費やしてきた時間や労力を結婚によって男の望むように趣味に変更できるほど軽いものでもなかった。結局自分の道を通す方を選び、ついてきてほしいと望む男たちは去っていったのだった。




