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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

世界には己しかいない 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と、内容についての記録の一編。


あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。

 お前は借りている部屋をどれだけ大切に扱っている?

 一人暮らしとなると、色々なことを全部自分でやらなきゃいけないし、日によっては気分にムラが出ちまうこともあるだろう。そうしたサボりを積み重ねた結果、ふとした気のゆるみで、壁とか押し入れの中板とかを破損してしまう……そんな経験はないか?

 ――ない? 本当かあ? もしかして見栄張ってるんじゃないかあ? 別に裁判じゃないんだから、隠す必要皆無なのによ。

 自分のせいじゃなくっても、何が原因で異変に巻き込まれるか分からんぜ。

 周りへのアンテナは、自分の部屋の中でも常に立てておいた方がいい。そう感じる経験があったんでね。注意喚起の一環だと思って、適当に聞いといてくれや。

 

 学生時代の部屋探し。できる限り安い部屋を探す俺は、やがて築30年のアパートの二階を選んだ。

 ベランダに洗濯機が備え付けてあるタイプで、玄関と3点ユニットバスをのぞけば、1畳ちょいのキッチンと、7畳近いフローリングの洋室を持つ部屋だった。

 そして夏休みを迎えた翌日。

 オフだったこともあり、午前中は布団の中でごろごろしていたんだが、正午になって隣の部屋から壁越しに響いてくる音、いや声があった。

 

 赤ん坊の泣き声だ。

 俺の隣の家は若夫婦と思われる男女が暮らしていたはず。ここのところ姿を見ていなかったし、普段からあまり交流もないから、詳しくは知らない。

 子供を産むことが大変な営みであることは、当時の俺も理解していた。

 それを環境が整っている、病院で迎えるのならばいざしらず、こんな狭い一室で行う羽目になったのならば、相当な大事。

 

 ――なのに、隣の部屋から聞こえてくるのは赤ん坊の泣き声のみ。母親のうめきにせよ、立ち会っている人の騒ぎにせよ、他の気配があってしかるべきだろう。どうしてそれがない?

 

 頭をよぎったのが、たまたま母親一人の状態で、想定外に早い出産を迎えてしまった場合。いきみにいきみを重ねて声を押し殺した結果、子供は産まれたものの母親は気を失ってしまった状態で、赤ん坊は泣き続けている……。

 

 やばくね? と思った。少なくとも隣のドアを叩いて返事があるかを確かめて、救急車を呼ぶべきなんじゃ、とも。

 赤ん坊の泣き声が、いっそう強くなった。布団を跳ねのけた俺は、ジャージを羽織り、玄関へ。

 ドアノブへ手を伸ばしかけたところで、ふと泣き声が消える。じょじょに小さくなったのではなく、口をふさがれたかのような突然のシャットアウト。

 ほぼ同時にドアがノックされる。のぞき穴から見ると、大家さんだった。

 

「泣き声、聞こえたよね?」と大家さんは俺に尋ねてくる。俺がうなずくと、困ったような表情で頭をかいた。

 やがて俺に「この際、契約には目をつむるから、近日中にこの部屋を引き払ってもらいたい」と告げてくる。候補はこちらで見繕うから、とも。

 思わぬ言葉に、俺は戸惑う。

 ひと通りの家具をそろえて、生活に慣れてきた時期。他人に触られたくない、プライベートなものだって、すでにちらほら。

 転居する事情も、自分の意志からではなく、相手からの提案。素直に聞くのは、抵抗があった。

 すぐに答えられない俺を見て、大家さんは「ならば、部屋を移るまでで構わない。お願いしたいことがある。もしくは誰かをここに寄越すことになるが」と、俺に頼みごとをしてきたんだ。

 

 数時間後。俺はタイマーをかけながら、午後四時を迎えるのを待っていた。

 大家さんの提案に対し、俺は他人を部屋へあげるよりも、自分が頼みごとを引き受けることを選んだんだ。

 救急車については「必要ないよ」と大家さんが却下。そして今、俺の鼓膜を揺らすのは救急車のサイレンではなく、セットしておいたタイマーのアラーム。

 俺はストップウォッチを首から提げつつ、ユニットバスの洗面台。その鏡の前に立ち、映っている自分を見据えながら、大家さんから伝えられた言葉を口にする。


「――世界には己しかいない」


 言い終わると数秒を置いて、更に二度、三度と同じ言葉を重ねていく。一分間に、たっぷり時間をかけて六回。

 言い始めたら、六回目が終わるまで、絶対に中断してはならない。また一分以上の時間をかけてもいけない。

 これを日に3回。0時、8時、16時の8時間おきに行って欲しい、というのが大家さんの依頼だった。期限は、俺がこの部屋を去るまで。

 

 大家さんが挙げる部屋の候補は、いずれもここから離れた場所にあった。

 せめてこのアパートの、どこかしら空いている部屋にしてほしいと申し出たんだが、許してもらえなかったよ。

 利便性を求める俺は、自分でも部屋を探したが、いいところはどこも高いか、埋まっていると、かみ合わない。

 すでに夏休みも15日目。およそ3分の1を過ぎている。

 大家さんは代役の訪問を提案してくれるが、俺は変わらず断り続けていた。

 でも、俺の中では妥協する考えが、次第に強まり出していたよ。


 きっかけは、実行から一週間後の0時ちょうど。鏡の前に立ち、六回中、四回目の言葉を口にしようとした時だ。。

 肩と背中がひりつく。すぐ真後ろに誰かが立った時に感じる、あの気配だ。

 鏡には自分以外は、便座と浴槽と閉め切ったガラス戸、および壁とカーテンが映っているだけ。振り返ったけど、やはりこの空間には俺しかいない。

 

 それから0時に、四回目の文句を口にする際、俺は背中に気配を感じるようになる。そのうえ、閉めてあるガラス戸が揺れたり、フローリングがきしむ音がしたり……。

 14日目なぞは、空っぽのはずの浴槽から、ギリギリで板を破ってしまった釘のように、黒い髪の毛が一本、鏡越しに「ちょろっ」と先っぽだけを出したことがあったっけ。

 言い終わったあとに確かめたら、実際に髪の毛が浴槽に張り付いていたよ。

 世界には己しかいない。その言葉を、空間が拒みたがっているかのようだった。

 

 ついに俺は、大家さんの提示した物件のひとつで、折れることにした。

 最低限、運んでおきたいものの荷づくりも済み、翌朝には引っ越すことに。そして、最後のお勤めである、0時を迎えた。

 俺は、例の言葉を紡ぐ。


「世界には己しかいない」。一回目、問題なし。

「世界には己しかいない」。二回目、力が入って肩が揺れたが、それ以外は問題なし。

「世界には己しかいない」。三回目、耳の下から汗が落ちる。鏡の俺も同じで、問題なし。

「世界には己しかいない」。四回目、足元をタンクローリーが通ったような、音が走る。


 ほどなく、部屋が揺れた。最初は足の先で感じるだけだったが、すぐ洗面台の上に置いてあるボディソープの容器が倒れ、俺自身も立っていられないほど、強く床が揺れ始めた。

 肩に何かが当たると共に、キュキュッと頭上から音。

 床に転がったのは電球のカバー。見上げると、裸となった電球が、揺れと共にぐらぐらよろめいている。

 とっさに身をかわす。ほどなく、外れて落ちる電球は、樹脂床とぶつかって一部が割れた。窓越しに明かりが入ってくるから真っ暗じゃないが、すぐには目が慣れない。

 はっと、俺はストップウォッチを見た。残り時間は四秒。

 ストップウォッチを手放し、かすかに揺れが残っている中、割れた電球を隅へ乱暴に押しやって、俺は再び鏡の前へ。


「世界には己しかいない」五回目、間に合え……。

「世界には己しかいない」六回目、間に合え!


 揺れがすっかり収まり、俺はほっとしたが、思わずストップウォッチを見て愕然とした。

 ストップウォッチが先ほど見た、残り四秒の時点で止まっている。あの時、俺はストップウォッチのどのボタンも押さず、手放した。止まるはずがない。

 考えられるとしたら、落ちてくるだろう電球をかわした時、とっさにボタンを押してしまったこと。もし、あの時点ですでに56秒が経っていたなら、明らかに時間オーバー……。


 顔を上げる俺。鏡の中の俺は引きつった顔をしていたが、それ以上に、胸のところにピンポン玉ほどのサイズをした、茶色い円がうずくまっている。

 胸を見下ろしたが、異状はない。鏡の汚れかとも思ったが、先ほどまでこんなものは目に入らなかった。

 視線を戻すと、茶色い円はすでに、握りこぶし二つ分を並べたほどの大きさになっていたが、それだけじゃない。

 円からずるりと、こぼれ落ちてくる。洗面ボウルの中に転がったのは、身体を茶色く染めながら丸まっている、赤ん坊だったんだ。

 泣き声が響く。あの日、壁越しに聞こえてきたのが、数段に大きくなったものだった。けれど、それも長くは続かない。

 赤ん坊の小さい手が、あふれ防止のオーバーフロー孔にかかった瞬間。

 掃除機がビニール袋を吸い込むように、指先からずるりと、身体を崩しながら孔の奥へと入り込んでしまったんだ。赤子のいた証拠は、洗面ボウルを汚す茶色い液体の残滓のみ。


 あっけに取られて動けない俺の耳に、部屋の前の廊下を走り、ドアをノックする音が飛び込んでくる。大家さんだった。

「大丈夫だった?」と声をかけてくれたのは、あの揺れの大きさのためだけではないだろう。迎えた俺の顔色と、洗面所の様子を見て大家さんは悔しそうな、それでいて悲しそうな顔をした。

「君は悪くないよ」と話し、明日の午前中にはここを出なさい。大きな荷物は相談した通り、後から送るからと告げて部屋を去ろうとする大家さんに、俺はあの目にした光景を問いただす。

 大家さんが語ったところによると。


 この土地には昔から、母がいないのに、虚空から産まれる赤子がいるのだという。

 その赤子は死なない。一度形を成したなら、斬っても叩いても、首を絞めても。形を崩して、逃げてしまう。

 そして放っておくと、水に溶け込んで悪さをする。水に関わる事故の一部は、この赤子の仕業だという。


「だから赤子を、井の中の蛙にする。どこにも行かないように。この世界には自分しかいないと思い込ませるために。しっかりと閉じ込めた上で、思い込ませるための声を、特定の手はずで外から浴びせるんだ。

『世界には己しかいない』とね」


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― 新着の感想 ―
[一言] 序盤は突然の産声に煽られるように色々な状況を想定させられて、その後の面食らうような大家さんの対応も怪しすぎて、別の意味でとても怖かったです。 理解が及ばない存在、しかも自分達に害を及ぼすか…
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