黑侠幫③
二人の間に会話が無くなってから数歩で、自室の前に着いた。雅麗が乱暴にそのドアを開けると、自分のベッドの上に一人の男が尊大な態度で座っていた。彼を目にした途端、雅麗は元々機嫌が悪かったのが更に悪くなった。
「潘? 何であんたがいるの」
「俺とお前の仲だろう。別にいいじゃねェか」
「いつも勝手にそう言って付きまとってるけどさ、私はあんたと懇ろになった覚えは無いよ。出てって」
雅麗が怒りを滲ませて言うと、潘は面倒臭そうに立ち上がった。そしてそのまま出て行くと思いきや、彼はいきなり勝の鼻を殴った。本気で殴ったようで、不意打ちだったこともあって勝は尻餅をついて、片手で鼻血が出た鼻を押さえた。
「何だ。ボスが呼んだ助っ人にしちゃあ、大したことねェな」
潘が嘲笑う。一方で、雅麗は勝の目の色が変わるのを見た。流石の彼も、いきなり殴られて頭に血が上ったということだろう。だが、雅麗から見て彼が潘に勝てるとは思えなかった。それに、勝は客人だ。彼が騒動を起こす側に回ってしまえば、事情はどうあれ彼だけでなく徳橋組の立場も悪くなってしまう。とはいえ、客人に手を出した潘には成敗を加えねばならない。利害と信用が物を言う裏社会で、潘の行動は愚か極まりないものだ。
「勝。悪いけどここは抑えて。その怒りは私が晴らす」
雅麗は、日本語で勝に告げた。そして、ゆらりと潘に向き直り、殺気を込めた視線で彼を射抜いた。
「調子に乗るなよ高麗棒子。客人に手を出す愚か者はうちの幫には要らないからね」
「あ? 最近地位上がったからって、破麻の癖に調子乗ってんじゃねェぞ。テメェは破麻らしく俺に股開いてりゃいいんだよ。無理矢理にでもそうしてやろうか」
雅麗の目論見通り、潘はすぐに激昂した。高麗棒子とは彼の民族である朝鮮族を罵倒する言葉だ。雅麗は朝鮮族全員を見下している訳ではないが、潘を挑発するにはこの上なく適した言葉だ。
「悪いけどね。私はもう、体を使って首の皮を繋ぎ止めなきゃいけなかった昔の私じゃないんだ。腕っ節でも口でも、私は誰にも負けない女になった。かかってきなよ。私をレイプできるもんならやってごらん」
雅麗は重ねて挑発する。すると、潘は怒りの唸りを上げ、雅麗の顔目掛けて右の拳を振るった。だが、それは雅麗の予想通りの動きだった。彼女は左手で彼の拳を受け、更に即座に捻り上げ、力を込めて右腕の骨をへし折る。
潘は悲鳴を上げて左手で右腕を抑え、その場に座り込んだ。雅麗は無感情で袖に隠していたナイフで彼の左肩と左腕の肘の関節を深々と刺した後、その首根っこを掴み、彼を廊下に引きずり出した。
「腕折られただけでこんなんになるなんて、案外大したことないね。このザマじゃそのうち殺されてただろうし、早く死ねるからある意味ラッキーだったね」
雅麗は潘の耳元で囁いた。それから、彼女は彼の肘に刺していたナイフを抜き、逃げられぬようにそれで彼の両足の腱を切った。潘の絶叫が廊下中に響き渡る。その耳障りな声に、雅麗は眉間に深くしわを寄せた。
「うるさいよ。早く死ね」
雅麗は潘の背中に乗り、彼の喉を掻き切ろうと顔を掴んで上げさせようとした。だが彼は必死に抵抗し、顎を限界まで引いて喉を守った。
「そう。なら分かったよ」
一度ため息をついて頭から手を離すと、雅麗はナイフで潘のうなじのあたりを滅多刺しにした。潘は「ぎゃっ」と断末魔の悲鳴を上げ、ついに動かなくなった。雅麗は自室のちり紙で手とナイフについた血を拭い、潘の死体を始末するように連絡すると、ナイフを片手に持ったまま、勝の方を見た。彼の目は初め潘の死体に釘付けになっていたが、やがて雅麗と目が合った。彼の顔色は雅麗が殺しを披露する前と比べて、明らかに悪くなっていた。それは無理もないことだ。勝が人が殺される一部始終を見るのはこれが初めてのはずで、しかも彼は裏社会で生きるつもりは無いという。裏社会しか知らなかった雅麗でさえ、初めて人の殺される様を見たときは恐怖で震えが止まらなかったのだ。
「ショッキング、だった?」
「あ、うん。でも、こういうこと、珍しくないんだよな。ウチの連中だって、抗争で何人殺したとかで自慢してんだし。宿神器での戦いだって、殺し合いだろ?」
平静を保とうとしているのか、勝は引き攣った笑みを浮かべ、震え声で言った。その上目に涙は溜まり、息も荒い。雅麗が思っていたよりも彼の動揺は激しかった。雅麗は戦う前にあらかじめ彼に死体のひとつくらいは見せておくべきだろうと考えていて、たまたま殺しを見せられる機会ができたからそちらの方が良かろうと軽い考えで行ったことだったが、軽率すぎた行いだったように思われた。
「えっと、辛い?」
雅麗が尋ねると、勝は暫し迷って、やがて弱々しく頷いた。その様がまるでか弱い幼子のように見え、雅麗は彼に対する罪悪感と庇護欲を掻き立てられた。
「勝。ベッドに腰掛けて、ちょっと待ってて」
勝が指示に従ったのを確認すると、雅麗はクローゼットから今夜の晩餐会で着る予定だった真っ赤なチャイナドレスを引っ張り出して、洗面所に向かった。
***
ベッドに腰掛けた勝は、深呼吸を繰り返していた。目を閉じれば、あの断末魔の悲鳴と、血に塗れた死体が心に浮かぶ。一度は彼に憎悪を抱いたはずなのに、今はまるで無く、むしろただ恐ろしい物と化していた。それだけでなく、淡々と殺した雅麗にも、恐怖を感じていた。明るく気のいい少女だったはずの彼女が、手慣れた様子で目の前で人殺しをしたという事実は、これまで日陰から目を背けるように生きてきた勝にとって、容易に受け入れられることではない。
しばらく待っていると、雅麗が扇情的なチャイナドレスを身に纏って、勝の目の前に現れた。その淫靡ながらも美しい姿は、先程まで抱いていた雅麗に対する恐怖を完全に吹き飛ばしてしまった。
「雅麗、何だその格好は」
「今日の君の歓迎会で着るものだよ。さっき着てたのは返り血付いてたし、不都合でしょ」
雅麗は、その言葉の意味が分からなくて戸惑っている勝の前に立つと、その頭を優しく両腕で抱き、胸に押し付けた。下着は着ていないらしく、肌の暖かさが殆ど直接伝わってきた。
「雅麗!? な、何!?」
「こら喋るな。くすぐったいじゃん」
「質問に答えろよ!」
勝は顔を真っ赤にしてじたばたした。心地は良いが、あまりに恥ずかしい。同い年の、しかも女性にこのように慰められるのは、勝にとっては悔しいことでもあった。一方、雅麗は眉をひそめて、しかし勝のことは離さずに言う。
「辛いって言ってたじゃん。だからだよ」
「そりゃ言ったけど! こんなんじゃあ、畜生!」
先程目に溜めたものとは違う涙が、勝の目から溢れてきた。彼は強引に雅麗を引き離し、彼女に背を向けて涙を拭った。そうしていると、雅麗が今度は背中から抱き着いてきた。勝は、あたかも柔らかく温かな毛布に包まれたような感覚を覚えたが、それは傷口に塩を塗るようなものでもあった。
「大丈夫だよ。私が慰めてあげるから」
「やめてよ。お前、そんなんじゃなかっただろ。初めて会ってからずっと冷たかったじゃんか。何で急にこんなに態度が変わるんだよ」
勝は涙声で言葉をぶつけた。すると、雅麗は暫く黙っていたが、勝から手を離すことはなかった。やがて勝の我慢が頂点に達しかかったところで、雅麗がこれまでにないような落ち着いた声色で語り出した。
「勝。私はさ、昔の自分と重なるとこが少しでもある子はほっとけないんだよ。三栄子ちゃんのことを気に入ったのも、今君に優しくしてるのも、究極的にはそういう理由」
「三栄子は分からんでもないけど、俺もなのか」
「殺しを初めて見た時の様子がね。私が初めてそういうのを見た時、暫く食事が喉を通らなかったし、短いスパンでゲェゲェ吐いたし、夜は一睡もできなくて、辛くて辛くて仕方なかったのに、誰も優しくしてくれなくて、むしろうるさいし生意気だってボコボコにされたから。十年前のことだけど、その時まだ鴻鈞さんとは知り合ってなかったし、父さんはその辺の売女に産ませた十三女の私なんか気にも留めなかった」
「だから、優しくしてるのか? 宿神器をうまく使えなくなったら困るとかじゃなく」
「うん。そういうのもあるけど、一番はさっき言った通り。辛い時に誰も慰めてくれないのは、本当に苦しいから。それに私のせいで辛く思ったんだから、回復させるのは私の責任だしね」
「そうか」
勝は、抵抗するのをやめた。辛いのは本当のことで、雅麗のおかげでかなり癒されたのも事実だ。ならば彼女に身を委ねるのが一番だろうと彼は考えた。
そのままお互いに無言で過ごしていたが、勝にはただそうしているのも恥ずかしかったので、聞くのをためらっていたことを、思い切って尋ねることにした。
「なあ雅麗。お前の過去、聞いてもいいか?」
「うん、いいよ。どこから聞きたい?」
「最初から」
「うん。私は何度も言うように父さんの十三女として生まれたの。しかも、母さんは正式に娶った人じゃなくて、誰とも知れない売春婦だった。私ですら、顔は分からない。とまァそんなわけで、私の地位はド底辺から始まったわけ。父さんが世話してくれたのはご飯だけで、他に何もしてくれなかったから、私は最初はお姉ちゃんに頼ってたんだ。10個上の綺麗な人でね。明るくて優しくて、それでいてプライドの高い人。そんなお姉ちゃんが大好きだったの」
言葉を紡ぐたび、彼女の抱く力が少しずつ弱くなっていくのを、勝は感じた。一度、そのことを寂しく思ったが、勝はその念を振り払い、言葉を止めてしまった雅麗に続きを促す。
「そのお姉さん、どうなったの?」
「死んだよ。さっき言った、初めて見た殺しだよ。私の目の前で、レイプされ尽くして、最終的に撲殺された。まだ14だったのにね。そのお姉ちゃんは4番目の子で、父さんが可愛がってたから、その犯人たちは皆リンチされて殺された。で、私は放置された。父さんは目を合わせることすらしてくれなくて、泣いたらうるさいって、他の幫の人に殴られた。それで何のために生きてるのか分からなくなってた頃に、私は凰に認められて、宿神器に認められた縁で鴻鈞さんと知り合ったの」
勝はどう言葉をかければいいか分からなくなっていた。彼女の人生は、勝のそれとは比較にならないほど過酷なもので、いかに己が温室の中で育ってきたかを思い知った。しかし、そのような勝の心境をよそに、雅麗は変わらぬ調子で語り続ける。
「でも、当時の鴻鈞さんはよく香港や上海に取り引きしに行ってたから、いつも一緒に居られるわけじゃなかった。だから、私は出るとこが出始めてから、幫で力のある人に片っ端から身体を売り出したの。さっきの潘もその一人。そうすれば、少なくとも肉体関係が続いてる間は守ってくれたから。それは鴻鈞さんから習ってたカンフーと、あと学もなきゃダメだよねってことでやってた勉強が完成するまで続けて、それが終わったら気に入った人とだけ寝るようになった。なんだかんだでセックスにハマっちゃってたから、やめられなかったんだよね」
「でも、そんなことしだしたら、それまで体の付き合いがあったやつは黙ってないんじゃないか」
「うん。でも、最初にそう言って突っかかってきたのをカンフーで一方的に殺したら、めっきり無くなったよ。潘みたいに諦めの悪いのも居たけど、そういうのは簡単にあしらえたし」
「それで、江竜会を潰す必要が出てきて、今に至るって感じ?」
「うん。じゃあ、昔話はこのくらいにしようか。ところで落ち着いた?」
勝が感傷に浸る暇もなく、雅麗がいきなり尋ねてきた。勝が深く考えずに頷くと、雅麗はぱっと彼から離れた。無意識のうちに彼女に体重をかけていた彼は、危うく転がりそうになってしまった。その様子を笑いながら、雅麗は意地悪く言う。
「ならここまで。もうすぐ行かなきゃいけないし、早く着替えてね」
雅麗は笑顔で、勝のスーツを突き出してきた。勝はそれを渋々受け取り、唇を尖らせながら着替え始める。
「不満そうだけど、ひょっとしてもっとくっついて欲しかった?」
「別に。ていうかこっち見てんなよ」
雅麗の言葉が図星だった勝は、赤らめた顔を隠すように背けて、ぶっきらぼうに言った。しかし勝は、こうした態度は雅麗をつけ上がらせるだけだと思い出した。現に、彼女は腹立たしいくらいにニヤニヤして、勝の前に回り込んできていた。
「さっき抱きついた時も思ったけど、意外とガタイはいいんだねェ。でもくっつくのはもう無しね。どうしてもというなら、私に認められることだね。今の勝は未熟も未熟。そんな子に意味も無くくっつきたくはないからさ」
雅麗は勝をからかうような調子だった。彼女の言うことが正しいとは認めたくなかったが、その意地があまりにみすぼらしいものに感じて、勝は大人しくそれを受け入れた。だがその一方で、心の底から、彼女を見返してやりたいという炎が彼の中に現れた。それはこれまでの、彼女と張り合おうとするものではなく、また恋をしたわけでもない。ただ、先の温もりをもう一度手にするためだった。