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宿神器奇譚  作者: 黒井押切町
戦いの始まり
1/10

台湾から来た女①

 12月の上旬のある朝は、初冬らしく冷え込む朝だった。障子越しに射し込む朝の陽光も、日に日に少しずつ強さを失っている。しかし人が眼を覚ますのには十分で、徳橋勝(とくはしまさる)もそれで眠りから覚めた。彼は枕元のスマートフォンをのけてから、厚い羽毛布団から這うように出る。それから布団を三つ折りにして、スリッパを持って、替えたばかりの藺草の畳の感触を味わいつつ、寝巻きのジャージ姿のまま八畳間の部屋を後にした。

 縁側に出た勝がふと空を見上げてみると、空は雲ひとつない快晴で、まさしく冬の朝らしい空だった。しかし空模様とは対照的に、彼の部屋の隣である妹の三栄子(みえこ)の部屋からはまるで生気が感じられなかった。彼は結果を知りつつも、その部屋の障子戸を開けた。


「やっぱり」


 その部屋には誰もいなかった。部屋の中はごみや彼女の私物が散乱していて、もう何日も掃除されていないことがわかる。彼女はいわゆる不良少女で、中学に上がってからは学校には通わず、家にも殆ど帰っていない。勝が以前見かけた時は後ろ姿しか見えなかったが、その時は髪を金一色に染め、虎の刺繍が入った派手なスカジャンを着ていたことを覚えている。


「よう、勝ぼっちゃん。三栄子嬢ちゃんは今日も留守かい」


 庭の方から、低いが気さくな男の声がした。勝がそちらを振り返ってみると、小太りで胴長短足の体にすててこと白いシャツを着て、それに腹巻を巻いて、更に半纏を羽織った、禿で丸顔の中年男性が近づいてきた。彼の名は笠島猛(かさしまたけし)といい、勝の父である剛吉(ごうきち)の幼馴染で、徳橋家の離れに居候している。彼は医者なのだが、過去にモルヒネの密売を行ったせいで医師免許を剥奪され刑務所に入り、出てきた時には家族から勘当されていたため、幼馴染の伝手で徳橋家に転がり込み、そこの専属医となった次第だ。


「うん。連絡も全然よこさないし、心配だよ」


「ま、ヤクザの組長の娘だし、その辺は割り切ってもいいんじゃねェか? 本気でヤバそうなら剛ちゃんが捜索かけるわ」


「能天気だね。俺にはそんな風には考えられん」


 呆れ気味な勝の言葉に「能天気ね。違ェねェや」と猛は笑い、靴を脱いで縁側に上がってきた。勝はため息をついて、また歩き出した。その後ろに猛が着いてくる。彼が警戒すべき人でないと分かっていても、ずっと一定の距離を保ったまま着いてこられるのには、勝は落ち着かなかった。彼も勝のそのような性は分かっているはずだが、面白がっているのか、そのまま着いてきていた。

 猛の言う通り、勝と三栄子の父の剛吉は暴力団「徳橋組」の組長だ。ただし徳橋組はかなり特異な暴力団で、世襲制であり、その上組員になれるのも徳橋の血が流れている者のみだ。言い伝えによればその源流は神代にまで遡るとのことだが、その特殊な体制のおかげで、勢力圏は地元のA県I市北部のみと小規模なものとなっている。

 世襲制の伝統に則るなら勝は次期組長であるが、彼は跡目を継ぐことに消極的だ。彼は堅気で真っ当に生きたいと考えている。堅気の人間としての将来像は全く無く、自分が継がなかった徳橋組がどうなるか、などは全く考えられていないが、勝は暴力団組長として生きるのはなんとなく嫌だった。しかし、根拠の弱さ故か、それとも剛吉が怖いのか勝にも分からないが、15歳の今までずっとそれを誰にも言い出せずにいる。

 ダイニングルーム替わりの板の間に着くと、既にテーブルには朝食のご飯、納豆のパック、目玉焼きと味噌汁が並べられていて、勝の母の美代(みよ)と大叔父の寛亮(かんすけ)が椅子に座っていた。しかし、三栄子はもちろん、剛吉の姿も見えなかった。


「母さん、親父は?」


「朝から用事があってもう家出たわ。それより、冷めるといかんで早よう席につきゃあ」


 方言交じりの言葉で美代が勝と猛を急かす。二人ともその言葉に従って席に着くが、勝はその途中で、部屋の隅に前日までは無かった大きな段ボール箱がいくつか置いてあることに気がついた。


「あれなに?」


 全員で「いただきます」と唱和してからすぐに、勝は段ボール箱を指して尋ねた。これには、寛亮がしわがれた声で最初に反応した。


「剛吉から聞いとらんのか。今日から増える居候の荷物だよ」


「え、全然聞いてないんだけど。どんな人が来んの?」


「聞いとらんならええわ。学校から帰ってからのお楽しみにしとけ」


 勝の質問は無視して、寛亮は古傷だらけの顔をほころばせて陽気に笑って、そそくさと食事を始めた。困った勝は美代と猛の方を見るが、二人とも笑顔で首を横に振った。


「誰も教えてくれないんかい」


 勝はため息をついて、やけ気味に納豆のパックを開けて箸でかき混ぜ始める。しかし力が入りすぎて、発泡スチロールの容器を箸が突き破ってしまった。


「むう」


 勝は大きく息を吐いて一旦心を落ち着かせ、力を弱めてかき混ぜるのを再開した。しばらくそうしてからタレとカラシを加えて、またかき混ぜる。三人の世間話を耳にしながら、彼はご飯に混ぜ終えた納豆をかけて、どんぶりの半分くらいを一気に口に入れた。


「お、豪快にいくねェ。流石中学生」


 ころころと笑う美代を無視して、勝は味噌汁を一口飲み、さらに目玉焼きをあっという間に片付けた。すると、三人が拗ねちゃってるね、と小声で話し出したので、いよいよ恥ずかしくなった勝は残りの納豆ご飯を口の中にかき入れ、それを味噌汁で喉奥に押し込んだ。


「ごちそうさまー」


 勝は食器を台所の流し台に持っていくと、パタパタとスリッパの音を立てながら自室に戻った。続いて、ジャージを脱いで学生服に着替える。この間、勝の頭の中は新しい居候のことで頭がいっぱいだった。暴力団組長の家に居候するという点で既にまともな人間では無さそうだが、家族が増えることは勝にとって大歓迎だ。寛亮たちの反応からしても、少なくとも悪い人ではないと考えて間違いは無いだろうと思えた。


(俺と同年代ってことは無いだろうから、多分大人だろうな。小遣いくれる人だといいなァ)


 彼、もしくは彼女がどのような人物か妄想し出すと、勝は今の一分一秒さえ途方もなく長い時間に思えてきた。こうなると、学校に行くのもいつもより楽しみになるものだった。彼は鼻歌まじりに学校指定のスリーウェイバッグに今日の持ち物を詰め込むと、軽い足取りで玄関に向かう。そこで通学用の白い靴を履いて「いってきます」と大声で言い、引き戸を開けた。


「おはようございます、若!」


 勝が一歩外に出ると、陽光の下、門までの道の両脇にずらりと並んだ、スーツ姿の徳橋組の構成員たちの揃った声が彼の耳に飛び込んできた。彼らは三十度の角度を保ったままピクリとも動かない。毎度のことながら、勝はこの光景にある種の美しさを感じていた。少しでもずれていたら後で半殺しの目にあうためにそうせざるを得ないのは分かっているが、それでも流石と思うほかなかった。

 勝は少しの気まずさを感じつつ構成員の道を抜けて門をくぐると、既に彼が通学するための黒塗りの高級車が用意されていた。いくら家が校区の端にあるとはいえ、車を出す必要はないと彼は剛吉に何度も言っているのだが、全く聞き入れられずにいて、今日も現に目の前にある。


「おはようごぜェやす、若」


 勝が助手席に座ると、くだけてはいるが先の構成員と全く同じフレーズを運転手の今枝金次(いまえだきんじ)が告げる。彼も同じくスーツ姿ではあるが、金に染めて逆立てた髪にサングラスという格好では、勝には微妙に似合っていないように見受けられたが、口にはしない。いつものことでもある。


「おはよう、金次さん。今日もいつものところまででお願いします」


「あいわかりやした」


 金次は威勢良く返事をして、車を発進させる。朝七時十分前という時間のおかげで車の密度は高くなく、数分で「いつものところ」に着いた。そこは角にコンビニエンスストアのある交差点で、勝たちの他には人はいない。勝はそこで降りると、歩き出すことはなく車を見送った。それから近くの電柱にもたれかかって、バッグから金瓶梅の日本語訳版を出して読み始める。


「よっす」


 十分ほどして、小学校来の友人の山本真一(やまもとしんいち)が来て、勝に声をかけた。勝も挨拶を返して、本をバッグにしまい、二人並んで歩き出す。


「そうそう、なんか今日うちのクラスに転校生が来るらしいね。可愛い子だといいな」


「転校生来んの? 俺全然知らんのだけど」


「昨日でもうとっくに話題に上がっとったが。まじで聞いとらんの?」


 驚く真一に、勝は頷きを返した。はじめ、真一は納得のいかない様子であったが、まあいいやとすぐに切り替わった。


「しかしこの時期に転校ってのも微妙じゃね? 親の都合だろうけどさ、卒業まであと四ヶ月しかないやん」


「まァしゃあなくね? その分、気の合うやつだったら仲良くしてやるのが人情やろ」


「ええこと言うなァ、勝。んな言葉よう出て来んわ」


 真一が勝の肩を叩く。勝は「からかうな」と苦笑いするが、内心ではほんの少しだけ嬉しく思った。彼や他の学校の友人は、勝の家が暴力団組長の家であることを知らない。そのおかげで、家の外にいる時はただ普通の中学生としていられる。その時は、些細なことでも彼には神の恵みのように思えるのだった。

 気分がより良くなった勝は、にやにやした顔で新しく話題を振った。


「転校生ってことで思い出したんだけどさ、なんか今日うちに居候が来るらしいのよね」


「あれ、お前ん家って人を呼ぶなってとこじゃなかったっけ?」


 真一に指摘されて、勝は内心でぎくりとなった。彼は友人に自分の家が暴力団でないことを露呈しないように、そのように言って「勝の家で遊ぼう」という誘いを潰してきていた。ところが浮かれてしまってつい口にしてしまった。だが、勝は涼しい顔を保って返す。


「そう言ってんのは親父だけだからな。多分親父に何か縁があるんじゃね」


「それもそうかァ。そういえばさ——」


 ここから三年二組の教室に入るまでの間、二人は昨晩のバラエティ番組の内容で話し続けた。薄汚いコンクリートの壁と年季の入った木の床板に囲まれた教室には、始業十分前ほどということもあってクラスメイトの約八割くらいが既にいて、喧騒を作り出している。すれ違う仲の良いクラスメイトに挨拶をしながら、二人は自分の席に向かう。


「お。よォ、勝、真一」


 女子と話していた、窓際の席に座っている一人のクラスメイトの肥えた男子が、二人に手を振る。彼は加藤薫(かとうかおる)といって、中学一年生来の友人だ。彼の席のすぐ後ろが真一の席で、その後ろで一番後ろが勝の席だ。そして、彼と話していた女子は彼の恋人で、名は笠島珠子(かさじまたまこ)という、学校一の美少女と名高い、お下げをした女子だ。苗字の通り猛の親戚で姪だが、彼女の口から猛の名が出たことはこれまで一回もない。


「おはよ、徳橋くんと山本くん」


「おっす」


「ういっす」


 薫と珠子に対して、勝と真一は軽い口調で返して、ほぼ同時にすとんと椅子に腰を落とした。硬い木の座面は勝の尻に優しくなかった。真一も似た様子で、少し顔をしかめていた。しかし彼の顔はすぐにぱあっと明るくなることとなった。


「おはよう、久島(ひさじま)さん」


「ん? あ、山本くん。おはよ」


 真一の隣の席の久島理緒(りお)が来たのだった。彼女も珠子に負けず劣らずの美少女で、整った顔立ちと、校則の都合でポニーテールにまとめられているものの、その長く艶やかな黒髪は真一だけでなく多くの男子を魅了している。性格も淑やかで人気が高い。彼女はバッグを机の上に置いて座ろうとするが、その一瞬だけ、彼女の表情に影が落とされた風に、勝には見えた。

 それから理緒はすぐに席を立って、女子の輪のひとつに入っていった。すると、真一がにやにやして勝に小声で話しかけてきた。


「久島さんかわいいよな」


「そうだとは思うけど、本人がいる空間でそういうこと言うか」


「どうせ聞いとらんよ。しかしまァ」


 真一は言葉を止めて、薫の方を見た。彼は珠子とたいへん仲睦まじく話し込んでいた。真一はため息をつき、勝の方に向き直った。


「いつものことだけど、あいつが羨ましい。自分で言うのもなんだけど、バレー部でキャプテンやっててそれなりに顔もいいし成績も悪くないのになんでだ?」


「知るか。大体まだ中学生なんだし、まだ悩まんでいいだろ」


「そうかなァ。そうなのかもなァ」


 真一は微妙に納得がいっていない様子だった。しかし、担任の志田豪二(しだごうじ)が教室に入ってきたことで、会話は中断された。彼は30歳と比較的若い社会科の教師で、服装は上下ともスーツである。普段は寡黙ではあるが個人的に話せば気さくで面白く、相談にも親身に乗ってくれるということ、また顔も美形であることから人気がそこそこある。


「今日は転校生が来るから朝のホームルームは三分切り上げて今からやるぞ。じゃ室長」


 豪二に促されて、室長が起立と礼の号令をかけ、皆もそれに従う。それから豪二が扉の外に向かって「入って」と声をかけると「はァい」と高めな女子の声がした。


「勝、女だぞ」


「みたいだな。かわいいといいけど」


 勝と真一が小声でそのように言葉を交わしていると、がらがらと引き戸が開けられて、件の転校生が遂に現れた。するとすぐに、男女問わずにクラスメイトのほぼ全員がどよめいた。160センチメートルほどの背丈に対し、股下は短く見積もっても85センチメートルはあり、さらに背筋をピンと伸ばしたその様はセーラー服がよく似合っている。更に雪のように白い肌はセーラー服の紺色にこの上なく映えていて、顔はやや幼げだが、玉顔という形容が相応しいくらいに整っている。首のあたりまで短く切りまとめられた黒髪もまた、その端正な顔に合っていた。

 彼女は新品のスリーウェイバッグを右手に下げ、優雅に教壇に上がって豪二の隣まで来ると、左手で白チョークを持って、縦に大きく「魏雅麗」と美しい字で書き、その横にこれまた綺麗な字で「ウェイ・ヤーリィ」と振り仮名をうった。そして彼女は振り返り、煌めくような笑顔を振りまいた。

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