第6話
戦士の号令に、獣たちが反応する。
まず二匹の魔狼が彼女に襲い掛かった。狙うは唯一自由な両脚。
動きやすさを重視する武闘家は軽装だ。勇者や戦士のように鎧をつけていない足は、無防備な場所が多い。柔肌が露出したその部分に、魔狼は容赦なく食らい付いた。
「い、ぎゃあああ!!」
牙が肉を裂き深く食い込んだ。みちみちと音を立てて広がる傷口から鮮血が溢れ、地面を汚していく。反射的に振りほどこうと暴れてみても魔狼の力は強く、弱った体で引き剥がせるものではない。
その内に牙は骨まで到達した。魔狼達は食い千切るでもなく、ただ力を込めて傷口をさらに抉ってくる。神経を直接削るような痛みに武闘家は絶叫した。
「あ、ぎぃ、いいいい!!」
「流石に痛そうだねえ、でもまだここからなんだなあ」
戦士の耳障りな声も全く耳に届かない。痛みだけが頭を支配し、それ以外の思考が浮かんでこない。さらに二匹の魔狼が彼女の腕に噛み付いた。
今まで感じたことのない痛みに武闘家は恥も外聞もなく荒れ狂うが、魔狼は怯みもしない。四つの牙が体を好き勝手に貪る感覚と、それに伴う痛みが全身を駆け抜け続けた。
傷なんていくらでも受けてきた。闘いの中で怪我をしない日なんてなかった。
――体の中で異物が暴れる。
生傷は絶えなかったけど、それが誇らしくもあった。自分が戦えるという自信になっていたから。
――血が溢れて止まらない。
無茶をしてもエイシャが治してくれた。この傷だって、エイシャがいれば。
――音が響く。血肉を削る音。ぐちゅぐちゅと、ぎちぎちと。体の一部がなくなっていく。
エイシャがいれば? エイシャは? アタシを助けてくれるのは?
――痛い、痛い、痛い。灼けるように痛い。燃えるように痛い。脳味噌が、焼き切れそうだ。
「ぎぎいいいいぃいい!」
思考と現状が噛み合わず、噛みしめた口から洩れるのは苦悶の声。
真っ赤に染まった視界で見える世界は、何一つ救いのない現実だった。
時間の経過すら分からない苦痛は、ふと気付けば終わっていた。
武闘家は見るも絶えない姿になっている。両手両足を真っ赤に染め、突き立てられた牙の跡からは白い骨が見えていた。涙と涎を垂らし、過呼吸になったのか必死に空気を吸い込む様子を見て、戦士は満足そうに近付いていく。
「――」
戦士の言葉はもはや彼女に届いていなかった。
妄言を垂らしながら彼は武闘家の縄を解いていく。完全に拘束から解放された彼女だが、逃げ出そうとする余裕はない。半ば放心状態の彼女は、戦士の為すがまま地面に横たわった。
だが少しは痛みが薄れて、思考が戻ってくる。
彼女が見たのは、傷つき動けない自分を楽しそうに見下す戦士の笑顔と、彼と一緒にこちらを取り囲む魔狼の群れ。
そこで彼女は自分の運命を察してしまう。
「…………あ、」
「じゃあ、反省の続きだねえ」
言い切ることは出来なかった。
「……!!」
少しでも腕を動かして抵抗出来たのは果たして幸運だったのだろうか。
力なく振り回されたその腕に、魔狼の一匹が飛び付いた。
ぶちり、という不快な音の後、少し腕が軽くなった。やけにゆっくりになった視界の中、見えたのは骨と肉が露出した手首の先。あるはずだった手がなくなり短くなった、自分の腕だった。
「ひっ――」
痛みを感じる暇すらない。次の瞬間には反対の手が食い千切られ、太もも辺りの肉も千切られる。熱した鉄棒を押し付けられたような熱が傷口を覆った。
そこから先は地獄だった。
徐々に五体を失っていく武闘家が、短くなった腕を、欠けた足を必死に振るう。その顔に最早生気はない。土気色になった表情は絶望に染まり、度を越した痛みで食いしばった歯は根元から折れ、胃液と血を一緒に噴き出していた。
魔狼が喉を狙ってくれれば早くに終わったかもしれない。だが彼等は体の端からゆっくりと削り取るように体を喰らっていく。徐々に、だが確実に命を削り取ってくる知性的な拷問に、彼女の心は既に壊れていた。
手よりも太い脚の腿から下が引き千切られる。頭が弾けたのではという程の衝撃が全身を貫く。体がより軽くなったのを実感できるのが生々しい。
盛大にノイズがかかった視界で自分の足だったモノの末路が見えた。
断面から骨と神経と肉とあらゆる体液が見える新鮮な生肉。今やただの物体になったそれが宙を飛び、地面を転がり回っていた。
魔狼達が我先にと奪い合っているからだ。痙攣している武闘家の身体よりも食いつきがいい。骨を投げられた犬のように、追いかけ回しその度に徐々に形を失っていく自分の足。
知覚しない方が良かったかもしれない。
けれどもう自分の力で目を閉ざすことすら出来ない。
痛みで強制的に開かされた眼で、地獄から目を逸らすことすらできなかった。
血しぶきを浴びながら、肉と骨を貪り食らう魔狼達。
ついに両方の腕と足が半分以下になり、戦士は声をあげることすら出来なくなった。
それでも痛みが意識を無理矢理覚醒させる。
牙が肉を貫く感触を、骨を削る絶叫を、神経を千切る壮絶を、ありとあらゆる痛みが全身を貫きながらも、まだ死ねない。
生きたまま食べられる。
こんな惨めで苦しい死に方なんて、想像もしてなかった。
脳裏をよぎるのは、仲間の顔。
「――た、すけ」
「結構死なないもんだね、ま、もう終わりかな」
涙を流しながら最後に口から出た懇願は、もう誰の耳にも届くことはなかったのだった。
あとはただ、自分の中から聞こえる生々しい音だけが、頭の中に響いていた。