第3話
夜になり、勇者たちは寝る準備を始めていた。
勇者と魔術師が手早く支度する中、やはり女性陣は準備が長い。
キレイ好きの治癒術師は、体を清潔にするために少し離れた水辺にいる。
湖の水はとても澄んでいた。
厳しい旅の中、束の間の休息を楽しむ治癒術師。
浅瀬で冷たい水の感触を楽しむ、ゆるやかな時間が流れていった。
「ん?」
ふと、彼女は何かの気配を感じて辺りを見回す。
一度気になってしまえば、のんびりと水浴びもしていられない。
おっとりしているように見える彼女。しかし、治癒術師として戦況を把握するため観察眼はチーム随一のものだ。
一見何の変化もないような森と湖の風景を眺め、わずかな違和感を彼女は覚えた。
「……誰かいるの?」
獣の気配ではない。
こちらが警戒した瞬間に、確かに気配が薄れた。
あの二人が本当に覗きにくるはずもない。
だとしたら、いったい誰が。
彼女はもう一度辺りを見回す。
その時、ふと気付く。
――暗い。魔物除けの光は?
そして、そう感じた時にはもう遅かった。
「!?」
突如として背中に衝撃が走る。
押し倒された身体は水面へと叩きつけられた。訳も分からず水の中に無理やり押し込められ、焦って水を呑み込んでしまう。酸素を求めて立ち上がろうとするが、意志に反して体はぴくりとも動かない。
「ぼごっ! ぼぁがッ?」
――なに!? なんなの!?
背後から四肢を抑え込まれているのだ。
どれだけもがいても水から逃れられない。暴れることで血液中の酸素は急スピードで減っていき、思考もゆるくなっていく。苦しいという感覚も薄れてきたころ、唐突に水から引き上げられた。
後ろから首根っこを掴まれ、うつ伏せのまま強制的に顔を上げさせられる。無理な体勢で曲がった首や背中が痛みを発しているのかもしれないが、今の彼女にそんなことを考える余裕はなかった。
本能的に体は酸素を求める。魚のように口を開閉させながら彼女は必死に空気を取り込んだ。だが、どれほど必死に吸い込んでも、体が楽にならない。むしろどんどん苦しくなる。鈍い頭では苦しいままなことは分かっても、それが何故かまでは分からない。
ただ無意識に必死に彼女は息を吸いこもうとしていた。
しかし、彼女の喉から鳴るのは呼吸音ではなく、濁ってえずいた空気の音だ。
なぜなら、視界の端に見える手の主は親切心で彼女を引き上げた訳ではない。
その手は彼女の喉を正確に締め上げ、十分に息が出来ないようにしていた。
水没から逃れてなお、呼吸困難を維持された治癒術師。
涙を流し、鼻水が垂れ、泡になった涎を溢れさせた。意識がおぼろげな中、再び彼女は地獄へと戻らされる。
再度、襲い来る水による暴力。幸いだったのは先程よりも意識が薄れて、苦しみをそれ程感じなかったことだろうか。どれだけの時間が経ったかも分からず、ようやく彼女は自分の全身が水面から完全に離れるのを感じた。助けが来て、引き上げられた訳ではない。後頸部に両手の親指をそえ、残る指でノドを抑えるこの腕の主が、変わったわけではないのだ。
水の中にいてなお首を絞められたことで、彼女の顔はうっ血し赤紫色になって膨張している。
治癒術師の美しい顔は腕力によって歪められたのだ。
「けほッ、ゴボッ、」
気絶する寸前に急に喉元が自由になった。呑み込んだ水を吐き出し、息を吸い込む。
何故今になって解放されたのか。そんなことを考える余裕もなく、彼女は命を繋ぐために同じ動作を繰りかえす。
そして平静を取り戻した時、彼女は自分が置かれている状況に気づいてしまった。
襲撃者の手はまだ自分の首に添えられたまま。その手には逃がさないという意思が感じ取れる。息苦しくないのは、彼女の白い股の間に太くごつい膝を差し入れ支えられているためだ。
自分はまだ自由になってなんかいない。
血の気が引くのを感じながら、それでも彼女は考える。自分を溺死させようとしたのは誰なのか。首を絞めて楽しんでいたのは誰なのか。仲間な訳がない。こんな魔物はいない。なら、魔王の手の者?
明晰な彼女のなかで多くの疑問が頭をよぎり、襲撃者を確認するために振り返るまでの数秒がひどく長く感じられた。
そして、彼女は見てしまう。
満面の笑みで自分の首に手を掛けている、戦士の姿を。
――ベルト?
あり得ないと、無意識に選択肢から消していた存在がそこにいる。
かつての仲間である戦士ゼルト・フィッシュが今、目の前にいる。自身を背後から襲い無理やり水に沈め首を絞めた、襲撃者として。
――彼は本気で、本気で私を。
――パーティーを追放したから、たったそれだけで、仲間を、殺そうとしている?
彼女の顔が恐怖と驚愕に歪み、感情の爆発が口から迸りそうになった、その瞬間。
「うぎゅっ!?」
戦士は両腕に力を込めて、彼女を完全に宙に持ち上げた。
膝の支えはなくなり、体格差もあったことで彼女の身体は水面から完全に離れた。これではもう助けも呼べない。頼りになる詠唱も、なにもできない。
「――!! ――!?」
殺意を持った腕をはがそうと爪を立てるも、治癒術師のか細い腕は戦士の腕をひっかくだけで効果はない。全体重がかかった首は完全に絞まってしまう。空中にいるために呼吸はおろか、水を叩いて音を出すことすら出来なくなっていた。これではもう助けは呼べない。彼女にとって唯一にして絶対の防御手段である詠唱も不可能。
絶望が、治癒術師の心を覆う。
それでもばたばたと見苦しく、身体は抵抗していた。
無駄な抵抗を戦士は味わう。花をゆっくりと手折るように徐々に手の力を強め、それに比例するように激しさを増す治癒術師の身体の震えに興奮しているのだ。
戦士の心が最高の喜びに満ちたときだ。
歪に暴れていた彼女の足が一度大きく痙攣し、にぶい音とともに力をう失い、人形のようにだらりと垂れ下がった。彼女の眼球が反転して白目を向く。彼女の鼻と口から胃液が流れる。彼女の舌が力なく飛び出て、死の恐怖によるものか体の反射か失禁している。
そして治癒術師は、息絶える。
その死体を見て戦士は一言も発さずに、
「…………」
ただ笑みを浮かべるのだった。