15 〜変貌〜 ④
女の手を取った瞬間に急激に冷え込んだ。今まで体感したことのない不思議な感覚だった。一体どうしてこんな一瞬でそれほど寒くなったのか、ネルは辺りを見渡してやっと気づいた。
家畜小屋へ瞬間移動していたのである。寒いのは家畜小屋が家の外にあるからだった。
居間の窓から溢れた光が曲がり角の向こうをぼんやり照らしている。そこはよくバクが牛の世話をしているところだが、今は、彼の拷問台だ。角の向こうからムチの破裂音と生々しい呻き声、母親の怒声が悪夢のように聞こえて、とてもいつものように角の陰から覗く気にはなれない。
ムチの音が鼓膜を叩く度、まるでネルも一緒に打たれているように震える。たまらず、ネルは蒼白いドレスの女にしがみついていた。もはや瞬間移動への驚愕すら恐怖に掻き消されて、それどころではない。
「大丈夫。恐がらないで——」
女がそっとネルを包み、耳元で囁く。
「私は、魔女。あんな人間程度、赤ん坊も同然だわ」
「!」
さあぁ、ぁ、ぁ、と背中を冷たい風が吹き抜けるような寒気がネルを襲った。
その女は蒼いバラだった。神秘的なまでに美しくも、しかし攻撃的な魔女のトゲのような一言に、戦慄する。
ネルの瞼に炎が蘇った。魔物であることが知れて大勢の前で焼き殺された少年の姿。人々がどれだけ魔女魔物を恐れていることか。逆を言えば、魔女魔物がどれだけ恐ろしい能力を持っていることか。それが今、自分をすっかり抱きしめている。
だが、魔女魔物の能力は、今のネルには恐ろしいものではなく、寧ろ心強く思えてしまった。
人々にあんな火焙りなんて残酷なことを平気でするようにさせてしまうほど強大な魔女魔物の能力があれば、例えムチを持った"大人"が相手であろうと問題ではない。
ネルはできるだけ声を小さくして言う。
「……助けて、お願い。バクを、助けてっ」
「ふふっ。お兄ちゃん思いな優しい子ね。なら、私がやるより、あなたが助けたらどうかしら」
「……え?」
魔女の顔を見上げた。魔女はとても楽しそうな笑みでこちらを見下ろしてきていた。
「あなたのお兄ちゃんは、知らない人に助けられるより、あなたに助けてもらったほうが嬉しいと思うわ」
「そ、そんな。でも——」
ネルはがたがたと足を震わせていた。壁も何も隔てず聞こえるムチの音や怒声はこれまでとは比べものにならないほど恐ろしかった。その中へ飛び込んでいくなど、考えられない。
ネルは両膝を折り、その場に座り込んでしまう。自分が情けなかった。大事な兄が目の前でこんなに苦しそうに呻いているというのに、恐ろしくて近づくこともできない。
魔女も合わせてしゃがみ、頭をなでてくる。
「あなたは、お兄ちゃんを助けたいのよね?」
ネルは声を殺して涙ぐみながら頷いた。
「お兄ちゃんを助ける力が、欲しくはない? こんなのも恐くも何ともなくなるほど、大きな力が、欲しくはない?」
「……ほしい」
「そうよね。それなら、あなたもお兄ちゃんを助けられるものね。言っておくけどね、直接手を下すのは、あなた。だって、何でこの私があんなののためにそこまでしなくちゃいけないの? おかしいの、分かるわよね?」
「……」
もうネルはどうしていいか分からなかった。どうしたらいいのか分かるまで考えたかったが、そんな時間もなければ、もちろん魔女も与えてくれなかった。
次に魔女が耳元で囁いてきたら、もう、ネルは何も恐くなくなってしまった。
○○○○
「ったく、どうしてこの家にお前みたいなのがいるんだろうね。お前は半分だけ私と血が繋がってるからってお情けで置いてやってるのに、うちのネルちゃんに近づきやがって鬱陶しい。稼ぎも少ないし、それを言えばまだ子供だから稼げないだなんて言い訳して、それでも男かい? いいかい? お前は要らない子なんだ。何度言ったら分かるんだ。自分の立場ってものをわきまえなきゃ、こうなるのは当然だろ?」
「……」
「お前は、奴隷だ。ネルちゃんのために働いていればいいのよ。お前だってそれが幸せなんじゃないのかね」
「……」
「お前はあくまでネルちゃんや家のために働くだけの奴隷なのさ。働いて当然なんだよ。働いてるからって図々しくうちのネルちゃんに近づくんじゃないよ、いいね? ……!」
それまで夢中でバクを理不尽に叱りつけながらムチを振るっていた母親は、自分のほうへ近づいてくるネルに気がついて言葉を失った。石にでも化けたように、ネルを見つめたまま動かない。
少し遅れて、地面に倒れ伏していたバクもやっと顔を上げ、こちらに気がついた。
ネルはバクと目が合った。彼は一瞬、目を丸くしたかと思えば、丸めた紙のようにぐしゃぐしゃに顔を歪め、泣き始めた。
「バク、バク……」
ネルの手には、父親の猟銃が握られていた。偶然壁に立てかけられているのを見つけたのだ。
猟銃の重みに小さな体をふらふら揺らしながら、一歩、もう一歩と近づいていく。
「今、助けてあげるからね」
「ね、ネルちゃん。何言ってるの? 早くそんなもの捨てなさい。もう遅いから、早く寝なきゃダメよ?」
母親は醜かった。この期に及んで声を震わせながら命乞いのようなことを言い始めた。
どうして今までこんな人だと分からなかったんだろうと、ネルは無邪気だった自分に腹が立った。
その母親に銃口を向ければ、それだけで高揚してしまう。長い間続いたバクの苦しみが、自分の悩みが、母親への怒りが、今やっと発散できるのだ。
「お母さん……」
けれどどうしてか、母親を狙って引き金に指をかける頃には涙が止まらなくなっていた。
銃に怯えて腰を抜かした間抜けな母親に再度銃口を向け、
「どうして、どうして……、どうしてお母さんを殺さなきゃいけないの!!」
「やめろ!!」
「!!」
銃声が爆ぜる。しかし、放たれた弾丸はバクの声のおかげで地面を打ち抜いただけに終わった。
ネルは反動で猟銃を左手へ遠く放り投げてしまい、その場に尻餅をついた。ネルはもう半ば錯乱状態になっていたが、大好きな兄の声はしっかり耳に届いた。
「そんなこと、しちゃだめだろ? オレはもう、充分幸せだよ。ネルは、それだけ心配してくれてたんだよな。オレのために、散々悩んで、こうなったんだよな? でも、お母さんを殺すのは、やっていいことじゃないよ。もう、いいから」
「……バク」
「オレは、大丈夫だから。ネルは、何も気にしないでくれよ。それがオレの願いだよ。頼むから、ネルは、いつものネルでいてくれ……」
土と涙で汚れ尽くしたバクの顔と、その必死の視線がネルの全身に染みた。
バクを助けようと思えば、母親を殺す以外に方法が分からない。けれどバクはそれを望んでいない。つまり母親を殺すこともまたバクの苦しみになってしまう。ネルは胸が張り裂けてしまいそうだった。
「バク、バク、嫌だよ、バクが痛いの、嫌だよ」
「痛くねぇよ、こんなの。なんともない。本当に、なんともないから、大丈夫だよ」
「……! バク!」
そのとき、バクの背中にあるものが突きつけられ、ネルは声をあげた。
「そうかい。痛くないのかい。なら、これで、どうなのさ!!」
バクに気を取られていて母親の動きに気がつかなかった。バクの背中に突きつけられたのは、先程ネルが放り投げてしまった猟銃だった。




