熊熊自適!……と森の王様
【8月 土の4の日】
日課のランニングから帰宅すると、家にイスト兄さんがいた。
自室に戻ろうとしているイスト兄さんに声を掛ける。
「兄さん、ひさしぶり!まだ落ち着かないの?」
イスト兄さんは王城勤めの事務官だ。
どうやら、勇者関連の諸手続きを担当しているらしく、毎日忙しい。
ここのところは、週に1度帰ってくれば良いほうだ。
「やぁブラッド、早いんだね。明日は討伐隊の点呼……という名の決起集会だからね。今日は明日に備える ということでお休みになったんだよ」
「そうか……じゃぁ兄さんも明日は広場へ行くの?」
「いや、私は王城で事務処理の続きだよ。現場組の方が多いけど、王城でも少しやることが残っているんだ」
「そうなんだ」
「そういえば、ブラッドは勇者様を見たことあるのかい?」
「あぁ、パレードで1度だけ。遠目からね。勇者様ってあんまり表に出てこないけど、王城にいるんだよね?」
「そうだね。王城で一室を与えられ、そこに滞在しているよ。普段は討伐隊の行軍予定を立てたり、討伐隊入隊希望者の書類審査をしていたりしているんだよ」
「へー行軍予定立ててるってことは、もう討伐隊の人数はだいたい分かっているってこと?」
「どのルートを通るかは概ね決まりつつあるよ。人数については、うーん。あんまり人数は関係ないようだね。何人いようと力技……お金の力で連れて行くみたいだよ」
「そうなんだ。兄さんはだいたい何人くらいになると思ってるの?」
「現時点で2万5000人余り入隊している。令状も1万人以上に発令されているから、全員来れば3万人を越える大軍隊になるね」
「それって王国の騎士団より多くなっちゃうじゃん。どのくらい来そうなの?」
「まぁ、いっても5割ってところだと思う。町の警備についている者もいれば、家族の生活を守らなきゃいけない者もいる訳だからね。と……王国の騎士団はもう少しいるんだよ?」
「あれそうだっけ?2万人くらいだと思ってた。……まぁそうだね。一家の主がいきなり居なくなったら生活困っちゃうもんね……っていうか現時点で2万人もいるんだ」
「あぁ半分以上は、その王国の騎士団だけどね。騎士団の3割ほど、2万人程度が派遣されることになっている。」
「えぇ……ほぼ騎士団じゃん。騎士団って6万人もいたの?」
「正確に言うと6万人にちょっと届いていないんだけど、それくらいはいるんだよ。このイスタブル周辺だけでも3万人の騎士団員がいるからね」
「あぁそうか。町の警備に派遣されている団員とか、プリスベルのも併せるとってことね」
「そうそう。皆が考えているよりも、意外と多いのさ」
「それにしても討伐隊に参加する騎士団員は多いんだね」
「それはそうさ、集団戦の訓練をしているものなんて、騎士団くらいしかいなんだから。大規模戦闘経験のない1000人の冒険者を、いきなり戦場に出してもたいした成果は上げられないと思うよ」
「まぁ……でもそれは騎士団だって一緒だと思うけど。大規模戦闘なんてここ100年は起きてないし」
「それでも訓練はきちんとしているのさ」
「なるほどね」
「ブラッドも討伐隊に参加するなら、来月からは訓練だよ?」
「え?そうなの?」
「そうさ。いかに指揮官がしっかりしていても、指揮官の指示通りに動かない兵は敵以上の害悪だからだね。来月ひと月は練兵だよ」
「うわぁ……がんばる……」
「まぁ私ももうひと踏ん張り頑張るよ」
「来月になったら楽になっていくんじゃないの?」
「うーん。来月は本格的な行軍計画を立てなきゃいけないからね。部隊の編制やら再検討して。討伐隊の出発までは忙しいままだと思うけど」
「ん?じゃぁここ最近は何してたの?」
「あー、自由連合や北方との折衝だったり、討伐隊への騎士団割り当て計画の作成、討伐隊の規律の作成、財源の確保のための税制の改正案の編纂、悪魔被害者への補償のために現地調査に行ったり……」
「あ、ごめん」
「とにかく、やることは山ほどあるんだよ。だから。」
「ん?」
「お金は大丈夫。ブラッドは家の事は気にせず頑張っておいでね。父さんも再来月から王城に戻るらしいし、本当に大丈夫」
「あ、あぁ、頑張るよ」
親父……あと2か月休むつもりかよ。
「それから、生きて帰ってくるんだよ。死んで残る名前なんて、私たち家族にとっては何の意味も無いんだからね」
「うん」
「母さんだけじゃない。あの父さんだって心配しているんだから……まったくその素振りは見せないけどね」
イスト兄さんはそう言いながら微笑み片手をひらひらと振ると、もう片方の手で自室のドアのノブを掴んだ。
「じゃぁまた明日。今日はゆっくり休みなよ」
「あぁ!ありがとう。兄さん」
イストの部屋のドアが閉まるのを見ながら。
生きて帰るか……死ぬ可能性、あるんだよな。
改めて気を引き締めるブラッドであった。
※※※
休めと言われたものの、まだ日が登ったばかりの時間である。
兄さん相当疲れてんな……と思いながらブラッドは日課である魔物駆逐へと行くことにした。
これでしばらく不光の森にも来ることが無くなるんだなぁ……
もし、最後になるようなら一発、最大レベルで魔法使ってみようかな……
あーダメだ。森の中に人がいたら危ないしな。今まで見たことないけど。
不光の森には特有種の植物などが群生しているという事は無いのだが、それなりに薬草が生えていたりする。
その薬草の価値と、森の中を闊歩する魔物のレベルを考えると、他の所で採取したほうが割がいい。
割がいいというか、その辺でも生えてる薬草を取りに行って、スロウエイプに囲まれるとかになったらシャレにならない。
よって、不光の森に訪れる人間は少ない。
いるとすればブラッドの様に力試しに来ている冒険者や、特定部位で小遣い稼ぎに来ている冒険者くらいである。
だが、そういった冒険者ですら、ほぼ見られないのは、一重にスロウエイプのせいであろう。
あれが強すぎるせいで、この森に入る者はほとんどいないのだ。
加えてここ数週間で言えば、この森の魔物の特定部位交換レートはダダ下がりしている。
ブラッドの持ち込みが主な理由である。
その交換レートの低下により、森の魔物を乱獲することを止めたブラッドは、自分の苦手とする少人数戦闘の練習をしていた。
スロウエイプの居住地を避け、森の奥へと進む。もう慣れたものである。
多少は、冒険者の危険察知というのも身についたのかもしれない。
最近、戦闘練習している魔物はリバースムーンベアという。
この魔物もスロウエイプと同じく、魔物化する前と名前が変わっていない、元からリバースムーンベアである。
胸に月のような模様があることからそう呼ばれている。
体長は2から3メートル。体重は400キロから700キロ。
魔物化する前から危険な猛獣であったが、魔物化したリバースムーンベアはその巨大な体躯を持って森奥の王として君臨していた。
このせいでスロウエイプは森の入り口辺りにまで縄張りを広げているようだ。
リバースムーンベアは森の最奥に、ムラを形成し住んでいる。
ムラと言っても別に家が有ったりするわけでは無い。
縄張りの中央に王らしきオスが居座り、その周りをメスを囲む。更にその周りに力の強いオスが囲む。
そんな囲いのさらに外側を若い個体がうろうろと、どうやら見張りであったり、食料の調達であったりを担っているようだ。
もともと群れて暮らす動物では無かったらしいのだが、リバースムーンベアは魔物化に伴い、狂暴化というよりは知恵を付けたらしい。
その王らしきオスに至っては体長は4mに届こうかと言うほど。
ブラッドが初めてそのムラを目にした時は、例によって全力で森の入り口まで逃げたものだ。
ただ、王はムラから出てくることは無いようだし、若い個体も他の個体とつるむということはしないようだ。
よって、1頭でウロウロしている若い個体を狩っているのである。
実際、群れを成さないリバースムーンベアは、依頼ランク的にソロだとCランク相当でスロウエイプより低かったりする。
だが、リバースムーンベアはその巨躯に似合わず俊敏であり、筋力、敏捷を上げていない状態のブラッドであれば全力疾走しても逃げ切ることはできない。
また、その爪……もう爪というか腕なんだが、その一撃はスロウエイプの頭を吹き飛ばす程の威力を持っている。
実際ブラッドは一度その光景を目の当たりにしたことがある。
相当の強者であり、だからこそこの森の王であるのだが、なぜそんな手強そうな魔物を練習相手にしているかと問われれば、ブラッドにとても相性が良いからである。
このリバースムーンベア、筋力低下や敏捷低下系の魔法が、すこぶる効くのである。
抵抗していないんじゃないかという程効く。
天は二物を与えないと言うが、そういうことなんだな。とブラッドは思ったものだ。
この森には魔法を使うような魔物はいない。というか魔方陣を行使する人間以外に魔法を使えるのは悪魔くらいだ。
魔法を使う魔物という者はまだ発見されていない。
なので、リバースムーンベアはこの森の王者だった訳だが、それはスロウエイプを恐れない魔法使いの登場により狩る側から狩られる側へと身を落としつつあった。
よし。いた。
例によって、うろうろしてる熊の個体を発見したブラッド。
既に自分自身には、筋力上昇や敏捷、思考速度の向上の魔法を、森に入る前にかけてある。
敏捷低下の魔法符を取り出す。
落ち着け。いつも通りやればいい。
魔法符に充填。距離を詰める。初撃を躱す。
おーけー
もし初撃を躱しきれなかった場合は、最初からやり直しだ。
初撃を躱したならば、魔法符を熊に貼り付け起動。
これで、リバースムーンベアは無力化される。
本来であれば、まだ認知されていないので、遠方から魔法で倒してしまえばいいのだが、それでは練習にならない。
その為、ブラッドは敢えての近接戦闘を行っていた。
常に相手に気づかれる前に魔法を打ち込めるわけでは無い。
この練習はいずれ活きる。そう考えていた。
魔法符に魔力を充填させる。
経路を単純にする代わりにコストはかかる。魔法符という物は概してそういうものだ。
走り出す。
敏捷上昇の魔法により、一般人よりは早い。
スカウトだったり、武闘家、一流の冒険者なんかに比べれば遅い。
ブラッドは魔法使いであるからそんなものである。
走るブラッドが森の木々の隙間を縫う。
その葉擦れ音に熊が気づく。
ブラッドをその目で捉えると、熊は腕を上げる。
テレフォンパンチどころではない。大きく振り上げ、そこから横なぎに腕を振るうだけだ。
その軌道の予測は容易い。
予測が容易いから避けられるかと言われれば、それは難しい。
横なぎで振られるその腕は多少の軌道修正を行うし、また、そのスピードは速すぎて普通の人間では見ることもかなわない。
ということで、避けるタイミングが合わなかったブラッドは吹っ飛ばされる。
手甲で受けたため、その爪によるダメージは無いが、木々の隙間を上手いこと通り抜け、少し開けた場所にまで転がされた。
もちろんその手甲を含めブラッドの軽鎧には硬度上昇がかかっているため、手甲自体にも傷は付いていない。
木にぶつかっていたらそれなりにダメージを受けていたであろうが、ここ最近受け身が上手くなってきたブラッドは回転受け身を行ったことでほとんどダメージを受けていない。
衝撃吸収の付与によるというのが大きいのであるが。
ブラッドが立ち上がった時、熊は既にブラッドに向けて突撃してきていた。
今度は体当たりである。
いかに衝撃付与であっても限度がある。
体重数百キロの熊が体当たりしてきた場合、それに耐えられるかと言われれば難しいだろう。
だが、しかし、一直線に走り込んでくるのであるから、躱すのはそれほど難しくない。
ブラッドはここ数か月の成果ともいえるその身のこなしで、華麗に熊の突進を躱したのだ。
敏捷やら筋力やらの向上魔法のおかげでもあるし、ここが開けた場所であったこともその要因ではあるが。
華麗に躱したブラッドはそこで気づいた。
あれ?
その開けた場所に繋がる獣道、何本かある獣道のそれぞれから熊が現れたのだ。
獣道であればまだ良い、が本当に道なき道であれば、逃走は格段に難しくなる。
奴等はそういったことが気にならないらしいが、人間は迫りくる木々の枝等を払いながらでなければ進めないからだ。
そういった事からブラッドは今、完全に逃走経路を失ったと言えよう。
あれ?囲まれてる?これマズくね?
最近、熊ばっかり狩ってたから恨まれてたんかな?
ってか待ち伏せとか賢すぎじゃん。
そんな話聞いて無いんですけど。
一点決めて突破するか……
ちなみにブラッドと熊との戦闘成績は8戦6勝である。
勝率は5割を超えているが、それはリトライを繰り返した結果であり、初撃を躱せる確率となると5割を下回っている。
初撃を躱せなかった場合、転がったところを叩かれるし、運よく躱せても魔法をかけてる間に、別の個体の攻撃を受ける。
自分に障壁魔法をかけていない以上、自分を中心とした範囲攻撃は出来ない。
逃げられそうな一角めがけて魔法でも打ち込むか……
それでも一か八かだな。
そうブラッドが考えたとき。
一頭の熊を押し退けて、それはそれは巨大な熊が現れた。
えぇぇぇぇ……王じゃん。
続く




