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 砂漠を越えて落ち延びようと、男は女を連れ出した。熱砂を渡ればその先は、男の生まれた故郷(くに)であったから。昼は血潮が煮えて干上がるほどの熱さが、夜はすべての命を飲み込もうとせんばかりの寒さが襲う。眼前に横たわる死——それが砂漠だ。随伴の数も最小限に、男は厳しい逃避行を先導した。腕の中に抱えた乙女のために。若く美しい王に仕えていた男は、名の知れた将であった。女は王の妹であった。矢を(つが)えた男たちが二人を追っていた。






 一

 先の王が病死し、まだ二十にも満たぬ王が冠を戴いた年、長らく続いていた隣国との戦もこれで一旦は落ち着くかに思えた。だが、むしろこれを好機と見たか隣国はさらに馬に鞭打ち、攻めを加速させた。争いは激しさを増し、男たちの屍が山を築き、女たちの涙が河を作るほどだった。互いを相食んで疲弊した両国にやがて訪れたのは、停戦とも呼べぬ膠着(こうちゃく)状態である。それでも一時の休息に民たちは胸を撫で下ろした。


 戦で功を立てた男に下賜(かし)されたのは、宝は宝でもただの玉ではない、王の妹だった。異国からやってきた砂漠の民である彼を繋ぎ止めようとしたのかどうか、周囲の反対をよそに王はすべての差配(さはい)を済ませてしまった後だった。


 男には異議を申し立てる理由もなければそんな力もなかった。結局、彼が花嫁の顔をまともに見たのは結婚を祝う宴席でであった。大きな目、すっと通った鼻梁(びりょう)、ぷっくりと膨れた唇が白い卵型の顔の中に芸術品のように並べられており、その美貌を目にすれば人々が神の娘と賛美するのも当然のように思われた。


 花嫁はしかし、男を一瞥(いちべつ)すると僅かにその形の良い眉をしかめた。そして人形のように美しい顔をまた無表情に戻すと、後は俯いたきり何の言葉も発さなかった。伏せられたまつげに乗った金粉がまるで涙のように煌めいていた。


 よほど自分は歓迎されていない花婿なのだろうと、その夜は腹痛を装って男は一人自室にこもった。他に誰か商売女を呼べば、王妹の機嫌を損ねるかもしれない。戦場に長く身を置いていた経験から、潤いのない夜をやり過ごすコツも心得ていた。宴の酔いをさらに深めることもせず、用意された豪華な寝台を使うこともなく、年に何度も訪れることのない自宅で虚しさの中、朝を迎えたのだった。


 翌日、男は王に呼び出された。まさか初夜を完遂しなかったことに対してお怒りなのかと身構えたがそうではなかった。


「昨夜は気を遣わせてしまったようだな。(あれ)からも謝罪したいと申し出があった」


 いきなり本題を切り込まれ、男は狼狽える。言葉もないままに頭を下げた。これは王の決めた縁談であり、両者ともに断る事の出来ない結婚であったのだ、いくら女が可哀想だからといっても抱かないわけにはいかない。ましてや彼女に恥をかかせ、謝罪させるつもりではなかった。愛してもいない男にいきなり抱かれるのは嫌だろうと遠慮してみたものの、それが「指一本すら触れられる事のなかった恥辱」となってしまうとは……。王妹のせいではなく自らの体調不良が招いた事だと、そう押し通す他はなかったのだった。


「あれは『母親に似て高慢だ』などと言われるが、私にとっては可愛い妹なのだ。玉のように大切に扱えとは言わん、だが、嫌わないでやってくれ。もしや、そなたなら懐かせる事が出来るやもしれんぞ。やがて小鳥のように囀ずり歌う時も来るだろう……あれを頼むぞ?」


 男は、是と返した。

 王は満足げに頷くと、さらに言葉を重ねた。


「さて。あれの所在をそなたの邸宅に移そうと思う。これからは遠征の機会も減るであろうぞ。戦地へ出てもこれからは、戻れば妻の暖かい腕に抱かれると思えばこそ、尚のこと気合いが入るな」


 そう言うと王は天を仰いで笑った。男はいつもより長く留め置かれたことに合点がいった。まさに今、男の邸宅には王妹が暮らしていくのに必要なものが運び込まれていることだろう。多すぎる荷物に元からあった家具が捨てられてしまわないかと考えたが、最小限のものしか置いていないのでそれはないだろうと思い直す。むしろ逆に捨てた方が女にとっては好都合かもしれない。元より趣味の良さよりも体裁を整えるためだけに購入した品々だ――それも来もしない来客のために。






 二

 帰りついてみれば、表の佇まいからしてどこか違うように思える。男はともすれば丸まりそうな背を伸ばして玄関を開けた。主人の帰りを待つ使用人に先立ち、女は男を出迎えた。降嫁し臣の妻として相応の衣装であるにもかかわらず、まるでそこが王宮かと見紛うほどの華やかさに男は気圧された。ここは本当に己の邸宅かと。


 言葉もなく頭を下げる女の顔は、やはり憂いを帯びた無表情だ。主の帰宅を待っていた彼らを労う言葉をかけてから、男は、手土産一つ持たない己の行き届かなさに歯噛みした。


 会話のない食事を終え、身を清めた男が部屋に戻るとそこには同じく身を清めた女がいた。いかにも頼りなげにポツンと座っている様に、男は彼女を憐れに思うのであった。


 男に気づいて顔を上げた女の、きつく結ばれた唇を見るにつけ、膝の上に置かれた震える拳を見るにつけ、今この場にいるのも本意でないと思える。このままではいけない……。


 美しい妻を得て、もちろんすぐにでも自分の懐に入れたい気持ちはあった、男は断じて不能ではなく、そういった色事が不得手なわけではなかったのだから。


 だが――と男は大きく息を吸った。


 目の前にいる乙女は王の宝、ただの娘ではないのだ。彼女を泣かせてはならない、不幸にしてはならない、男は覚悟を決めた。


 まだ若い乙女の足許に跪き、その手を取ると、怯えた瞳が彼を見据えた。何をするつもりかーーその無言の問いかけには答えず男は言った。


「昨夜は申し訳ありませんでした。貴女が不甲斐ない思いをするのではないか、ということにまで頭が回りませんでした。どうか許してください。

 そして、さらに不躾なお願いですが、夫婦になるまでにもうしばらく時間をいただきたいのです。自分は貴女をよく知りません、貴女も同じでしょう。互いを知らぬまま形だけ結ばれようとは思いません」


 昨夜のうちに何度も頭の中で捏ねくり回していた言葉は、だが彼女を前にしてするりと抜け出てきた。女の心に負担をかけまいとして、あくまでも下手に出た男だったが、それでも返事はなかった。


「……一緒の部屋で休むことになりますが、自分は決して貴女に触れないと約束しましょう。もし、これから先のことですが、互いに信頼を築けたならばどうか、許しの証として赤い花をいただきたい」


 無理強いはしないという確約と、女の方から与えられる許可。一方的な申し渡しであったが、女は確かに微笑んで、小さく「はい」と答えたのだった。






 三

 それから、男は出かける度に土産を持って帰るようになった。干し棗や花束、真珠をあしらった首飾り……どれも皆、女の好みが分らぬままに男が選んできた品である。それを喜ぶでもなく呆れるでもなく受け取る女はやはり何か言いたげな表情のままに男を見返すだけだった。


 互いを知るために設けた期間であったが、ぽつりぽつりと己のことを話すのは男だけで、女はただただ黙ってそれを聞いているのみ。それでも最初に妻合(めあ)わされた時よりは打ち解けてきたのではないかと男は考えていた。未だ笑顔もない女であるが、床につくときにはそっと男の背に寄り添うようにして眠るのだ。窓から差し込む月明かりに照らされた、まるで子供の様に安らかな寝顔の滑らかな頬に指を遊ばせ、男もまた眠りにつくのだ。


 そんな日々を繰り返し、あっという間に三月が過ぎた。男が自室の前の中庭で弦楽器を奏でていた時のこと。こっそりと物陰から様子を窺う女に気が付いた男は、悪戯心をくすぐられ、素知らぬふりで楽を奏で始めた。



 ――月夜の砂漠にさすらう男が求めるは ただ一つの花


 ――どこにあるかも分からぬ どこまで行けばよいかも分からぬ


 ――百夜、千夜を数えても 見つからぬかもしれぬ宝よ


 ――風が巻き男を苛む 男はただただ乾いてゆく


 ――たとえオアシスを飲み干そうとも 男の渇きは癒えないだろう


 ――真珠のような涙を流す 赤い花を見出すまでは


 ――どこだ どこにいる


 ――男は叫ぶ


 ――風よ この声を届けてくれ


 ――月夜の砂漠をさすらう男は……



 男は途中で歌を止めた。いつの間にか、隠れていたはずの女が傍に立っていた。


「歌の続きは……男は、花を見つけられたのですか?」


 か細いがよく通る声が問う。まるで蜜をたたえた花のようにしっとりとした声である。涙を含んだような声である。


 男が口を開いた時、争う声を置き去りに、槍や剣で武装した男たちが中庭に踏み込んできた。砂埃が舞い上がる。思わず男が取り落とした牛皮の弦楽器が悲しげな音を立てた。


「何事か」


 (うすぎぬ)の袖で顔を覆う女を背後に庇い、男は腹から声を出した。声を荒げたわけではない。だが、兵たちはその燃え上がるような眼に震え上がった。


 十人隊を率いていた兵長が緊張した面持ちで告げたのは、女を裁きにかけるために連れていくとの事であった。


「裁きとは」


 その問いに答えられる者はいなかった。

 諦めたような表情で兵士について行こうとする女を引き留めたのは、男からすれば当然のことであった。


 せめて、王妹としておかしくない格好で、きちんとした化粧をさせてやりたかった。本来なら裁きの場で無遠慮な視線に晒されるような身分の女ではないのだ。そして男も、その夫として恥ずかしくない、一国の将として出向くべきだと思った。


 ややあって、二人の支度は整った。女は質素な(うすぎぬ)を脱ぎ捨て、元の身分に相応しい絢爛(けんらん)な衣装に身を包んでいた。その胸元に。男が贈った白翡翠の蓮が、日の光を反射して輝いていた。

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