#47.暖かな日に
「ブラーツの世代交代は問題なく済んだが、やはりレイダムはダメか」
「ブラーツは先の王妃が決まって以来落ち着いていましたが、レイダムはずっと派閥争いが続いていましたからね」
ブラーツの先の王妃と言えば、王太子の婚約者だった母を追い出してその座に収まった女だが、ラファエル王が彼女を選んだ理由は自分の出自が危ういこと以外にないだろう。
それにしても、王の男児を二人産んでからとは言え宰相の子を孕むなんて……。城を追い出されなかっただけでも幸運だ。まあそれ以降は社交に出ることまで禁止され、未だに城から出ることも出来ないようだが。
「ハロルド派には一時政権をひっくり返すぐらいの勢いがあったらしいからな。分裂してしまうのも仕方がない」
「それは先帝がノバーノ遠征をしていた頃の話で、近年はそこまでではないでしょう。王弟いや、先の王弟の勢力も衰えが目立ちますし、分裂してしまうのはやはり今のネオルド陛下に力がないからかと」
「第四の勢力まで言われたハロルド派も今は昔か」
王弟なんて甥が国王となってしまった時点で影響力がなくなるか。
「しかし、ステファノス様が大陸を統一出来たのがそのお陰なんですから皮肉なモノですね」
「マリア妃と、それから母上もだ。二人が居なければ覇王の偉業は成し得なかった」
「レアンドラ様の貢献は本当に素晴らしいと思いますが、“三大国一の尻軽”に翻弄されたラファエル王達には同情します」
「厳密に言えば、翻弄したのはブラーツ王家の血であって彼女自身ではない」
敢えて弁護する言い方をすれば、彼女はその血を利用する権力者達の被害者なわけだ。ただ、自分で選んだ筈の王妃の地位からはみ出したことは全く弁護出来ない。結局はそういう人間なのだろう。
「レアンドラ様もその被害者ということですよね?」
「母が? ああ、そういうことにもなるか。いや、ダン・グレンデスは大罪人だ。マリア妃とは関係なしに裁かれただろうな」
「もしかして、陛下はあの噂を信じていらっしゃるのですか? ステファノス様とレアンドラ様の噂……」
何故そんな解釈になる?
「母がブラーツの公爵令嬢レアンドラ・グレンデスだったことは間違いない。下らないことを言い出すな」
「失礼致しました。申し訳ございません」
側近がこんなことを言い出すぐらいだ。母が死ぬまであの噂は消えないだろうな。
「そう言えば、レアンドラ様はまだ文通をしていらっしゃるのですか?」
「止めたとは聞いていないから続けているのではないか?」
中海を越えての文通なんて金ばかり掛かるから普通はやらないが、母はずっと続けている。いや、普通でないのは皇后である母上ではなく子爵夫人でしかないその相手の方だ。
筆頭公爵家だった母の実家グレンデス家が取り潰しになり、その直後に国王の出自に疑惑が浮かんで大きく屋台骨が揺らいだブラーツ王国。そんな状態を建て直したのは、皮肉にも、グレンデス公爵家の前の当主だった曾祖父だ。そんな曾祖父を補佐していたのが、母と文通をしているエリミアという女性だ。
その夫もラファエル王の側近と近衛を兼ねていた優秀な男だが、彼が一代で子爵にまで成れたのは奥方の貢献に寄る所もかなり大きいようだ。学園では母と成績を競っていたそうで、「算術ではまったく敵わなかった」らしい。有力伯爵家出身なら高度な教育受けていても不思議ではないが、あの母が「まったく敵わない」というのは想像が着かないな。
「陛下。お着きになりましたよ」
「ん? ああ」
帝都アクアファルナ郊外に位置する小山の頂上に造られた皇家の離宮。先帝が帝都を上から眺める為に造ったこの離宮は覇王と呼ばれた男の最期を見守り静まり返っている。覇業を成した父の最期の場所として相応しいと言える程豪奢な造りではないが、母は此処が好きだった。
目的地に入る前に立ち止まると、何も言わなくとも私を見送る素振りを見せた部下と家人。目で礼を言った私が其処に踏み出すと、柔らかな風が頬を撫でた。連日の寒さが嘘のように今日は暖かい。
日の当たるテラスの真ん中に出された荘厳なベッド。その上で寝ているのは生気の殆ど残っていない先代皇帝だ。皇太后はベッドの横に置かれた椅子へ腰掛け今際の際の父を静かに見詰めている。殆ど話すことが出来なくなった夫を寂しげに眺めるその姿から大国ヘムダーズを統べた女帝の風格を感じることは出来ない。
「今日は暖かいですね」
「リアノス。良く来たわね」
気を落ち着けて声を掛けると母は優しく返してくれた。しかし父に反応はない。一昨々日は返事があったのだから医者の言う通り長くはないということだろう。
「父上のお加減は?」
もう七十だ。大往生とまではいかないが、父は初めて大陸を統べた男。皇帝として少なくない功績を残し、最愛の人に看取られて逝くのだから満足だろう。
「明日まで持たないそうよ」
直ぐに返って来たその声は何故か明瞭としていた。思った以上に元気なようだ。
「寂しくはないのですか?」
「寂しい? それはないわ。貴方やファルフスが居れば充分よ。皇帝と成った息子と皇太子と成った孫が居れば夫が死のうと晩年は優雅に過ごせるわ」
優雅な晩年……此処に来て何故そんな小市民なことを……?
「私を皇帝にしてくれたことには感謝していますが、母上がそんなモノに価値を見出だしているとは思えません」
「将来安泰なのは間違いないわね」
将来安泰? 外見こそ四十にも満たないようにしか見えないが、老衰で死ぬような夫を持つ年齢だ。いったい何を考えている?
「……その為に私を皇帝に?」
「貴方を皇帝にしたのは全く別の計画の為よ」
「別の計画?」
「そう」
これだ。母はこうして何かを匂わせ意味有りげに笑う。そこにはきっと大きな秘密がある。確実に父も知らないそれが何だか分からないし、全てを語ってくれることは絶対にないだろう。ただ、
「……母上。貴女はいったい父に何を為さったのですか?」
今なら“何か“教えてくれる。何故だかそんな気がする。
「――――かしらね」
静かに、しかしハッキリと答えた母が私に向けたのは、先程の意味深な笑みとは全く異なる邪気の無い朗らかな微笑みだ。しかし、私にはその笑顔が怖かった。
女帝レアンドラの漆黒の瞳の奥にあったのが、慈悲なのか、それとも狂気なのか、その答えは誰も知らない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
鮮やかな金の髪と海のように深い碧の瞳を持つ長身の美丈夫、皇帝リアノスが立ち去り、再び先代皇帝と皇太后の二人きりとなったテラス。
春の暖かな日射しが射し込み、時折吹く柔らかな風が二人を包む。小鳥と木々が奏でる自然の音楽。香って来るのは咲き始めたばかりの春の花々の匂いだろう。立ち上がれば視界に入る帝都の街並みには喧騒が満ちているが、此処にそんなものはない。今この空間にあるのは穏やかな空気だけ、の筈である。
「――――か」
最早頭の向きすら変えられないステファノスの呟きは小さく、此処に静けさが無ければレアンドラは聞き逃しただろう。
「はい。そうですわ」
「な、ぜ?」
「ご自分の胸にお聞き下さいませ」
老体に対して酷い仕打ちをする女だ。先代皇帝は頭の中で愚痴を溢した。
しかし心当たりがない。レアンドラを皇后に迎えてからもステファノスは確かに側室を抱いていた。だが、彼女は只の一度としてそれに口を挟んだことがない。それどころか、後宮の長として側室同士の争いを仲介していた程だ。そんな時、通常なら夫に対して皮肉の一つや二つ言いそうなものだが、レアンドラは常に平然としていた。まるで他人事のように。しかも、本当に他人事だと思っているのなら自分に対して冷めた態度を取る筈だが、彼女から愛情を感じなかったことはない。ステファノスにとってレアンドラは、嫉妬をせずに夫に尽くす最高の女だ。
「わ、からな、い」
そもそも、ステファノスにはレアンドラにそんなことをされた覚えがない。彼に答えが出せないのも当然である。
「仕方がありませんね。冥土の土産に教えて差し上げますわ」
徐に靴を脱いだレアンドラは、ベッドに上りステファノスの上半身に覆い被さった。愛する夫に甘えるようにベッタリと密着した彼女はその耳元で小さく囁く。
「わたくしはヘムダリアの血を引いておりません。そして――――」
囁いたあとステファノスの唇へ長めの口付けを落としたレアンドラは、起き上がると同時に愛した夫の瞼をそっと下ろした。
恐ろしい程清々しい笑みを浮かべながら。
「大事なモノを奪われたから、大事なモノを奪った。それだけのことですわお兄様」




