#46.息子の疑問
五十代後半になる母レアンドラ・バン・グレンデス・ヘムダリア、“女帝”レアンドラには逸話が多い。
先ずはその誕生。誕生と言いつつ産まれた時の話ではない。父ステファノス・バン・ウル・ヘムダリアが母を帝国に連れて来た時の話だ。
北の大陸の大国ブラーツ王国を国外追放となった母レアンドラは、罪人としてレイダムに移送される途中で父に拐われた。示威行動でベタ島まで行った第一艦隊を使い皇帝が花嫁を連れ帰って来たのだ。国中で話題になるのは当然のことだろう。 それに加え、「女は子を産む道具」と言わんばかりの父が、人目を憚らず母を愛でる様子が度々目撃されていたらしい。当然、父が帰城した直後後宮は荒れた。約一ヶ月程、二日に一回は処分を受ける側室やその侍女が出たそうだ。
ただ、その騒動を収めたのもまた母だった。
僅か一ヶ月程で後宮に側室を出している有力貴族を黙らせたというのだ。たった数回、当たり障りのない社交に出席しただけで。父がこれに協力していたのは間違いないが、母はきっと舌戦で彼らを封じ込めた。
そう思うのは、私が太子に任じられる少し前に腹違いの兄を推す貴族と母の対峙を直接見たことがあるからだ。舞踏会で皮肉混じりに難癖を付けて来たその貴族を母は最初やんわりと受け流していた。何を言っても暖簾に腕押し、このままでは意味がないと悟った貴族が私に直接攻勢に出ると、母は貴族を怒らせて自分を標的にさせた。そこからが母の独擅場だった。騒ぎを眺めていた“観客”を巻き込み、如何に私が皇帝に相応しいか冷静に客観的に説いたのだ。相手を一切咎めることなく反論する余地を与えないその論理の展開に腹違いの兄弟達を推す貴族達は舌を巻くしかなかった。
あの時のように舌戦に勝利しただろう母は、父の寵姫の地位を確たるモノとしてから約5ヶ月後、ヘムダーズの皇后となった。母の逸話として語られるのは、正妃と成ることが正式に発表されたのがノバーノ・ラーダ神王国への出征式典で、任命式が行われたのがノバーノの首都ルデノバーノが陥落した日であったことだ。
――皇帝ステファノスは“女帝”レアンドラの為にノバーノを滅ぼした――
断言しよう。この逸話はあり得ない。何故なら、息子として三十年以上二人を見ていて父と母の関係が全く逆だからだ。
父の要求に母が応える場面は幾度となく見て来たが、母の要求に父が応えるところなんて見たことがない。いや、母が父に何かを要求するところなど見たことがない。何かする時母は父を頼ることをしない。父以外なら頼ることもあるが、どんな時も父だけは頼らない。理由は解らないが、それだけは徹底している母が正妃に成る前だからと言って父に何か要求することは無かっただろう。
いや、きっと母は父に生涯に一つだけ要求している。それは恐らく――――
父の先代も先々代もその前の皇帝も正妃を決めなかった。母は四世代ぶりの正妃なのだ。故に皇后の持つ強大な権力を直に感じたことがある者など当時は居なかった。これも母が“女帝”と呼ばれた一因だが、そんなものは只の“おまけ”だ。
母は、正妃に成ってから半年後、後宮に入って丁度一年後に私を産んでいる。数十年ぶりに次期皇帝として皇子が生まれたのだ。本来ならば国中が祝賀一色に染まる筈だが、実際そうはならなかった。肝心の皇帝がノバーノ遠征の最中だったからだ。
首都ルデノバーノ陥落までは破竹の勢いで侵攻していたヘムダーズ軍。妊娠中の母を陣中に呼び寄せるぐらいの余裕を見せていた父だが、ルデノバーノで国王を取り逃がしたあとは苦戦を強いられていた。奇襲に重点が置かれた相手の戦術に翻弄され始めたのだ。
前線が膠着状態に陥ると、必然的に後方で良からぬ事を考える者が出始める。皇帝の不在を突き少しでも実権を握ろうとする貴族、商人が帝都で暗躍することとなったのだ。皇帝が信頼を寄せる忠臣達は皆前線に出た状態で、帝都では小悪党がやりたい放題。終には皇族までもが動き出す。私が産まれたのは正にその頃、普段は父に胡麻を擂ってばかりいる叔父や大叔父達が動き始めた時だった。
私利私欲しかない小物達に大局を見ることは出来ない。帝国は崩壊し兼ねない状況に陥っていた。そんな時、不届き者を抑えつけ女達を纏め上げて国の危機を救ったのが、長男を無事出産し正妃に加え国母となって自らの地位を固めた四世代ぶりの皇后だった。
女帝が女帝たる所以はこの時の采配が故である。
皇后を中心とした女達に国の危機を救われた父は、一旦前線を下げて大きな方針転換を図った。ノバーノを支援していた他の勢力を先に懐柔又は殲滅することにしたのだ。
開戦前、ヘムダーズの勢力圏は大陸の約六割、ノバーノが二割程だったわけだが、それ以外の勢力は残りの二割を十以上に分けていた。同時に幾つかの勢力に侵攻しても五倍以上の戦力で攻め込むことが出来る。ノバーノ軍はあっという間に逃げ道を失って行った。
そして方針転換から僅か半年、ノバーノ・ラーダ神王国は完全にヘムダーズの勢力圏に囲まれ、三方陸から一方海から進撃を受ける状況となったのだ。これで勝敗は決した。ノバーノ国王は最期まで抵抗を見せ、全土を平定するには開戦から四年半の時間を要したものの、ヘムダーズは、父ステファノスは南の大陸を統一した。
遠征中父は何度となく一時帰城していたが城を開けていた時間の方が遥かに長かった。その間、皇帝の代わりに帝都で采配を続けていたのが女帝であったことは語るまでもないだろう。
母の存在無しに父の偉業は成り立たない。
皆がそれを知っているが故、父以上に母の噂は多い。その大半は取るに足らない戯言だが……。
例えば「重臣は皆女帝に玩弄されている」等という噂は事実無根だ。無謀にも母に噛み付いた愚か者が、父に一刀に伏せられたり、母に完膚なきままに叩き伏せられることは時折あった。しかし、そもそも母は一人で重臣に近付いたりしない。何故なら父は異常に嫉妬深いからだ。
例の誕生の逸話で母と一緒に部屋に居たというレイダムの当時の第二王子に警戒心を抱いた父は、皇后となってからもレイダムの使者を母に近付けなかった。また、それまでは後宮にも男の近衛が居たが、母が入ってからは女のみが採用されている。極めつけは私だ。八歳の私を母から遠ざけたのは、嫉妬が理由だろう。
父の嫉妬深さを理解している母が玩弄出来る程重臣に近付くわけがない。
しかし、全ての噂を噂で流せるかと言えばそうではない。
私が皇帝と成り八年が経ち我が息子が皇太子と成り二年が経とうとしている。こうなっては殆ど意味の無い噂ではあるが、流すに流せない噂が母にはある。いや、厳密には父と母の噂だ。
――ステファノス様とレアンドラ様は腹違いの兄妹ではないか――
六十年程前に先々代皇帝が滅ぼした小国ドゥ・ラーダ神国。そこから連れて来られた“戦利品”にアリアナという女性が居た。忌むべき慣習によって人質にされた彼女はやがて妊娠、一人の女の子を産んだ。その名はアテナ。真紅の髪と漆黒の瞳を持つその少女は、物心付いて直ぐの頃に母親を亡くし、以降祖父の娘とされて城の片隅で育てられた。
やがて美しい娘に成長した彼女を見初めたのが当時皇太子だったステファノス。決して結ばれない相手を本気で愛してしまったステファノスは一計を案じ、アテナとそっくりだったブラーツ王国の公爵令嬢、レアンドラ・グレンデスの身分を盗む事とした。
最後が荒唐無稽であるが、アリアナもアテナも公式記録に存在し、アリアナは死んでいるがアテナは行方不明だ。辻褄が合っているのがこの噂の信憑性の高い部分で、示威行動でベタ島まで行き花嫁を連れ帰ったという父の行動もこれで説明が付く。また、僅か一年で母がヘムダーズの貴族を掌握出来たのもそれが理由かもしれない。
なんて、私は母から聞いているのだ。十四の頃、素直に直接尋ねた私に母はこう答えた。
「わたくしはアテナよ。でも陛下とは血が繋がってないの」
そして続けた。母の父親は近衛騎士であって先々代の皇帝ではないと。しかしその事実を父は知らないらしい。「あの人には絶対秘密にしてね」と言った母が何を考えているかは解らないが、父以上に母には逆らえない。私には黙る以外選択肢がない。
それは兎も角、なんとまあ複雑な状況だ。母曰く、本物のレアンドラは少なくとも入れ替わった段階では生きていて、レアンドラを“譲ってくれた”そうだ。譲った方も譲った方だが、貰った方も貰った方だろう。母は私が思っている以上に波瀾万丈の人生を歩んで来たようだ。
そんな母だが、基本的には無欲な人間だ。ドレスも装飾品も必要以上に欲しがらないし、美食や美術品にも拘りがない。父が何人側室を囲っていてもそれに口を挟むことは無かった。地位や権力も、目的の為に必要ないと思えば直ぐにでも放棄するだろう。
しかし、母は目的に手段を選ばない人間だ。
母には一つだけ執着したことがあった。それは他ならぬ、
――私を皇帝とすること――
裕に二十を数える私の兄弟達を蹴落とすことには命を懸けていた。いや、母は皇后だったのだから基本的に皇位を継ぐのは私だった。だから実際追い落とす必要があったのは一人だけ、腹違いの長兄だけだ。だが、確実に蹴落とす為に母がやったことは実に冷酷だった。
母は長兄を戦場に送ったのだ。最も過酷な戦場に。
恐らく母が父に要求したのはあとにも先にもこれだけ。父も母の真意を察しながらこれに同意したのだから同罪だが、母が言い出さなければ上陸作戦なんぞに息子を送り出すことはしなかっただろう。
とまあ色々言われてはいるが、母は優しい人だ。情に厚く慈悲深い。それでいて賢く気品溢れる女性だ。冷静で客観的にモノを見ながら、自分を曲げない強さも持ってる。そして友人達とお喋りを楽しんでいる時は本当に楽しそうに見えるし、私には見せないが父と一緒に居る時は幸せそうにしている。
だから解らない。
何故執着した? 母は国母の地位に拘っていたわけではない。偶々そうならなかっただけで私を守る為なら自分の命も投げ出しただろう。皇后として権勢をふるったのも、母国の為と言うより私が継ぐモノを残す必要があったからではないだろうか? 当然長兄を葬ったのも――――
解らない。
母上。貴女は父を愛しているのに、何故そんなにも憎んでいるのですか?




