カワウソとクリスマス
季節外れの台風が来るというので、りん子は友達のカワウソのところへ行った。夏の台風の時は、水があふれて止まらなくなり、川底に眠っていた金銀財宝が流れてしまったと、本当か嘘かわからない話を聞いたのだ。
川に着くと、カワウソはいつものように鮭をとっていた。今日は上等なのを七匹も見つけたと言い、膨れた腹を自慢気に見せる。りん子は呆れ、それどころじゃないわよ、と言った。
「今度の台風は観測史上最大だって話よ。今のうちに避難しないと、あんたなんか芥子粒みたいに流されちゃうわ」
「なに、台風だと」
カワウソは岸に上がってきた。ひげをぴんと張り、小さな目を空に向ける。
「近いのか?」
「私もよくわからないの」
「お前、天気予報が唯一の特技だろ」
りん子はむっとして、雲を注意深く見た。いつもなら、空の色や風のにおいでだいたいの位置がわかる。でも今は、空全体にもやがかかったように、曖昧な予感だけが広がっている。
「おかしいわね」
雲の向こうに何かが潜んでいるような、じっと見られているような感じがする。
りん子とカワウソは川沿いの遊歩道を歩き、変わったところがないか探した。初めのうちは何度も空を見たり、猫や鳥たちの様子を観察していたが、しばらくすると忘れ、鍋や点心の話で盛り上がった。
「あれに登ってみよう」
カワウソが、ガラスでできた木のオブジェを指さして言った。透き通った緑色の木は、今はまだ裸だが、もうじきたくさんのオーナメントが飾られ、巨大なクリスマスツリーに変身する。
りん子は台風を探していたことを思い出した。カワウソはすでに、枝を器用に飛び移りながら登り始めている。
りん子は迷ったが、カワウソがどんどん高くへ行ってしまうので、コートを脱いで一番下の枝にかけ、自分もよじ登った。
ガラスは思ったより頑丈で、りん子が足をかけてもびくともしなかった。しかし表面がつるつるで、靴の滑り止めが何度も音を立てる。
「けっこう高いのね」
枝は上下等間隔、左右互い違いに並んでいる。一段ずつ登るうちに、手がかじかんでくる。下から見た時はそれほどでもないように思えたが、登ってみると公園の遊具よりもずっと高い。
見下ろすと、車や街並みがおもちゃのブロックのように見えた。りん子は枝に腰かけ、ひと休みした。白い息が、ガラスの幹を曇らせる。
「早く来い。見つけたぞ」
上からカワウソの声がした。数メートル先の枝で、尻尾を振って合図している。りん子は立ち上がり、再び登っていった。
「あれだ。台風の目だ」
カワウソは空を指さした。りん子は一つ下の枝にまたがり、両手で幹にしがみついて首を反らせる。
確かに目だ。空にぽっかり穴があき、そこから巨大な目が覗いている。
「あれは台風じゃないわ」
皿のような白目に、どんよりとした黒目。周りの空は暗く、重々しい空気が漂う。
ふと、目がぎょろりと動いた。りん子は真後ろに反り返りそうになり、慌てて体勢を戻した。よく見ると、大きな口と背びれ、さらには真っ黒なうろこがいくつも並んでいる。雲のように見えたのは、巨大な魚の体だったのだ。
案の定、カワウソは目を輝かせている。大物が自ら泳いでやってきたのだ。水かきの手を震わせ、今にも飛びかかっていきそうだ。
りん子は枝の上に立ち、カワウソの尻尾をつかまえた。
「待ちなさいってば」
「いいから見ろ、あのたっぷり詰まった身。この空の主に違いない」
「そんなもの食べていいわけ?」
「お前にも一切れぐらいは分けてやる」
その時、魚がひれをばたつかせ、突風が起きた。りん子とカワウソは幹に体を寄せた。
魚の背中に誰かが乗っている。小柄な体で悠々とまたがり、鞭を振って泳がせている。黒い煙のようなオーラを全身にまとった少年だ。
誰だ、とカワウソが言った。
「俺は闇の支配者だ。この魚は諦めな。俺にしか扱えねえ」
「ふん。思い上がりもいいところだ」
カワウソは赤い縞のマフラーを首からほどいた。りん子のお古をカワウソサイズに編み直したものだ。それを風に乗せて投げ、片方の端を魚のひれに巻き付けた。そして勢いよく足場を離れ、魚の背中に向かって飛んだ。
と、その時、マフラーの端がほどけ、魚のひれから口先のほうにずれてしまった。
魚はそれをミミズか何かだと思ったのだろう。ひくひくと口を動かし、ぱっと食らいついた。カワウソの体は宙を飛び、魚の口に引き寄せられていく。カワウソの尻尾を握っていたりん子も、あっという間に連れていかれた。
「ははは、いい餌にありつけたな」
闇の支配者は笑う。黒い髪とオーラが風にあおられ、台風のように渦巻いて見える。
りん子はカワウソの尻尾にぶら下がり、右へ左へ揺れた。冷たい空気が顔や足首を打ち、感覚が麻痺してくる。上を見ると、魚がマフラーをくわえ、じわじわとたぐり寄せていた。
「飛ぶぞ!」
カワウソが言い、尻尾をバネのように振り上げた。途端にりん子は逆さまに跳ね上がり、魚の息づかいを耳すれすれに感じ、うろこの黒光りを間近で見たかと思うと、背びれの手前にぽんと着地した。
魚の体は思ったよりも固く、ガラスの木と同じような質感だった。りん子は腰をさすり、落ちないようにしっかりまたがった。間もなく、カワウソもマフラーを使って飛んできた。端は魚に噛みちぎられている。
「まったく、食い意地の張った魚だ」
「あんたに言われたくないでしょうよ」
「おい、そこの小汚い少年」
カワウソはマフラーを巻き直し、闇の支配者に向かって言った。
闇の支配者は耳を貸さず、魚の脇腹に鞭をふるい続けている。
「叩くと味が落ちるぞ。魚は鮮度が命だ」
「うるせえ。カワウソのくせに知ったかぶるな」
闇の支配者は鞭を振り上げ、カワウソを打とうとした。
カワウソはひょいとかわし、闇の支配者の襟首に飛びついた。
二人は魚の背の上で転げ回り、揉み合った。魚はむずがゆそうに体をくねらせる。
「ちょっと! 止まりなさい」
りん子は背びれにつかまり、なだめるつもりで引っ張った。魚はますます興奮し、うねりながら高度を上げた。風が吹きつけ、カワウソが転がってくる。りん子はそれを腹で受け止めた。
顔を上げると、闇の支配者がいない。黒い跡が空中に点々と残っているが、本人はどこにも見当たらなかった。
「こりゃあ落ちたな」
カワウソはりん子の腕にマフラーをくくりつけ、背びれづたいに歩いていこうとした。すぐに首が絞まり、くえっと声を上げて尻もちをついた。
「こら、お前も歩かんか」
「無茶言わないでよ」
りん子はどうにか腰を上げ、カワウソの後ろを歩き始める。強風が吹くたびに身を縮め、背びれにつかまった。
「これじゃ背骨が歪んじゃうわね」
ようやく、尻尾が見える位置までたどり着く。後ろのほうが揺れが強く、立っているのもままならない。カワウソは乗り出し、いたぞ、と声を上げた。
闇の支配者が、尾びれに鞭をくくりつけてぶら下がっている。めちゃくちゃに振り回されながら、まるで自分のほうが操っているような顔で、右、左と魚に指示を出している。
りん子は背びれの端を握り、もう片方の手でカワウソのマフラーを握った。カワウソは渋々といった様子で、尾びれの際まで歩いていくと、鞭をぐいぐい引っ張った。
りん子は足を踏ん張り、マフラーを引いた。闇の支配者は小、中学生ぐらいの体格だが、なかなか持ち上がらない。
「少しは自分で上がりなさいよ!」
「俺を誰だと思ってる」
闇の支配者はそう言うと、猿のような動きで鞭をにじり上がり始めた。カワウソが握っている先端まであと少し、というところで、ぴしっという音が響いた。
魚が割れ始めた。尾びれの先から、瞬く間にひびが入っていく。
魚は身をこわばらせ、水脈のように走るひびを止めようともしない。
小さな音が休みなく続き、りん子の手の中で背びれのひだが砕けた。
「落ちるぞ!」
カワウソが叫ぶが早いか、魚の体は大破した。
そして、次の風で全てが吹き飛んだ。りん子とカワウソは真っ逆さまに落ちていく。
「見て、あそこ!」
吹き上げる風に逆らい、りん子は目をこじ開けた。闇の支配者が少し先を落ちていくのが見える。黒いオーラが彗星の尾のようになびき、さらにその先には、緑色に光るものがあった。
「木よ! 遊歩道のオブジェだわ!」
りん子はもがき、体をひねった。頂上に向かって落ちようものなら、三人とも串刺しになってしまう。
明かりのともったガラスが、いよいよ眼前に迫ってくる。ついに目を開けていられなくなった時、体中に強い衝撃が走った。
りん子は二つ折りにした洗濯物のような格好で、上のほうの枝に引っかかっていた。カワウソはマフラーを枝にとられ、危うく首を吊るところだったが、すぐ下の枝にうまく着地した。
闇の支配者は地面まで落ちたように見えたが、よく見ると片足に鞭が絡まり、逆さづりになっていた。
「ふう。全員無事だったってわけね」
りん子は腰をさすりながら起きた。さっきまで空にいたのが嘘のように、体がだるく重かった。
「おい、まだ何か降ってくるぞ」
カワウソが顔を上げて言った。夕闇に染まり始めた空から、無数の光が落ちてくる。光が光を呼ぶように、ガラスの木を目がけて降ってくる。
流れ星。雪。あられ。違う、もっといびつで尖った形をしている。
金銀財宝、商売繁盛、家内安全、と願い事をつぶやいているカワウソの尻尾をつかみ、りん子は急いで幹を滑り降りた。金属のこすれ合うような音が鳴り響き、辺り一帯が光に包まれる。
りん子は地面に尻もちをつき、ガラスの木を見上げた。枝にびっしりと、オーナメントが施されている。色とりどりで、不思議な形をしたものばかりだ。すぐそばの枝から一つ手に取ってみると、生き物のような質感とつやがある。
「これ、うろこだわ!」
「何だって! 中身はどこ行っちまったんだ」
カワウソは跳ね起き、魚の身を探して木の回りをぐるぐる走った。
「そう焦るな」
闇の支配者が、地面すれすれにぶら下がったまま言った。髪はめちゃくちゃに乱れ、顔に二、三カ所あざができている。
「下りられないの?」
「俺を誰だと思ってる」
闇の支配者はオーナメントと一緒に揺れながら、縛られていないほうの足で空をさした。りん子とカワウソが見上げると、小さな魚の形をした雲の群れが、鳥のように舞い降りてきていた。ふわり、ふわりとガラスの枝にとまり、光に照らされて白く輝く。
ふと、おいしそうなにおいが漂ってきた。白身魚をあぶったようなにおいだ。カワウソは舌なめずりをし、早速飛びついていこうとする。りん子も思わず手を出した。
「おっと、そうはさせねえぜ」
突然、オーナメントが稲妻のように光り、りん子とカワウソは後ろに弾き飛ばされた。全身がびりびりと痺れる。
「焼き上がるのはクリスマスだ。お前らにも半切れぐらいは分けてやる」
「ご親切に取り分けてくれなくて結構だ。自分で取りに来るからお前はそこにぶら下がってろ」
カワウソは闇の支配者の顔を叩き、闇の支配者はカワウソの尻尾をつかんで枝に結ぼうとする。ガラスの木が揺れ、尖った飾りがぶつかり合う。
「はあ、お腹がすいたわ」
二人が揉み合っている隙に、りん子は下のほうの枝を探り、ふわふわの身をいくつかこそぎ取った。焼き魚ばかりでは芸がない、家にある白菜やネギと一緒に煮込み、ぽん酢醤油で食べようと思った。食べきれなければ、あの二人にも四分の一切れずつ分けてやればいい。
ガラスのまたたきの合間に、空には星が上り始めていた。まるで台風一過のような、塵ひとつない夜空だった。